五章 仮面 58 ヘドロバの底力
・・・六・・・
広場では鐘を載せた荷車を真中にして、兵士達はとっくに出発の準備を終えていた。その中でイロガンセ将軍が予定時間になっても現れないヘドロバに軽い苛立ちを覚えていた。
「お前達、コボス殿と出会った話しは本当なんだろうな」
「間違いありません。コボス様がヘドロバ様をお連れになります」
迎えに行った兵士達は何度も同じ質問をされてうんざりしていた。苛立っている将軍にコボスから叱責された話しは口が裂けても言えなかった。
「う〜ん」
他人に任せず自分で迎えに行った方がよかったのではないかと後悔した。兵士ではヘドロバに念押しするのは無理であった。兵士達に前将軍のコレーションの首を斬り飛ばした話は知れ渡り、多少の尾ひれも付いて恐ろしい魔女としての恐怖心を植え付けていた。それにザイラルを打ち負かした新しい警護役であるコボスの剣技も見ていて、国王から信頼されているヘドロバの間違いのない予知能力も改めて怖れの対象となっていた。
椅子から立ち上がって歩き回ったり、背伸びをしてヘドロバが現れそうな道をうかがったりと少しも落ち着かない様子を見せ、椅子に座った時は爪を噛みながら貧乏揺すりをして、その小心者振りをいかんなく発揮していた。
「一体どうされたというのだ?時間をお決めになったのは御自身なのに」
もう一度迎えの兵士を送り出そうと考えた時、
「イロガンセ様、お二人が見えます」
「本当だな。よ〜し、出発するぞ。隊列を組め」
待ちかねていたイロガンセ将軍が、二人の姿を認めると大声で命じた。
「お待ちしておりました。隊列も組み終え、後はご命令を待つだけです」
全兵士の目がヘドロバに注がれた。白い仮面姿のコボスとは訝しがる視線を投げた。しかし遅れて来た理由とコボスの仮面について聞こうとする者はいなかった。
「出発命令を出せ」
「わかりました。ところでヘドロバ様、少しお疲れの御様子に見えますが、出発を遅らせましょうか?」
将軍はヘドロバの顔がいつになく赤みを帯び、腫れぼったい目をしているのを見て、気を利かせて尋ねた。コボスとの熱い時間を過ごしたせいでそうなっているとは夢にも思わなかった。
「その必要はない。出発させろ」
そう言ってヘドロバは馬に乗ろうとした。そのヘドロバを助けようとコボスが手を貸す。意気の合った動作だ。
「ヘドロバ様、馬に乗るのをお手伝いしましょう。お腰がふらついていますよ」
「あなたのせいよ。ヘドロバの私を激しく愛するから・・・」
二人のささやきは誰にも聞こえていない。仮面の力でスターシャに見えるコボスがヘドロバをからかっているのだ。ヘドロバは嬉しくて仕方がないが、笑顔を見せられず必死で自分の気持ちを押し殺していた。それを承知でコボスがふざけているのだ。
「ヘドロバ様、お待ち下さい。出発前にお尋ねしたいことがあるのですが・・・」
戯れの余韻にヘドロバが甘く浸っているのを邪魔して、いきなり声をかけた男がいた。その声の出所は前の警護役のザイラルだった。ザイラルは警護役をコボスと替わっていたが、一部隊長としての地位は失っていなかった。
「何だ?」
現実に引き戻されたヘドロバはザイラルに物憂げな表情を向けると、不機嫌そうな声で聞いた。甘くて心地よい気持ちを遮断されたのが癇に障り、聞き返した言葉に幾分かの棘があった。
ザイラルはあからさまに不快感をぶつけられて内心後悔もしたが、どうしてもここで部下達に自身の存在感も示しておきたかった。老獪なザイラルはでしゃばるべき頃合の読みは正確であった。
「ヘドロバ様はこの鐘を捜し出された時に、何らかの細工をした者達にお怒りだったはずではないのですか?前将軍もそのせいで御不興を買ったのか、命を落とされました。ヘドロバ様をお恨みできない私どもとしましては、細工した者どもに制裁を加えねば気持ちが収まりません。兵士達の士気にも響きます。ぜひ将軍の敵討ちをさせて下さい。ドルスパニア王国軍としては将軍を失ったままで引き下がっては、陛下に対して顔向けができません」
陛下の名前を聞くと全兵士が姿勢を正した。行軍前のざわつきが消え、武具の触れ合う音と馬のいななく声だけとなった。しかし既に兵士達は、内心ではザイラルの考えに同調する気になり始めた。
兵士達も長い遠征に飽いていた。敵兵と一戦も交えずに帰還するのは無難で喜ばしいが、若者らしく鬱憤を晴らせるものが何か欲しかったのだ。ザイラルが口にした交戦国の村人達への制裁話は危険も少なく、眠っていた闘争心を目覚めさせるには十分だった。
「そうだ、そうだ、敵討ちだ」
「卑怯な村人どもを皆殺しにしろ」
「門出の血祭りだ」
「将軍は悪くない!悪いのは奴らだ」
「我ドルスパニア王国軍に栄光を!」
興奮した兵士達は剣を抜くと盾を柄で叩き、足で地面を踏む鳴らしながら口々に叫ぶ。鎧と盾の音も混ざり殺伐とした中で、生まれたばかりの怒りの感情が集団を包んだ。すぐにでも戦える軍団に姿を変えようとしていた。
一度火がついた気持ちを鎮めるのは容易ではなく、ザイラルの描く方向にむかって事が進み始めていた。
・・・うまく場が盛り上がった。皆不満を抱いているからな・・・
