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三章 ヘドロバ 39 スザナの悪夢

・・・十一・・・


 屋敷は酒場から少し離れた森の中にあり、スザナも訪れるのは初めてだった。酒場で会えばすぐにでも話が聞けるのに、わざわざ屋敷まで招いたヘドロバ。めったにない感心の深さを示していた。かつてスザナが押し付けた客で大金を得た女も、屋敷には呼ばれなかった。

「みんな飲んでいるかい?今日は私が奢るよ。遠慮しないで飲むがいい」

 スザナは浮かれっぱなしだった。ヘドロバから男達の飲み代も、店のつけも帳消しにされ、片手一杯の金貨を貰っていた。前払いと思えるその金は、今まで手にしたことも、見たこともない金額だった。今日のコボスの話が更にヘドロバを満足させたら、想像ができないほどの金を貰えるに違いない。いきなり売れっ子を掴んだ興行師の気分に浸っていた。

「私にもやっと運が回ってきたわ。あんたもしっかりヘドロバ様に話すんだよ。たっぷり礼金をはずむからね。まあ、それにしてもあんたの格好は、汚いわね」

 昼間見るコボスの格好に眉をひそめた。薄暗い酒場の中でもその粗末さは際立っていたが、陽射しの中では服のほころびまで見え、一層薄汚さを目立たせた。そのまま屋敷に連れて行くのに気が引け服を買おうと言ったが、本人は少しも気にしてない様子で乗ってこなかった。無理強いしてコボスの気が変わるのを恐れてそれ以上勧めず、昨晩の姿のままで連れて来た。

「やっと着いたわ。『橋で待て』とおっしゃっていた。きっとここね」

 スザナは前もってヘドロバから教えられた通り、吊るされた小さな鐘を木槌で何回か叩いた。最初は小さく鳴らして様子を見たが、誰も出て来なかった。

「おかしいわね。誰も姿を見せないわ。この橋を渡らないと屋敷には行けそうにもないわ」

 コボスはスザナの横で違う関心を抱いていた。

・・・ヘドロバとは一体何者だろう?ここからでは屋敷は見えないが、他人を拒む雰囲気を感じる・・・

 コボスの鋭い感覚は違っていなかった。

 簡単に忍び込めそうだが、見かけ以上に用心深い仕掛けが施こされていた。周囲を巡る小川は、見えない塀代わりだった。川底深く掘られ、鋭い歯を持つ魚が無数に放たれていた。唯一屋敷内に入れる橋にも工夫がなされていた。普段は引き上げられ、必要な時に下ろして使う、跳ね上げ式だ。その橋を下ろさない限り屋敷に入れない。二重の防御となっていた。二人が橋に着いた時には橋は上げられていた。

「歯がゆいわね。聞こえてないのかしら?」

 スザナは舌打ちすると、今度は遠慮もしないで両手で思い切りがんがんと打ち付けた。鐘は大きく左右に振れて、騒々しく鳴り響いた。その音が聞こえたのか、ようやく跳ね上げられていた橋が徐々に下り始めた。

 橋が完全に下りると、茶色の服を着て白い前掛けをした娘が立っていた。ヘドロバの召使いの娘であろうか・・・待たせたのを詫びる風もなく、二人のところへゆっくりと歩いて来た。邪魔になる髪を結い上げているが、それが自然ときれいな首筋を見せることになり、初対面のコボスの目を奪った。

