五章 仮面 61 油断
・・・九・・・
シュットキエルを後にして数日過ぎた。鐘を運ぶ行軍はこれといった問題もなく順調に進んでいた。敵軍に出くわすこともなく、自国へ続く道をひたすら進んでいた。
ヘドロバは心地よい時間を過ごすために警護兵を付けず、コボスだけを常に自身の近くに置いた。誰からも老婆に見えたが、仮面を付けたコボスの目にはいつでもスターシャの姿に映っていた。それだけで満足していた。時折笑いあう二人の姿を目撃した兵士もいたが、それを仲間には話さなかった。それを口にしても信じてくれるとは到底思えなかったからだ。特に「ヘドロバが笑った」などと話したら悪い冗談だと一笑され、それでもしつこく食い下がったら相手を怒らせてしまうに違いなかった。
「あなた〜待って」
「遅いぞ、スターシャ」
夜が明けきらない前にヘドロバとコボスは宿営地を離れ、二人だけで馬を駆けさせていた。ショコラム王国の緑豊かな大地は、馬を駆けさせるのに適した限りない広がりがあった。並んでゆっくり走らせたり、競って思いきり駆けさせたりと二人だけの時間を満喫した。熱く甘美な時を過ごした後での遠乗りは、多少肌寒い朝であっても気持ちのいいものであった。時には草原で抱き合ったこともあった。
その日も遠乗りに出て、宿営地に帰って来たのは、朝食の時間を大分過ぎてからだった。セルタに早く帰ろうと普段通らないバイトル達の宿営地を進んでいた。正規軍の宿営地とは違って使い古した薄汚れたショルタが並び、その設営の仕方もだらしなかった。少し大きめのセルタが見えた。何ともなしに見たヘドロバの目が鋭くなった。コボスには何も告げず、いきなり馬をそのセルタに向かわせた。
「おい、何をしている」
ヘドロバが大声を出した。置き去りにされたコボスも後を追いかけ、ヘドロバの横に馬を並べた。
「 眼前で繰り広げられている信じ難い光景を見て絶句した。地面に大きな穴が掘られ、スープや肉が惜しげもなく棄てられているのだ。掘られた穴は一つや二つでなかった。それを示すように満杯のスープ鍋や肉皿が多く並べられていた。空になった鍋や皿は水洗いされ、荷車に手際よく積み込まれていく。
「何をしていると聞いているのだ。お前達には耳がないのか!」
黙々と作業していた者は、再度馬上のヘドロバから声をかけられて、初めて部隊の指揮者がそこにいるのに気が付いた。それでもそう慌てる様子も見せず、やっていることを別に隠そうともしないで、淡々と穴に流し込んでいく。手つかずのスープが惜し気も無く穴に流し込まれ、いい匂いが湯気と臭いが立ち昇った。
・・・わしの目の前でとんでもないことを・・・
ヘドロバに強い憤りの気持ちが湧いた。軍隊では兵数や装備も大事だが、食糧の調達は別な意味でそれ以上に重要だ。兵力を誇っても食糧がなければその力は維持できない。補給を受けられない遠征軍では食糧は特に重要な意味を持っていた。
・・・食欲旺盛な若い兵士の胃袋を満たしてやらねば、良い指揮者とは呼ばれない。わしは今回の遠征では軍の編成に口を出さなかったが、食糧の調達は自身でするなどして並々ならぬ力を注ぎ込んだ・・・
その苦労した食糧をいとも簡単に棄て去る行為を見逃せなかった。反逆罪に匹敵する行為と捉えた。
コボスはヘドロバの顔色が変わったのを敏感に察した。不思議なことに仮面をつけて見ているのに、スターシャの顔が消え、ヘドロバの顔にしか見えなかった。
・・・心までがヘドロバになっている。怒りを爆発するぞ。せっかくいい気分で帰って来たのに・・・
「おい、何をしているかとヘドロバ様がお聞きだ」
コボスが大声を出した。この場を穏便に収めようと思っていた。
「見ての通りです。朝食の残りを棄てているのです。出発前には鍋を洗い、荷車に積みこまなければなりません。炊事兵をのんびり本隊は待ってくれません」