ザイラルはヘドロバの傍に立つコボスを横目で見ながらこの意見を言った。コボスがこの村の出身で、しかも脱走兵という事実をレヨイドから聞いていた。しかしそれをここで明らかにするつもりはなかった。後々もっと決定的な場面で使おうと考えていた。
・・・コボスの正体はここでは不要だ。何故なら細工をした者が村人であると誰にも想像できるからな。わしの目論みは、村人に制裁を加える申し出をして、軍での評判を確固たるものにすることだ・・・
コボスに敗れはしたものの、部下達の信頼は掴んでおり、それを他の兵士達まで広めたいと思っていた。自分を尊敬する兵士が多くいればいるだけ遠征軍の中で力を伸ばすことができる。それに親友のコレーション将軍を斬ったヘドロバに対しても、皮肉を込めた復讐心が含まれていた。
・・・兵士達も村人達に制裁を加えた後で冷静になれば、無抵抗の者を斬り殺したと後ろめたい気持ちになるだろう。その時には提案者のわしより、命令を下したヘドロバのせいにして気持ちの整理をするはずだ・・・
ザイラルは兵士達の抱く気味の悪い老婆とのヘドロバ観に、無抵抗の村人を制裁した残虐観を付け加え、全ての悪感情がヘドロバに向くように手を打ったのだ。
ヘドロバは馬から下りて壇上に上がり、血気盛んな兵士達の叫び声も気にならない様子で騒ぎを黙って見ていた。そのまま出発するつもりだったが、余計なザイラルの言葉がそれを阻んでしまった。
彼女の緩慢な動作もあってか、兵士達の叫び声と所作は大きくなった。
彼等の温和な顔が、戦いを目前にした兵士特有の異様な眼光と形相を宿す顔に一変している。目が血走り裂け切らんばかりに見開かれていた。一緒に戦う感情を表さなければ、傍にいるだけで害されてもおかしくない雰囲気だ。
仲間の動きにも誘発されてそれが一段と高まる。ザイラルの目論み通り、いきり立つ兵士達をなだめるのは難しい空気が満ちていた。
へドロバが動き始めた。
兵士達には理解し難い微笑を浮かべると、前将軍の首を斬り飛ばした細身の剣を片手でゆっくりと抜いた。そしてその剣を両手で握り直すと頭上に高く掲げた。剣は折からの光を受けてきらきらと輝く。声高に叫んでいた兵士達は、剣が抜かれた時から騒ぎを中断して静まり、壇上のヘドロバに注目した。静まるように誰に命令されたわけではないが、それだけの威厳と底知れぬ力をヘドロバは持ち合わせていた。
大勢の兵士が見ている中でその剣は尚も輝きを増し続け、小柄な彼女の姿をまぶしさで見えなくした。彼等は手をかざして光を避けたが、輝きは一向に収まりそうもなかった。目を閉じても明るさを感じた。
そうしている内に剣から放出された光が軍全体を包み込んだ。その光を浴びると兵士達の表情に明らかな変化が現れた。光に包まれると気持ちの落ち着きと心の安穏を感じるのか、怒りが消えて普段の表情に戻っていった。
・・・すごい力だ。ヘドロバの力は推し量れない・・・
仮面を付けたコボスはその一部始終を冷静な目で見ていた。
兵士達から殺気が消えた。彼等は夢から覚めたように抜いた剣を鞘に納め、部隊毎に決められた位置に整列し始めた。ザイラルの表情も穏和になっていた。さっきまでの作為に満ちた悪感情が消え、自然と列に戻ってしまった。
ヘドロバは仕上げにかかった。兵士が落ち着き列に戻り出すのを見届けて、初めて剣を下ろした。剣が鞘に納まった時には、兵士達は行軍できる態勢になっていた。コレーション将軍の時は王家の紋章を見せて国王の力を後ろ盾にしたが、今回は自身の力によって全軍を押さえ込んだ。
兵士達が整列を終え、ヘドロバに注目した。
「コレーションの首を斬り落としたが、鐘と関わりがあったからではない。それに誰かが鐘に施したへたな細工など持ち帰ればどうにでもなるのじゃ。それより皆、目的は達した。後は家族が待っている故郷、ドルスパニアにひたすら帰るだけでいい。村人相手と安易に考えている者もいるだろうが、我軍にも犠牲者が出るのも覚悟しなければならない。何もここで無駄に血を流すこともなかろう。そんな危険を冒しても得るものはない」
一気にしゃべった。聞いている兵士達が頷き始めた。もう一息だ。
「ほとんどの者が納得したであろう。それでも・・・わしの命令に背き、どうしても戦いたい者は前に出て来い。この場で軍務を解いて自由にしてやる。この地に残って心ゆくまで戦うがいい」
兵士達を見廻すヘドロバの身体から、今度は本物の不気味な妖気が立ち昇った。意見を言ったザイラルも圧倒され、思わず数歩後ずさりした。
「そうだ、戦いをするなと厳命されていた」
「我々の任務は鐘を持ち帰ることだ」
「戦死者はおろか怪我人も出ない遠征は、国でも教えられたことがない」
「このまま帰れば王国軍史に名を残せる」
既に怒りを静められた兵士達はヘドロバの『故郷に帰る』という言葉に素直に反応した。他国の山深い土地で聞く故郷という言葉の重みが、平時に倍する程の望郷の念を呼び起こした。
兵士達は帰還を前向きに考え始め、ヘドロバの言葉に従う姿勢を見せた。ザイラルは小さく舌打ちしたが、それ以上ヘドロバに反旗を翻す気持ちは失せていた。
「各隊、出発!」
イロガンセ将軍がその場の空気を読んで、絶妙な間合いで号令を発した。続いて各部隊の隊長が順番に自分の部下に命令を下していった。ヘドロバはイロガンセ将軍、コボスと一緒に軍の先頭に立った。




