四章 スターシャ 48 出発準備
・・・九・・・
コボスが次に目覚めたのは、目の前に天井が迫る小さな部屋だった。壁の棚には、本と薬瓶が隙間なく並んでいる。室内には誰もいなかった。
・・・ここはどこだろう?スターシャが最後にくれたものを飲んだ時から記憶がない・・・ヘドロバの屋敷の中ではないようだ。周囲から人のざわめきが耳に飛込んで来る。頭はどんより重い感じがして、目覚めの気分はよくなかった。
「おはよう・・あなた・・・よく眠れた?」
スターシャが入ってきた。新妻らしい言葉を口にして、それをはにかむ表情を見せる。
「ここはどこだ?俺はどうしていた?」
「酒場の二階よ。あなたは薬のせいで数日眠っていたの。目覚めたばかりで悪いけど、すぐに私と出かけて欲しいの」
「急な話だがどこへ行くのだ?」
「あなたの村よ。私の警護役として同行してもらうから、そのつもりで振る舞って。詳しい役割は後で教えるわ」
スターシャにしては珍しい否応言わせない口調だった。シュットキエルを捨てたわけを知らないスターシャではないはずだった。
「嫌だ!俺は行きたくない。もう村は捨てたんだ」
コボスも即座に自分の気持ちを伝えた。
「あなたの気持ちはわかっているわ。できれば、私も行かせたくないわ。でも屋敷に残して行くのは嫌。私の望みよ。お願い」
「しかし・・・。俺は戦死したように戦場で細工した。戦死は村に伝わっているはずだ。死人が生き返るわけにはいかないだろう」
心配事を口にした。心の中で仲間が全滅した戦いを、シュットキエルとの決別と決めていたのだ。同時に一人残った姉への思いも断ち切っていた。
「村には伝えられてないわ。それならいい?」
「他に断る理由がない。でもどうしてシュットキエルに行くんだ?」
「それは道すがら詳しく話すわ。もう時間がないの」
スターシャの指示通りに身支度を整えた。二度と着る機会はないと思っていたコボスが着せられたのは、ドルスパニア王国の軍服だった。それも一般兵のものではなく、高級将校が着る華麗なものだった。
「軍服姿がよく似合うわ。その格好でサービアを歩けば、若い娘がみんな振り返るわ。私の警護役として皆に引き合わせる時は、それらしく堂々としてね。私の警護役には望んでもなかなかなれないのよ」
服を着せると青鞘の剣を渡した。鞘には翼のある本の図柄が描かれていた。『誓いの書』を意識した図柄に、スターシャの気持ちが表れている気がした。
「そろそろ行きましょう」
スターシャは準備が整うと、覚悟を決めたように出発を促した。コボスの華麗な軍服と違って、スターシャの服は極端に地味だった。怪しげな老婆のヘドロバを演ずるには、服の意匠や色を問わない黒服が似合うのかも知れない。
「ねえ・・・もう一度最後に私を強く抱きしめて」
スターシャが言わなくてもそうするつもりだった。コボスは妻を強く抱きしめ、長い口づけをした。
「目を閉じて。私が呼びかけたら目を開けていいわ」
名残惜しげに身体を離すと、スターシャは背を向けた。ヘドロバに戻るつもりなのだ。
「もう、いいわ・・・目を開けて」
言葉が出るまでに、長い時間がかかった。
コボスは静かに目を開けた。
スターシャの姿が消え、あの老婆、久々に見るヘドロバが目の前に立っていた。身体も一回り小さくなって、さっきまでなかった顔のしわが表れ、それも一本一本はっきりと見えた。スターシャとヘドロバが一緒だと聞いていなかったら、恐ろしさで逃げ出すか、驚いて大声を出していただろう。スターシャの面影が何一つ残っていなかった。何か言葉をかけようと思ったが、きっかけが掴めなかった。気軽に話しかけられない空気が漂った。
「驚いた?これも私。そんな顔して見詰めないで。恥かしいわ」
声もしわがれた老婆そのもので、スターシャの心地よい声ではなかった。そこには今にも倒れそうに見える弱々しい一人の老女がいた。コボスは、スターシャの心の震えを感じた。どうにかして慰めようと思い、一歩、また一歩と近づくと・・・背中に手を回して強く抱きしめた。かさかさの彼女の頬に自分の頬をくっつけ、「スターシャ、約束通り一緒に歩もう。俺達はもう夫婦だ。もっと屋敷で楽しみたかったな・・・可愛い奥さん・・・」とささやいた。
ヘドロバは抱かれたまま何も言わない。ただじっと抱かれている。『強い心の持主』とヘドロバを評したスターシャの言葉が浮かんだ。
ヘドロバはコボスが体を離すと、冷静な声で階下に下りるように指示した。心を切り替えたらしい。
一階に降りた。早朝の盛り場には人気はなく、しんと静まり返っていた。
「コボス、私はこれでも部隊の指揮者なのよ。あなたは警護役として常に傍にいる役目よ。一歩外に出たら、大勢の兵士が注目するわ。兵士の前ではヘドロバで通すけど、二人だけの時にはスターシャに戻るわ」
「俺は、警護役を立派に務めればいいわけだな」
「そうよ。それと、夫として私にやさしくしてね」
「勿論だとも」
ヘドロバに姿を変えたスターシャは、コボスの服装をもう一度整えた。