「スザナ様でしょうか?」

「そうだよ。ヘドロバ様に言われたお客を連れて来たのさ。なにもたもたしていたのさ!さあ早く案内しておくれ」

 小娘だと呑んでかかったスザナは、高圧的で横柄な物言いをした。

「コボス様、御主人様がお待ちです。御案内いたします」

 娘は気にも止めず、スザナを無視するようにコボスに言った。

「コボス、さあ、行こうか」

 スザナが共に橋を渡ろうと踏み出した時だった。

「スザナ様、あなたはここでお帰り下さい。私がご案内できるのはコボス様だけです」

 初めてスザナに視線を向け、躊躇わらずきっぱりと言い切った。

「何だって!何かの間違いだろ。コボスだけのはずがないじゃあないか」

「間違いではありません。ヘドロバ様がお住まいになる神聖な場所に、あなたのように堕落した汚い人を入れるわけにはいきませんわ」

 今度は言葉に感情を入れて言い放った。

 思いがけない言葉を浴びてスザナは呆気にとられた。

「ばかお言いでないよ。お前のような小娘にいわれて『はい、そうですか』って私が帰るとでも思うのかい?早く私達を案内しな!私がヘドロバ様に申し上げる」

 負けずに言い返した。下働きの小娘に軽く扱われたようで腹立ちを感じた。

「これはヘドロバ様の御意志ですよ。『それでも案内しろ』とおっしゃるのなら、私はお止めしません。いかがされますか?」

 その言葉に今度はスザナも言い返せなかった。ヘドロバの意思を無視して我を押し通すほど浅はかな女ではないが、このまま追い返されるのでは腹の虫が収まらない。やっと手にした宝物を目の前で横取りされたようなものだ。

「あら、あなたの頬に虫がとまっている。可愛い顔が刺されでもしたら大変」

 スザナは近付いてそう言うと、思いっきり頬を叩いた。いきなりのことでコボスも止められなかった。

「あっ」

 鈍い音がして倒れ込んだ。反撃を予期してスザナは身構えたが、娘は起き上がると何事もなかったようにコボスに促した。

「さあ、コボス様。まいりましょう。ヘドロバ様が朝から楽しみにされています」

 スザナにぶたれて唇が少し切れ、血が滲み出ていた。

 

 スザナは置き去りにされた。悔しそうな目で二人の背中に視線を送っていた。

「まあいいわ。明日お店でヘドロバ様からご褒美を受け取れば同じことよ」

 諦めて帰ろうとした。その時だった。コボスを先に行かせた娘が引き返して来た。

「私に何か文句でもあるのかい!」

 スザナは挑戦的な言葉を投げる。

「いいえ、そうではありません」

 娘はにっこり笑うと、前掛けのポケットを探り、白い袋を取り出した。その袋は手に余るほどの大きさだった。

「そうそう忘れるところでした。ヘドロバ様から今日のお礼を預かっていました」

「えっ!何だって!」

「お礼ですよ。先に出せばよかったのに、うっかりしていましたわ」

 悪びれずにそう言った。スザナの顔が歓喜の表情に変わった。しかし娘の赤く腫れた頬と切れた唇を見て、自分が早まったと悔やんだ。素直に『ヘドロバ様によろしく伝えておくれ』と引き下がれば、すぐに取り出したに違いない。謝れば何とかなりそうな気がしたが、それはできなかった。

 しばらくの間、沈黙が続いた。

「ああ、重い」

 袋をぬかるんだ足元に落とした。がしゃんと音が鳴り、中身が金貨だとすぐにわかった。白い袋はぬかるみの水気を吸い取り、黒く汚れていく。娘は袋を落としたまま立ち去る様子も見せず、スザナの顔を見て、次に袋に目を向けた。何も言わずにスザナの出方を見ているのだ。

 スザナに焦りが出た。娘が袋を拾い上げて屋敷に戻るのではと考えたのだ。屋敷に戻って『スザナ様にお渡ししようと思いましたが、お受け取りにならないのです』と告げられたら、金貨は二度と手に入らない。それに殴った振る舞いを大袈裟に言われでもしたら、逆にヘドロバへの侮辱として責められるかも知れない。娘の顔の青あざはすぐには消えそうになく、言いわけができないのだ。この場で金貨を何としてでも手に入れなければ、スザナの運も夢も尽きてしまう。娘が袋を拾い上げない以上、金貨を手に入れる機会は残されている。ただスザナからすると、袋を拾うためには足元に跪かなければならない。当然ぬかるみで自分の服も汚れてしまう。それに誇りなどとうに捨ててはいたが、これが小娘相手となると躊躇させるものがあった。自分が素直に娘の言葉に従っていたら、袋を手渡してくれただろう。最初からヘドロバにここで金を渡すように命じられていたに違いない。気持ちが高ぶって冷静になれなかったことを悔やんだ。足元の金を無視して引き返せば、誇りはまだ守れると思った。

