四章 スターシャ 41 甘い仕返し
・・・二・・・
とてつもなく長い廊下だった。汚れた靴で歩くのが躊躇うほどの厚い敷物がどこまでも伸びて行く。壁の両側には外で見たものと同じランプが並び、近づくと明かりが自然に灯り、通り過ぎると消えていく。振り返っても既に明かりが消えていて、歩いた長さも掴めなかった。想像できない奥行きの深さだ。
・・・広い屋敷だ。魔宮に迷い込んだ気がする・・・
先を行くスターシャの歩みはなかなか止まりそうになかった。途中で何回か曲がったため、どこに向かって進んでいるかさえわからなくなった。
・・・どこまで行くのだ?これでは案内なしでは元の場所に帰れそうにないな・・・
無言で歩くのにもいいかげん飽きていた。屋敷の中では客と気易く話すのを禁じられているのであろうか、スターシャは振り返りもせずに早足で歩いている。そのくびれた腰と豊かな臀部が歩くたびに左右に揺れて妙に艶めかしく見えた。
・・・若い娘のお尻にどうしてこうも目がいくのだろう・・・それにしても豊かで引き締まったお尻には惚れ惚れする・・・触ってみたい気もするが、いきなり触ったら驚くだろうか?怒るだろうか?それとも・・・泣くだろうか?・・・
歩くしかないコボスは退屈しのぎに不埒な思いを抱きながら、スターシャの臀部ばかりを見ていた。心の中では臀部に触るか触らないかを対決させていた。
暗い廊下で明滅する多彩なランプの光が余計に心を駆り立てた。スターシャのこれまでの態度からすれば、少々触っても大騒ぎされない気もした。しかしまだ見ぬヘドロバの侍女に手を出すのは、別の意味で勇気がいった。それにスザナとの諍いで激しい気質も見せられていた。
歩き出してからかなり時間が経った。臀部に見とれている内に足が速くなり、手を伸ばせば背中に届くほどに近づいていた。
・・・駄目だ。もう我慢できない。間違った風にちょっと触るくらいは許されるだろう・・・
誘惑が理性に勝った。そろそろと伸ばした手が、臀部に届きそうになったその時、コボスの心裏を見透かしていたかのようスターシャが急に立ち止まって振り向いた。
慌てて手を引っ込めたが、しっかり見られた。一瞬眉を上げたスターシャは何も言わず部屋の扉を開け、中に入るように促した。
「ヘドロバ様に間もなく会えます。でもその前に、そのお姿を何とかしなければいけません・・・スザナは服を買わなかったのね・・・」
明るい部屋の中でコボスの姿をじっくり見て、スザナと同じ言葉を口にした。
「服を買うと言ってくれたが断った。格好など俺は気にしないよ」
「そうおっしゃっても・・・そのお姿では・・・いいわ、私にまかせて下さい」
コボスは改めて自身を見た。髪とひげは伸び放題、服も破れて肌、それも薄汚れた肌が見えている。ついでにスターシャが腕を絡ませていた左腕を鼻に近づけてみたが、自分自身でも嫌な匂いを感じた。昨夜のスザナは酔っ払っていたから気にしなかったらしいが、スターシャがよく我慢できたものだ。
「仕方ないな。どうすればいい?」
コボスも観念した。不潔な男と思われたくなかった。
「まずはお風呂に入って、長旅の汚れを落として下さい。その後で新しい服に着替えれば気持ちもすっきりしますわ」
「俺は着替えの服なんか持ってない」
「私が御用意いたします」
「あまり乗り気はしないが、君にまかせるしかないようだ」
「では、こちらへ・・・浴室へ案内します」
スターシャは片側の扉を開けて隣の浴室に案内した。初めからそのつもりだったに違いない。
「これはすごいなあ」
コボスの口から自然に感嘆の声がでた。浴室とスターシャは事もなげに言ったが、今まで見たこともない広さと大きさだった。湯はふんだんに湧き上がり、部屋全体が心地よい香りで満たされている。石組みの浴槽は泳げる位広く、天窓からは陽射しが差し込み、その上浴槽の周りや中にも木が植えられていた。浴室ではあるが、森の中にいるようであった。
湯に浸かるのが大好きなコボスは、これまでにない浴室と豊かな湯を目の前にして感動した。シュットキエルで過ごした日々が脳裏に蘇って来る。ミエコラル山のあちこちから温泉が湧き出ている村では、仕事の後で湯に浸かる習慣があった。
召集されたコボスが一番に故郷を懐かしんだのは、村人達よりもその習慣であった。しかし、軍隊では川や湖での水浴で済ませる場合が多く、戦場においては一切考慮もされなかった。今浴槽を前にして、どんなもてなしより嬉しく感じていた。スターシャが出て行った後でゆっくりと浸かろうと、湯の匂いを胸一杯に嗅いで楽しみを膨らませた。
「コボス様、早く汚れた服を脱いで下さい」
現実に引き戻された。出て行ったはずのスターシャがまだ浴室にいる。
「え?君の前で裸になれないよ。脱いでおくから後で取りに来てくれ」
当然のように答えた。案内が済めばスターシャの役目は終わるのだ。若い男の入浴姿を、会ったばかりの娘に見せるわけにはいかなかった。
