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「私、メンヘラの気持ちちょっとだけわかる気がする」
そう言って彼女はポケットから剥き身のカッターナイフを取り出した。チキチキと軽快に音を立てながら刃が押し出される。
「僕には分からない。」
その鈍色が向かう先に意識を向けてながら僕は返した。彼女はおもむろに左の袖口をまくりあげて、止めるまもなく、刃は彼女の白くて滑らかで細い腕の上を滑っていく。
血は出なかった。鈍色が切り裂いたのは空だけだった。
「切ると思った?」
「うん。」
「私は切らない。この瞬間も誰かは切ってるかもしれないけど」
また軽快な音を立てて刃が押し込められる。指先で1度弄ぶように回したあと、彼女は再び制服に剥き身のそれをしまった。
「それで、なんでメンヘラの気持ちがわかるの?」
「感覚ってさ、本能じゃん?」
「…そうだね?」
いつも突然、彼女の話は関係なさそうな言葉まで飛んでいく。何故か最後には綺麗に繋げられているけど。
「本能はさ、理性より強いじゃん?」
「まあ人間が動物である限りはそうじゃない?」
「それだよ。だからメンヘラはリスカとかレグカとセックスが好き。」
論理の飛躍が激しいのもいつも通りだ。彼女の中では完璧な道筋が立てられているようだが、それを理解できるものは少数なようで、かく言う自分だってその真意に掠ることができるくらい。
「つまり理性を本能が上回るからリスカとかが好きってこと?」
パーツを拾って出した結論を聞けば、嬉しそうに頷く。
「そういうこと。メンヘラって基本考えすぎなんだよ。考えすぎて、理性に溺れちゃうから、感覚に理性を殺してもらいたがる。」
「それ、酒とかタバコとかあとODじゃダメなの?」
「あれはねえ違うよ。」
ブレザーの胸ポケットから今度はシートいっぱいに詰められた錠剤が取り出される。身体中に諸刃の剣の道具でも仕込んでいるのだろうか。西尾維新の小説でもこんな子いなかったか。あれは文房具か。
僕がこんなどうでもいいことを考えてるなど露知らず、彼女は楽しそうに語り続ける。
「あれはねぇ、慢性的に理性を殺そうとした失敗作だよ。」
「もう少し詳しく。」
「んー…。感覚が、理性っていうか思考を支配するのって一瞬じゃない?」
「さっきのリスカみたいに?」
「そうそう。」
プチパチ。おおよそ1回で使い切ることの無い、大量の痛み止めが封をとかれる。
「でね、多分その感覚の支配を継続的なものにしようとしたのがお酒とかODなんだと思う。」
「でもできなかった。」
「うん。だってほら、アルコールを幾ら飲んでも、悩み事とかが飛んでっちゃうことって多分ないでしょ?」
僕と彼女は当然お酒なんて飲んだけことないけど、小説とか教科書とか新聞とかドラマとかから多分そうじゃないかと推測するのは容易かった。
だからね、失敗作。理性を殺せないで、中途半端に理性的で中途半端に感情的な動物を生み出す失敗さか。
嗜好品を失敗作と断じる彼女は楽しそうだった。ワンシート分取り出された真っ白い粒達は1錠だけ彼女の口に含まれたあと、消しカスを包むみたいにティッシュに包まれ彼女のポケットに収まった。
「人間の進化は理性を得たことじゃなかったのか。」
「あってるよ。私達は進化したそれらを今度は殺すために進化してるだけ。」
お取扱注意の理性とかいう奴は、やはり人間には早すぎたらしい。生殖して種の存続を望む本能があるはずなのに、その定義すら曖昧にし始めてしまうのだから。例えば今の僕達とか。
「やっぱり生きてるのってバカバカしいな。」
「でしょ?」
バカみたいに青い空の下で、バカみたいな話をしている僕達はやはり馬鹿だった。