 娘の顔と足元の袋を交互に見ていたが、まだ気持ちが決まらなかった。

 娘がこれ以上待てないとばかり足元の袋に手を伸ばした。スザナが謝るのを待っているそぶりも見せていたが、自分の面子に拘ってなかなか決断しないものだから諦めたように見えた。

 その姿を見てスザナの身体が勝手に動いた。欲望が誇りに勝ったのだ。

 スザナは娘の手より早く袋を掴もうと、両手を伸ばしたまま必死の形相で足元に飛込んだ。 ぬかるみで服が汚れてもどうでもよかった。後でいくらでも買えるのだ。

「これは私のものだよ。ヘドロバ様にお礼を言っておくれ」

 両手で袋をしっかり掴み、倒れこんだ姿勢で一息ついた。

 娘はその背中を見ていたが、無言で袋を掴んでいたスザナの手を足で踏みつけた。

「痛いじゃないか!何するんだい!」

 スザナはそれでも袋の手を離さない。袋をなおも強く掴み立ち上がろうと片膝をついた。先に手を出したのをもう忘れていた。

 その言葉に怒ったのか、娘が足でスザナの顔を思いきり蹴り上げた。

 スザナは突然の蹴りを受けて醜く仰向けに倒れた。流れ出た鼻血が顔を汚していく。さすがに今度は袋から手が離れた。

 娘は袋を拾い上げると中身を取り出し、スザナの顔をめがけて何回も投げつけた。誇りを捨ててまで手に入れようとした金貨に打たれてスザナの意識が遠のいて行く。金貨に埋まって助けを呼んでいる悪夢を見ながら気を失った。

 

 スザナが気絶するのを見届けると、娘は表情を元に戻した。哀れんだ表情で見下ろしていたが、コボスのことが気になって姿を捜した。

「コボス様、コボス様」

「お〜。ここにいる」

 小川の辺でコボスは背を向けてしゃがんでいた。

 そっと後ろから近づいた・・・と意外な光景を見た。土手に咲いている花を摘んでいた。娘に気がつくと背後で起こった女同士の争いなど見なかったように、のんびりとした口調で言った。

「娘さん、騒ぎは終わったようだね」

「この手の騒ぎはお嫌いですか?」

「スザナは確かに強欲で口は悪いが、優しいところもある。俺も世話になった。許してやってくれ」

「わかっています。顔の傷は残りません。軽いお仕置きですわ」

 娘は微笑んだ。きれいな白い歯が光る。

「娘さん、君には笑顔が良く似合う。きれいだ」

 娘の目を見て本心から言った。娘はちょっとはにかんだ様子を見せた。

「何をしていらっしゃるのです?」

「君の御主人とやらに手土産を用意していた。手ぶらじゃあ格好がつかないよ」

 頭を掻きながら恥かしそうに答えた。薄汚れた服を着ているが、そんなことには無頓着で、女性の喜ぶ花を選ぶとは洒落っ気も十分あるらしい。

「まあ、初めてですわ。こんなお客様は」

 娘も笑顔につられて微笑んだ。初めて見せた娘の微笑みは、倒れたスザナの姿がなければ、『小川を背にして佇む娘』と名付けて絵に描けそうなほど魅力があった。

 二人は跳ね上げ橋を渡る時、自然に並んで歩く格好になった。

「この屋敷には長くいるのかい?」

 並んで歩く娘に尋ねた。緩やかな小道が川に沿って続き、向こう岸から姿が見えないと知ったコボスは、美しい娘に話し掛けられずにはいられなかった。シュットキエルを出てから初めて気持ちが安らいだ。

「娘、娘って言わないで。あなたと同じ位の年なのよ。私はスターシャ。あなたが気に入ったわ。ヘドロバ様に言われてお迎えに来れてよかった」

 名前を告げたスターシャはコボスの腕に自分の腕を絡め、嬉しそうに寄り添った。そして好意に満ちた表情を隠そうともしなかった。コボスもスターシャに微笑みを返した。微笑みだけで足りないと思ったのか、さっき摘んだ花から赤い花を一輪選んで抜き取ると髪に挿してやった。小さな名も知らぬ野辺の花であったが、どんな花よりも美しい花を贈られた思いがスターシャを包んだ。みすぼらしい姿の男と、清楚な娘の運命的な出会いであった。 



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