「恥かしいのですか?私は平気ですよ。それに脱いだ服を片付けなければなりません。何ならお手伝いしましょうか?」
スターシャが目を覗き込む。コボスは廊下で触ろうとした手前、出て行くように強く言えなかった。からかわれているのはわかっていたが素直に謝れなかった。覚悟を決め、堂々と服を脱いで渡すと、お湯しぶきをあげて勢いよく浴槽に飛び込んだ。浴槽に向かう時背中に視線を感じて振り返ろうと思ったが、スザナであればいざ知らず、スターシャにはできなかった。
肩まで湯に浸かり目を閉じる。体の隅々まで暖かさが染み込んで、疲れが湯の中に溶け込んでいく気がした。うとうとする程の気持ちよさで目を閉じると、シュットキエルで鍛冶屋だった頃が昨日のように思い出された。一日中重い槌をふるい、灼熱の鍛冶場で流れ落ちる汗を拭く間もなく働いた。疲れた体を癒すものは酒よりも満杯の湯であり、毎日仕事の後で長時間入浴を楽しんだものだった。
ふと人の気配を感じ、後ろを振り返った。そこにはさっき脱いだ服を持ち去ったスターシャがいた。スカートをひざの上までたくし上げ、服まくりをして立っている。
・・・まさか・・・
「身体を洗ってさし上げます。浴槽から出て下さい」
コボスはまだ怒りが解けていないのかと、半分あきらめの気持ちで浴槽から出た。身体を覆うものは何もなく、そのままの姿でスターシャの前に立つしかなかった。
スターシャは背後に回ると、無言で背中を洗い始めた。ゆっくり、でも力を入れて身体を擦る。
「背中は終わりました。こちらを向いて下さい」
予想した展開になって、逆にコボスは楽な気持ちになった。母親に言われた子供のように素直に従った。
スターシャは真剣な顔で頭からコボスを洗った。顔、肩、胸と、上から下に視線と洗う手が下がる。浴室の蒸し暑さで顔が汗ばみ、香りとなってコボスを包んで悩まし始めた。
無心に身体を洗うスターシャに対して、平常心を保てなくなった。同時に下半身の変化を感じた。他のことを考えて気を逸らそうとしたが、そうすればするほど熱くなってしまった。スターシャも気付いているようだが、若者ゆえの現象だけに無礼と咎められない。それにそのきっかけは作ったのはスターシャだった。
「廊下では悪かった。つい君のお尻を触りたくなった」
コボスは謝った。
「気にしないで下さい。でも・・・私も仕返しをしました。あなたが嫌いだからのことではありません。決して嫌いでは・・・ないのです」
スターシャは耳まで赤く染めながら小さな声を出した。その純情さがコボスにも伝わり、気持ちが落ち着くと脈打つ熱さも遠ざかっていった。
全身を洗い終えると、スターシャはもう一度浴槽に入るように勧めた。そして上がったコボスに湯上り用の服を着せて水気を取ると、小さな壺に入った薬を身体全体に塗り始めた。塗るだけでなく、コボスの疲れている部分を揉み解した。
「次は髪とひげを切りましょう」
まだ終わりではないらしい。コボスは今度こそ別な使用人が現れると思った。ひげは自分で剃れるが、伸び放題の髪ともなると職人の手が必要だ。
・・・これでやっと解放される。嬉しいしっぺ返しだったな・・・
ところが、スターシャは長椅子にコボスを仰向けに寝かせると、はさみで髪を切り始めた。誰にも任すつもりはないらしい。軽快なはさみの音が心地よかった。
「コボス様、起きて下さい」
寝るつもりはなかったが、気持ちよさもあって寝入ってしまった。起こされた時には、髪とひげが綺麗に整えられていた。
「・・・全部終わりました。やっぱり伸びた髪とひげは、あなたには似合いませんわ。切ってよかった。ヘドロバ様はこの廊下を右に行って、突き当たりの部屋でお待ちになっています。鐘が三回鳴ったら、そちらに向かって下さい。そうそう、せっかくのお花も忘れないで下さい」
仕立てのいい服を着せられ、浴室からやっと解放された。
・・・スターシャに任せてよかった。新しく生まれ変わったみたいだ。ヘドロバとかにやっと会えるのだな。これだけの屋敷の主が俺に何の用があるのだろう?・・・スザナは鐘の話と言っていたが、酒場で語った話が全てだ。その話に付け加えるものは何もない。それよりも、この屋敷から無事に帰してくれるかの方が心配だな・・・
こざっぱりした格好になると、身体から昨日までの忌まわしい出来事は全て夢のように思えた。後はヘドロバに会うだけになっていた。
鐘の響きを待ったが、なかなか聞こえなかった。鳴らない鐘を待ちくたびれて長椅子に寝そべっていたら、ようやく鐘が三回打ち鳴らされた。
・・・ようやくお呼びだ・・・
スターシャに言われた通り廊下に出て右に曲がり、突き当たりの部屋まで来ると扉を軽く叩いた。
「コボスかい。中にお入り」
老女の声が聞こえた。今から会うヘドロバが最善か最悪か予想できないが、自分の運命を大きく変えそうな予感が体を包んだ。平凡な人生を望めば屋敷を出るしかないが、奥深くに入り込んだ以上、進む道しか選択の余地がなかった。
コボスは大きく深呼吸すると、運命の扉とも言える部屋の扉を思いきって開けた。




