四章 スターシャ 45 契
・・・六・・・
屋敷に来て十日にもなるのに、ヘドロバからは何の音沙汰もなかった。スターシャは行先を知っているようだが、聞こうとすると決まって話題を変えた。ヘドロバが戻るまで留まると約束した以上、帰りを気長に待つしかなかった。これほど待たされるとは思っていなかった。
「御機嫌いかがですか?今日は鏡の間をご案内しましょう」
スターシャは飽きさせないためか、屋敷の隅々まで案内してくれた。広大な館には数え切れないほどの部屋があった。どの部屋も素晴らしく、その都度素朴な驚き顔をするコボスにスターシャは笑いを隠さなかった。
「コボス様は子供のよう。そんなに驚かれなくても」
「こんな立派な部屋を見て驚かない者はいない。ヘドロバ様とやらはいい感覚の持ち主なのだなあ。ぎらぎらした飾りもなく、気持ちよさを感じる」
「その言葉を聞かれるとお喜びになりますよ。さあ次の部屋に行きましょう」
外に出られなくても、スターシャと腕を組んで歩くだけで気持ちが晴れた。それに夜は夜で大きな浴槽に入る楽しみもあった。スターシャは甲斐甲斐しく世話をしたが、最初のように体を洗わなかった。コボスもその方が気持ちよく過ごせ、のんびりと心ゆくまで湯に入れた。
コボスは屋敷で過ごす内に、スターシャ以外に使用人がいないのに気が付いた。他の使用人がいる気配は全く感じられず、実際に姿も見かけないのだ。しかし案内された部屋は掃除が行き届いている。スターシャ一人だけで全ての部屋を掃除するなどできないはずだ。その疑問をぶつけたくても、ここ数日、肝腎のスターシャは朝食と入浴時以外は姿を消し、時には一度も見ない日もあった。捜そうにも屋敷が広いだけに、見つける難しさを思って諦め、用意してくれた食事を一人でとるしかなかった。食事はいつも美味しかったが、スターシャがいない日は、とても長く、つまらないものであった。
その日も浴槽に浸かり、気持ちの良い時間を過ごしていた。
朝から姿を見せなかったスターシャが着替えを持って現れ、湯船の近くに置くと無言で出て行こうとした。この頃では顔から微笑みが消え、憂いを表すことが多くなっていた。あれほど屋敷に留まるのを懇願した割には、あまりにつれない素振りだ。優しい微笑があるからこそ待つ気にもなった。それどころかあまりの居心地の良さに、ヘドロバの帰りが遅くなるのを密かに願うまでになっていた。コボスはそのスターシャの変わりようを寂しく感じた。いつの間にか恋していたのだ。
・・・どうやらスターシャが好きになってしまった。打ち明けて、気持ちを聞きたい・・・
恋心を抱いてからは、姿が見えても見えなくても心が騒いだ。コボスはスターシャが自分の恋心を知って避けているのか、受け入れたくてもそうできない理由があるのかを知りたかった。何かを打ち明けたくて、そのきっかけを欲しがっている風にも見えるのだ。
打ち明ける機会を窺ったが、憂い顔を見ると切り出す勇気が出なかった。情けなさに悶々としていたが、去ろうとするスターシャを見るとどうしても引き止めたくて、浴槽の中という場所もわきまえず、思わず声をかけてしまった。
「この頃忙しそうだな。たまにはゆっくりしたらどうだい?いい湯かげんだ。君も一緒に入らないか?」
あれこれ思い悩むよりも、スターシャを信じて打ち明ける方が自分らしくていいと思った。しかし・・・若い娘への好意の投げかけとしては、悩みや恋心などをどこかに吹き飛ばしてしまう大胆な誘いになった。浴槽には服を着たまま入るわけにはいかない。コボスは前に裸を見られていたが、スターシャは立場が全く違っていた。
スターシャは向こう見ずな求愛に目を見開き、そして真っ赤になった。いきなり浴槽に誘われるとは思ってもいなかった。
「コボス様、この国では娘の裸を見てしまえば、その一生を背負わなければなりません。その覚悟がおありなのですか?」
しばらく考えた後で、ようやくスターシャが声を出した。その表情は今まで見たことのない、厳しいものだった。
「ああ、君と知り合って長くはないが、君となら面白い人生を送れそうだ。一緒にいるだけで幸せな気持ちになれる。ここに来るずっと前から、君と出会うのが決まっていた気がする」
