三章 ヘドロバ 37 幸運
・・・九・・・
スカートの裾を持ち上げ、ミシミシと音を立てながら階段を上がった。酔いで足がふらつき、何度も敷板に足をとられ、その都度手摺りに体を預けた。
「何だい!階段まで私をばかにするのかい」
思わず手摺りを叩いて悪態をついた。
ようやく二階に上がった。一番奥がヘドロバの部屋だ。スザナは大きく息を吸い込むと軽く扉を叩いた。
「誰だい?」
しわがれ声が聞こえた。
「スザナです。今下にいる客が面白い話を聞かせてくれました」
「そうかい、まあ、中に入るがいい」
許されて部屋に入った。ヘドロバの薄暗い部屋は、初めてではなかった。
右手が本棚で、左手が薬棚だった。背表紙の題名も薬瓶に貼られた薬名も字の読めないスザナには別世界だったが、色や形がどれ一つ同じでないことだけはわかった。本と薬の匂いが混ざり合って、ずっといると気持ちが悪くなりそうだった。
「そんなに慌てて・・・どうした?」
ヘドロバがあきれ顔をした。日課となっている薬の調合を邪魔する訪問を歓迎する気持ちはなかった。
「耳寄りな話をする客がいます。ヘドロバ様もきっとお喜びになられます」
「またかい?階下の騒ぎからすると、足止めを頼んで来たのかい?」
左手で本を持ち、右手に持つ長い棒で火にかけた鍋をかき回しながら聞いた。ヘドロバの耳には階下の男達の騒ぎは既に届いていた。
「ええ、今度は大丈夫です。自信があります」
「奴らは他人の金だと遠慮しないよ。奴等の仲間も加わり、見境なくなっているに違いない。わしが関心を示さなかったら、借金が増えるだけじゃあ」
これまで何回もスザナは部屋に来た。言葉と裏腹にほとんどの場合、持ち込まれた話は取るに足りないものばかりだった。他の女は足止めをしなかったが、スザナは毎回男達に奢る約束で足止めを頼んでいた。男達は遠慮することなく飲み食い散らした。いくら場末の店であっても、度重なるとばかにならない金額になった。スザナの借金はどうでもよかったが、無駄な話を聞く時間が惜しかった。
「まあ・・・話してごらん」
ヘドロバは手を止めない。時間が惜しんで調薬しながら、相手をすることにした。いまいましいが、一通り聞いてやらないと女達が話を持ち込まなくなるのだ。ヘドロバ自身が、話の優劣を決めてやるしかなかった。
スザナの胸の動悸が早くなった。今回の話はこれまでで最高だし、うまくいけば多額の報酬が期待できると思うと心が浮き立ち、話す前から興奮していた。ヘドロバの忠告は耳に入らなかった。
話したくてうずうずしていたスザナは、ヘドロバの迷惑心など髪の毛の先ほども詮索しない。聞いていた時の興奮を一気呵成に吐き出し始めた。
「今その男は流れ者ですが、元々は敵国の兵士だったそうです。激しい戦いで一人だけ生き残り、この町に辿り着きました。男の名前はコボスと言いますが、出身地の村にある鐘について話しました。その鐘は父親の何代も前から村にあって・・・・・」
夢中になっていてスザナは気付かないが、ヘドロバの顔がいつの間にか真剣な表情になっていた。開いていた本を閉じると鍋に蓋をして椅子に座り、スザナにも椅子を勧めた。
スザナは驚いた。これまで椅子に座らせてもらったことがなかった。持ち込んだ話にヘドロバが興味を持ったらしい。スザナは聞き出した内容を一つも漏らさず伝えようと、自分自身に言い聞かせながら話を続けた。
長い沈黙の後、ヘドロバは閉じていた目を開けた。スザナの話はヘドロバにすれば、不明確な点や彼女自身の思い込み、創作もあったが、自分なりに要点を整理しながら聞いた。確かにスザナが言うように、ヘドロバ自身も興奮する内容であった。
「お手柄じゃあ。お前が思う以上に素晴らしい話だ」
「本当にそうですか?」
「嘘はつかぬ。お前は借金がなくなるばかりか、大変な金持ちになれる。長年の企てが実を結んだな。早速その男に会うとしようか」
「下で足止めにしています。すぐに連れて来ます」
「この部屋では会わん。明日にでもわしの屋敷に連れて来るがいい」
「わかりました。必ず伺います」
ヘドロバは棚から箱を取りだした。そして中の金貨を無造作に片手一杯掴み、スザナに渡してやった。数枚の金貨でこれまでの借金は支払えるが、ヘドロバはその借金も免除してやると告げた。
スザナは喜んで何度も礼を言うと、踊るように部屋を出て行った。
ヘドロバはスザナが出て行くと壁の書棚から一冊の古めかしい本を取り出し、何枚か頁をめくった。そして探し出した頁の文を確かめるように読むと、頬杖をついた。
・・・この鐘に違いない。本当にあるとは・・・その男に会うのが楽しみじゃあ。うまくいけば久々に旅にも出られそうだ・・・
つい頬が弛んだが、老いた顔では表情にならなかった。