炊事兵の一人が面倒くさそうな顔をして説明した。せっかくのコボスの気遣いにも気付かず、ヘドロバの怒りと自分達の危うい立場を全く認識していなかった。
「指揮官は誰だ?」
口で答えず兵士達は一人の男に目を向けた。どうやらその男が炊事兵の上官らしい。
「私です。ベルサラマデタと言います」
「うつけ者!」
ヘドロバがいきなり名乗り出たベルサラマデタを、持っていた鞭でぴしゃりと打った。コボスがいるから剣を帯びていなかった。剣を持っていたら情容赦なく首を刎ねていただろう。はげ上がった額から忽ち一筋の血が流れた。
「何をなさいます!」
ベルサラマデタは怯むどころか、憤慨した口調で言い返した。
「打たれて当然だ。お前は罪を犯したのだ。思い当たらないのか?」
「はい、全くわかりません。お教え下さい」
怒りが増していく。ベルサラマデタは怒りの理由など全く考えようとせず、責められているとも思ってない様子で馬上を見上げていた。炊事班の指揮官と名乗ったベルサラマデタは、日々の生活振りがそのまま出ている体型をしていた。膨らんだ頬、二重顎、大きく突き出た腹、手袋をしたような太った手、遠征軍の中にも太った兵士はいるが筋肉太りであり、ベルサラマデタのようにただ太っただけの男はいなかった。炊事兵の特権を生かして、一番美味いところを好きなだけ食べている明らかな証拠だった。
・・・食糧調達には力を入れたが、兵の編成に関心を向けなかったのがこんな形で出てしまった。こんな男が指揮しているとは・・・
「誰かわしの怒りがわかる者はいないか?」
返事がなかった。ヘドロバの苛立ちが最高点に達した。小さく馬を回すとコボスの傍に寄せ、無言でコボスの剣を引き抜いた。そして片手で一振り、二振りして馬を返してベルサラマデタの横につけた。
「おおっ」
炊事兵達は剣を抜いたヘドロバを見て、初めて怒りが本物であると知った。
「どうした?・・・いないのだな・・・」
ヘドロバが太ったベルサラマデタにさらに近寄った。誰の目にも馬上から斬り付ける格好に見えた。
「お助け下さい。お助け下さい」
それまでのんびり構えていたベルサラマデタも殺気を感じ、恐怖に包まれて大きな体をがたがたと震わせ始めた。太った男の震える姿は普段では奇妙で面白いはずだが、この場においては凄惨な光景の前触れとして醜かった。
・・・ヘドロバも抜いたからには後へは引けない。かといって俺が止めるわけにもいかない・・・
コボスもベルサラマデタ一人の命は仕方がないと思った。引き止められる状況はとっくに過ぎていたのだ。それでもヘドロバの怒りを静める者がいないかと部下の炊事兵を見たが、誰もが真っ青になって震えているばかりで望み薄だった。
ヘドロバの右手に力が入った。後は腕を上げて斬りおろすばかりになった。
「お待ち下さい。私が意見を申し上げてもよろしいでしょうか?」
やっと声が上がった。
コボスが見ると炊事班でも下級兵なのであろうか・・・汚れた前掛けをかけ、大鍋を洗った時の煤を顔に付けた男が名乗りを上げた。煤の化粧をした憎めない顔の男以外に声を出す者もなく、その男に話させるしかなかった。
・・・こいつは賭けるしかない。土壇場で出て来るからには、少しは勝算があるに違いない・・・
「ヘドロバ様、話させてみてはどうですか?」
「うむ。聞く耳を持たぬわしでもない」
その言葉を待っていたように、ヘドロバはコボスの傍に戻ると剣を渡した。その顔はスターシャに戻っていた。心の怒りが少し収まったことを示していた。
手渡された剣をコボスは鞘に納めないで、抜き身のままで自分の鞍に置いた。その男がヘドロバを説き伏せればいいが、彼女を余計に怒らせた場合を考えていたのだ。
・・・ヘドロバの時には彼女は過ちを犯した者を厳しく断罪する。でも今はスターシャに戻っている。そんな彼女に剣を渡して、不興を買った二人を斬らせるわけにはいかない。俺が斬るしかない・・・