スターシャの好意は感じていたが、それが本心と言い切る自信はなかった。コボスは、恋とは互いの自分勝手な気持ちの押し付け合いから始まり、相手がその気持ちを受け入れてくれるなら成就するものと考えていた。スターシャに本気で恋してからは一層その気持ちが強くなった。それをやっと口にできたが、浴槽の中からでは手馴れた遊び人風で、スターシャの固い反応も仕方なかった。納得させるには真剣に自分の気持ちをぶつけなければならない。
「コボス様は私のことを、何一つお知りになっていません。それどころか聞こうともされませんでした。一時の気持ちだけで、おっしゃっているのではないですか?」
スターシャの固い口調は当然だった。それまで好意を口に出していないコボスからいきなり告白された。それも誘われた場所は、遊びか本気かの判断が難しい場所だった。遊びの誘いを本気と受け取って傷つきたくはない・・・とも思うが、最初の出会いからコボスの中に好ましいものを感じていたから、たとえ騙されようともその誘いは嬉しかった。スターシャも運命的な出会いと密かに思っていた。ただ娘心としては、どうしてもはっきりとした気持ちを言葉で聞いておきたかった。
「約束する。どんな秘密があっても俺は構わない。新しく生まれ変わった俺と一緒に歩いて欲しい・・・本音を言うと、シュットキエルを離れてから生きる希望を失っていた。それが君に出会って、生きる意欲が持てるようになった。毎日が楽しくて心が浮き立っていた。ところがこの頃何故か俺を避けている。俺の気持ちが重荷かどうかを知りたい。君にきっぱり断られたなら、明日にでも屋敷を出て行く。いつまでも君と過ごすわけにもいかない。思い出を作り過ぎると、別れた後で余計苦しんでしまう。なあ・・・スターシャ・・・どうなんだ?」
汗をかきながらも、苦手な部類の話を、精一杯の気持ちを込めて告げた。スターシャとの時間は楽しいものだが、今が傷ついても立ち直れるぎりぎりのところだ。何も言わないでヘドロバの帰りを待ち、別れを告げれば苦しみは半減するが、自分の気持ちは伝えておきたかった。恋心というより愛の告白なのだが、取りようによっては一方的な愛情の押し付けであり、スターシャにその気がなければ哀れな一人芝居であった。
話が終わってもスターシャは俯いたまま何も答えなかった。コボスは無言が断りの表現と考えた。
「今の話は忘れてくれ。明日にはこの屋敷を出て行く」
沈黙に耐え切れずそう言おうとした時、スターシャがやっと口を開いた。
「あなたの気持ちを聞けて嬉しく思います。あなたの気持ちがわからず不安だったのです。この屋敷を出て行くのを怖れていました。ここ何日か避けていたのは、別れた後で悲しみが増す楽しい思い出を作りたくなかったからです。本当はずっと一緒にいたかった。話もしたかった。そんな気持ちを無理に押さえ込んで、部屋に閉じこもって、あなたが去った後を考えていたのです。でも別れたくない気持ちばかりが大きくなっていた・・・やっと心を打ち明けてくれました。とても嬉しい・・・私と同じ気持ちだったのですね。喜んで申し出をお受けします・・・私がいいと言うまで目を閉じていて下さい」
求愛に応じたスターシャの顔は喜びで輝いていた。密かに抱いていた不安は消え去り、愛する者に全てを見せる前の恥じらいが彼女を包んでいた。
ほどなく衣擦れの音がして服を脱いでいる気配を感じ、コボスの胸は高鳴った。
ややあって、ひたひたと濡れた床を素足が鳴らす音が聞え、浴槽にスターシャが近づく感じがした。コボスは約束通り、目を閉じて迎えた。
「目を開けて下さい。私もあなたが大好きです」
ス目を開けると、全裸のスターシャが白い身体を震わせ、胸を両手で隠して目の前に立っていた。まだ湯につかっていないのに頬が桃色に色づいていた。
コボスは視線をそらさず立ち上がると、スターシャに近づき静かに抱きしめた。身体は冷たかったが、溶けそうな柔らかさだった。体を強く抱きしめると、スターシャは目を閉じコボスの胸に顔を寄せた。抱き合う二人の姿が湯煙にゆらゆらと揺れた。




