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八章 ライクレス 98 決別

・・・六・・・


 二人が出て行くのと入れ替わりに黒い人影が櫓に入り、階段を信じられない速さで駆け上がって行く。櫓の中には誰もいなかった。その人影は最上階に着くと、ライクレスのいる部屋の扉を開けた。扉は内側から壊されていた。

 薄暗い部屋の中は階下と同じように壁一面に小穴が開き、光が撃ち込まれた咆吼を示すように同じ傾きで差し込んでいた。突き抜けた槍が床一面に突き刺さり、部屋内は槍林と化していた。その部屋の中央にライクレスが仰向きで倒れていた。

 胸には槍が刺さってはいたが、まだ意識はあった。ゆっくり近づく黒い影・・・ライクレスは僅かながら身体を起こそうとしたが、胸を貫いた槍のためにそれもできなかった。激しく咳き込むと血を吐いた。

「コーデラル、子供達を無事に送り届けたか?」

 階段を上がって来る足音で、影の正体が既に誰かを知っていた。

「ええ・・・あなたの望み通り元気に橋を渡って行ったわ」

「そうか・・・よかった。これで思い残すことがない」

 身体を起こすことも出来ず、横目で愛する妻を見た。

「あなたも精一杯戦ったわ」

「そうでもない・・・この様だ。・・・ここは危ない。早く行け・・・」

 コーデラルは傍に近づき、ライクレスの頭を膝に抱いた。格好は別れた時そのままだったが、顔はすっかり娘の顔に変わっていた。ミエコラル祭りの『月夜のランプ捜し』で初めて会った時の顔だった。

「あなたに二度と会わないつもりだったけど、やっぱりできなかった。あなたに嘘をついたまま別れたくないの。見て・・・何故かあなたと結婚してから年をとらないの。あなたにはとうとう打ち明けられなかった」

「・・・いいんだ・・・気づいていた。夫は妻の永遠の美しさを望むものだ。お前の命と美しさが永遠であるなら、お前の心に俺は生きられる。気にするな・・・俺は満足だ」

 コーデラルはライクレスの顔に自分の顔をくっつけた。ライクレスはコーデラルの髪を愛おしむように撫でた。妻の目から涙が溢れた。一度も話していない秘密を知っていながら、気づかない振りをして見守ってくれた夫に感謝した。自分だけが年をとらないのを今日ばかりは恨めしく思った。夫婦として最後の時間を少しでも長く過ごしたかったが、ライクレスの身体から流れる血が止まらない。血の海が広がり続けていく。

「もう行くがいい」

 ライクレスは目を閉じた。目がかすみ、開けていても意味がないのだ。

「駄目よ・・・最後まであなたの傍にいるわ」

 夫の顔から赤みが薄れていく。残された時間はもうわずかとなっていた。

「コーデラル、待てよ。木の上を跳ぶと聞いてないぞ。でも俺は絶対お前を捕まえるからな・・・もう少しだ・・・負けないぞ・・・」

 やっと聞き取れるほどの小さな声でつぶやく。夫の心が三十年前の『月夜のランプ捜し』に戻っているのを知った。顔からは苦痛が消え、柔和な表情になる。もう身体が苦痛を感じないのだ。

「・・・コーデラルだ・・・泉の妖精だ・・・なんてきれいなんだ・・・」

 夫の手が弱々しく空で何かを触るように伸びた。コーデラルはその手を握りしめる。ライクレスは尚も言おうとしたが、はっきりとした言葉にならなかった。それでも口元は笑っていた。コーデラルとの一番楽しい時を思い出しているのだろう。

 コーデラルは夫を抱きしめて泣き続けていた。ライクレスと生きた年月を一緒に思い出していたのだ。夫を助けることはできない。ただ旅立ちを傍で見送ってやるしかなかった。

 つらい時間は長く続かなかった。

 大きく息を吸い込み小さく吐いたかと思うと、夫の身体から力がすっと抜けた。この世に別れを告げたのだ。コーデラルは身体を揺り動かすことなく、温もりがなくなるまで抱きしめた。

 身体が冷たくなったライクレスをそっと横たえた。そして静かに立ち上がると、突き刺さっていた槍を引き抜いた。その穂先をしばらく見つめていたが、剣で断ち切ると布に包んだ。死に追いやった者の胸に、何時の日かその穂先を突き刺すためだ。妻として生きたコーデラルの一時代は終わったが、夫の無念を晴らすためにそれだけは必ずやり遂げようと誓った。

・・・さようなら・・・ライクレス・・・あなたにもう一つ新しい秘密ができたけど、話せなかった・・・許して・・・

 サイノスと愛し合ったことを言わなかった。コーデラルにとって、新しく生きるための歩みは始まっていたのだ。

 サイノス・・・逞しさと男らしさを持ち合わせた若者の出現は、ライクレスを失った胸に新しい希望の光を灯した。夫を亡くしてすぐに違う者に心を寄せるのは、だらしないかも知れない。しかしそれが明日への一歩であれば、夫も喜んで認めてくれると信じた。

 櫓の扉を後手で閉めた。扉が閉まる重々しい音が耳に届いた時、妻としての過去を夫の亡骸と一緒に葬った思いがした


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