第九話之六「合宿するの?」
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男子トイレ。鏡の前に立ち、もう一度顔を見ると、さっきより数倍やつれた自分が映っていた。
「はあ……。ルールなんて破るもんじゃねえわ……」
無断で合宿を強行した天罰だな。
……合宿なんて、やっぱりいいことなんて無い。アニメは所詮アニメ。運動部も文化部も同じだった。
「はあー……。この後どうしよう、マジで」
正直、浅川さんと二人きりということで、色々と妄想を巡らせていた部分もあったが、距離は詰まるどころか広がる一方だ。
用を足しながら、この後の気まずい夜を覚悟する。ここで合宿中止でもいいくらいだが、西校舎入り口の鍵が閉まっているとしたら、俺達はここで一夜を明かす以外に道は無い。
女の子の扱いに慣れていない俺は、ただ、浅川さんの復活を祈ることしかできない。我ながら情けない内弁慶である。
「……お、おりべッち、いる……?」
そう思っていた矢先、外から浅川さんの声。浅川さん、復活してくれたのか……!
逆の立場だったら、きっと、もう暫くは動けなかったと思う。精神的に傷を負ったとき、女性のほうが回復が早いというのは本当なんだな。
「おう! もう出るから、待っててくれ」
「……うん」
……やはり、まだ落ち込んでいるのだろうか。浅川さんは、少し沈んだ声で小さく呟いた。あんな暗いところにいつまでも待たせてるんじゃ、男じゃないな。
さっさと用を足して、指先だけ軽く洗い、髪の毛で拭き取り、ちゃっちゃと外に出た。
「お待たせ、浅川さん。……って、あれ?」
出口には、浅川さんはいなかった。出てみると改めて思うが、校舎内はかなり暗い。さすがに暗すぎたのか、女子トイレに戻ったようだ。
女子トイレを覗くと、まだ電気が点いていた。耳を澄ますと、女子トイレで、ゴソゴソと小さな音がする。
「浅川さん、お待たせ。……待たせてごめん」
女子トイレに向かって声をかけた。さっきは思わず入ったが、ここは女子トイレ、紳士としてはここで待つのが得策だろう。
「……ううん。じゃあ、いこっか」
……あれ? 女子トイレにいると思っていたが、すぐ後ろ、男子トイレの入り口のほうから、浅川さんの声がした。なんとなく、男子トイレと女子トイレの間辺りで待ち合わせのつもりだったけど、一階に繋がる階段側と男子トイレの間で、浅川さんは待っていたようだ。
「あ、ごめん、浅川さん。暗いから気づかなかっ――」
「うヴん。……ジャあ、こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「――――――!!」
声にならない叫び。もし声が出ていたら、きっと近所中に響き渡って、警察を呼ばれていただろう。それぐらいの衝撃が、俺の全身を駆け巡った。
――そこには、とても大きな頭をした、身体が前後反対にくっついてしまっている得体の知れない何かが、俺の目の前に立ち、部室とは逆方向へ俺を案内していた。
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
その”何か”は、ただひたすらに、同じ言葉を繰り返し、徐々に近づいてくる。俺の身体は、恐怖で完全に固まってしまっていた。
「む……、無理、で……す」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「こっチニ逝コッカ、オリベッチ」
「…………こっチニ、来ルんだヨ、オマエハ!!」
「……あああああ!浅川さん!」
“何か”は、俺のパーソナルスペースまで侵入した途端、ついに本性を現してきた。幸か不幸か、その衝撃で、俺の身体には電流が流れ、どうにか動けるようになった。
俺は、女子トイレに駆け込み、本物の浅川さんを探しにいった。
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「浅川さん!! 無事か!?」
「えっ? おりべっち?」
浅川さんは、まさに個室から出てきたところだった。やはり、俺が男子トイレで聞いた声は、浅川さんの声じゃなかった。このままじゃ何かが危ない。俺の本能が、カンカンと警鐘を鳴らしている。
俺は、またしても浅川さんの意思を聞かず、腕を引っ張り、トイレを出た。
「浅川さん! 大丈夫だ! 俺が守るから!」
「えっ? えっ? 何? なんで? まだ手、洗ってないんだけどっ……!」
“何か”がいた待ち合わせ場所には目もくれず、部室まで全力で駆け抜けた。
こういうこともあろうかと、俺のバッグには、対サキュバス用にと持ってきた、幽霊にも効きそうなアイテム一式が入っている。今すぐ部室に戻って、それを使わなければ。
「……オラァッ!」
換気用の引き戸を、足で蹴り破った。すかさず、浅川さんを部室の中へ押し込む。俺は後だ。今の浅川さんにアイツは見せられない。
「やっ、ちょ、お尻、触んないでっ……!」
「玲奈! 今はそんなこと言ってる場合じゃないんだ!」
「ええ……」
事情が飲み込めてない浅川さんは、どうしても進みが遅い。アイツの生態が分からない以上、今すぐに部室に入らないといけないのに……! 仕方ない!
「……オラァッ!」
「……えっ!? なんで? ちょっ……」
緊急事態。人工呼吸と同じ。もう女の子だとか、気まずいだとか関係ない。開いた引き戸の脇を掴み、浅川さんの臀部に自分の頭を押し当て、最大限の力で浅川さんを突き上げる。その流れで、同時に俺も部室の中へスライドしていった。
「……もう、何なの! さっきからおかしいよ! おりべっち!」
浅川さんの言葉を無視して、無我夢中でバッグの中から、効力がありそうなアイテムを取り出す。台所にあった、清めの塩を部室全体に振り注ぎ、部室の浄化を図る。念の為、引き戸から手を伸ばし、廊下に盛り塩を設置した。
そして、家の水道から汲んできた神秘の聖水を、清めの塩と同じように部室へ撒く。ただ、電化製品や、書類にはかからないよう、最大限の配慮を忘れずに。
「お前は知らんかもしれんが玲奈はそんな爆発寸前のスイカみてぇな頭してねえんだ、失せな
お前は甲子園球児の幽霊か? そんなガラガラ声じゃ騙せねえよ、お前の家族以外はな
笑っちまったぜそのボイス そんな声で騙せると思ったお前の頭はテラワロス
そのデケェ脳みそは何の為? 母ちゃんに小顔効果のある髪型にしてもらえよF○○K
今日は俺と玲奈の同棲初日 お前は一人で泣いてろ童○少年
羨ましがってるの分かってるぜ? こんな校舎に憑りつくお前寂しい人生そうなんだろ?
お見通しだ お前のボキャブラリは玲奈の胸元程度に貧相 人生経験薄すぎだろ本当
分かったらとっとと消え失せなアバヨ お前にお似合いなのはあの世」
これで終わりだ。幽霊みたいな存在は、ラップバトルに弱い。というのも、元来幽霊というものは、騒がしい場所は好きじゃないという性質を持っているからだ。
「え、ほんと、どうしちゃったの……。というか、なんか失礼なこと言ってなかった?」
「浅川さん! これでもう大丈夫だ! これで、もう――」
達成感と共に、俺の神経は擦り切れ、そのまま朝まで気絶してしまった。それ以来、あの”何か”には、会っていない(後日談)。