若い炊事兵にも抜き身の剣は見えていた。自分の首を刎ねるかも知れない剣に一瞬目をやったが、臆する様子もなくはっきりとした口調で話し始めた。
「炊事班のクレドポーといいます。私が考えますに、棄てるほど食べ物が残るのは二つの理由しかないと考えます。私達が作った食事が余程まずいか人数の読み違えです」
「その通りじゃ。理由はそれしかない」
ヘドロバは大きく頷いた。その様子を見てコボスは剣を鞘に収めた。
「私達にも誇りがあります。これまで残飯など出させませんでした。むしろ足りないと兵士達から文句を言われるのが常です。今回の遠征では食糧が多めに用意されていて、兵士達から不満も出ず、私達も助かっております。それはベルサラマデタ様をご覧になれば納得できるでしょう。軍の食事だけでこれだけお太りになられました。しかも御自身が美食家で味には口やかましい方です。不味い食事を作るのをお許しになりません。だから我々は兵士に出す食事の味には、絶対の自信があるのです」
「うむ・・・」
「ところがここ二日ばかりですが、目にされているように大量に残るようになりました。味はいい・・・しかし多くの残飯が出る。とすれば私が思いますに、相当数の兵士がこの部隊を離れていて、その連絡が何らかの理由で私達に伝えられてないかと。兵士の減少しかこの状況を説明できないのですが、炊事兵が各部隊を見て歩くのは許されていません」
クレドポーの言葉に、ヘドロバとコボスは互いの顔を見合わせた。そしてあることに考えが及んだ。
「残飯の量から考えるにどの位の兵がいないと思うのじゃ?」
「四千人前後の兵がいないはずです」
・・・四千人。一部隊千人として四部隊か。部隊単位で抜け落ちている・・・
「ヘドロバ様、本陣に戻って各部隊長を招集しましょう」
「コボス・・・・まさか・・・」
「そのまさかでしょう」
「よし!大急ぎで帰るぞ」
ヘドロバは馬に鞭を入れようとしたが、その前にクレドポーの姿が目に入った。無益な殺生をして、二人の評判が落ちるのを止めてくれた機転に感謝しなければならない。
「この部署にお前を置くのは勿体無いようじゃな」
この有能な炊事兵に褒美を与えようと思ったが、遠乗りの帰りで持ち合わせが何もなかった。
「これはひとまずの褒美じゃ。取っておけ!」
左手の腕環をはずすと、首に巻いていたスカーフに包んで投げ与えた。クレデポーはしっかりとそれを受け取った。瞬間目が合った。
「コボス、急げ」
「はい」
二人は馬のわき腹をけると、砂ぼこりを巻き上げて本陣を目指した。二人の姿が瞬く間に小さくなって見えなくなった。
・・・面白いお方だなあ・・・噂ほど怖いお人ではない・・・
クレデポーのヘドロバに対する印象はいいものになっていた。
「お前のおかげで命拾いしたぞ」
真っ青になって震えていたベルサラマデタが、両手を握って感謝した。ぶよぶよの生温かい手で握られてその気持ち悪さに身震いしそうだったが、その素振りも見せず
「いえ、ベルサラマデタ様の舌があってこその言い訳でした。味について自信が持て、怖れずにヘドロバ様に申し上げられました」
「そうか・・・そこまでわしをわかってくれているとは・・・」
「はい」
「お前はヘドロバ様に認められた。あのお方が必ず引き立ててくれるだろう。わしも口添えするぞ」
「ありがとうございます。少しは希望が持てそうです」
ヘドロバが投げてくれた腕環を自分の腕に通してみた。細いヘドロバの腕環が自分の太い腕に合うはずないと思ったが、すんなりと腕に通せた。
・・・この腕輪をずっと前からしていたようだ。スカーフはどうしたものだろうか・・・
腕輪を包んだスカーフの匂いを何気なく嗅いだが、老婆がつけていたものとは思えないいい匂いがした。捨てるのは気が引けてそのまま自分の首に巻いた。スカーフの柔らかい感触も好きになりそうな気がした。




