三章 ヘドロバ 36 スザナ
・・・八・・・
ヘドロバとコボスの出会いは偶然だった。運命とでも言えよう。
途方もない長い年月をかけて感情を制御する術を会得したヘドロバは、生まれ故郷には帰らず、小さな町の片隅で居酒屋を営みながら暮らしていた。無法者とのいざこざを避けるため姿も娘から老婆に変えた。
薄暗い居酒屋はそれなりに繁盛していたが、ヘドロバの魔力に引き寄せられるのか、世間から疎まれた者達が常連客で、まともな者が出入りする店ではなかった。一揆崩れの農民、軍隊違反で放り出された元兵士、女と酒に溺れて追放された神職者、無垢な者を騙す口達者、借金を踏み倒す常習者、何年も追われている真の犯罪者、夢破れた無気力者など、ありとあらゆる半端者の巣窟となっていた。
ヘドロバは客層に合った堕落した女達を雇い入れて酒の相手をさせたが、怪しげな店にありがちな法外な金はとらなかった。逆に客から話を聞き出させ、興味を抱かせる内容であれば女と客に何がしかの金を与えた。無一文の客についても寛大で、初めてであれば食べ物や酒を好きなだけ振舞ってやった。気に入った男を女が部屋に連れ込んでも文句を言わなかった。
店の話は裏世界で知れ渡り、訪れる者は引きも切らなかった。女達はヘドロバの言いつけをよく守り、相手の男からありとあらゆる話を引き出した。男達も話が金になると知っているから、店に来るまでに誰も知らない話を仕入れようと奔走した。語るのが苦手な者は書き物にし、旅する女さえ昼間の食を得るために話しに来た。こうして国内、国外、表世界、裏世界のあらゆる話が持ち込まれ、ヘドロバは居ながらにして世の流れを誰よりも詳しく掴むことができた。勿論何の役にも立たない話も持ち込まれたが、逆に話す本人が思う以上に価値のある場合もあった。コボスの場合は後者だった。
店の重い扉を開けて、コボスが店に入って来た。皆の視線が集まる。客の多くが臑に傷を持つ身で、新しい客が来る度に自身に危害を加える者かどうかの確認をする。
破れた服に伸び放題の髪と髭、よろめくような足取りを見て、彼等の関心は一気に薄れてしまった。食い詰めたあげく、この店の噂を聞いてやって来た流れ者の類に見えたからだ。
「いらっしゃい、あんた。こちらにお座りよ」
常連客でないと見て取ったスザナが声をかける。スザナは一見客の扱いが上手く、いつも入り口に近い席に陣取っていい客、つまりいい話を持ち込んで来そうな客を捜していた。
・・・ここのところ上客が来ないわ。指名もないし、このままでは借金が増えるだけ・・・
上客とはいい話を持ち込む客である。ヘドロバはいい話には大金を惜しげもなく与える。数回いい話をすれば、何年も遊べる金が手に入った。国中を歩きながら、話を集めることを専門にする者も出始めていた。その者達は何ヶ月おきに店を訪れ、ヘドロバが喜ぶ話を間違いなく持ち込んだ。
店に来る上客の指名を女達は首を長くして待った。指名されれば、間違いなく大金が手に入る。店では客は持ち込んだ話を女にして、女がヘドロバに伝え、ヘドロバが気に入れば客と女に金を与える。このやり方は最初からずっと変えられていなかった。ただ自分が上客と教える者はいない。わかった瞬間、ならず者からつけ狙われるからだ。女達はいつ訪れるかわからない指名を心待ちしながら、いい話と自慢げに話すさもしい男達の相手をしていた。運がよければいい一見客に当たって大金も得られるが、そんな客は一年に数人しかいなかった。
立ち止まったコボスはスザナの横に黙って座った。スザナは酒を注いでやりながら、何食わぬ顔で早速新しい客の値踏みをする。
粗末な服と表情がわからぬほどに伸ばした髭、鍛え抜かれた体をしているが、武器は一切身に付けていない。こんな怪しげな酒場では、僧侶でも武器を隠し持つのに、何も持たず入って来る男は珍しかった。
・・・自分からはもめ事を起こす類の者ではないようだわ。酔っ払った男達に絡まれたら素手で相手をするつもりなのかしら?・・・
「酒は後でいい。腹が空いている」
男は食べ物を求めた。
「わかった。ねえ誰か、肉皿とパン、スープをお願い」
この声を聞いて、まだ見詰めていた数人の男達も、店の噂を聞いて腹を満たすだけにやって来た者と見立てたらしく、コボスへの警戒心を解いて視線を外した。
・・・たいした客じゃあないわね。でも、身なりだけで決め付けて大失敗したこともあったし、話位は聞いてみよう・・・
以前にスザナは『相手を見た目でふるいにかけるな』との言いつけに背き、臭くて汚い客を嫌がって違う女に無理やり押し付けたことがあった。ところがその客はヘドロバにとって価値のある話をし、報告した女は目のくらむような大金を得た。そしてこの幸運を手にした女は、吹き溜まりの酒場から揚々と出て行った。その時、「スザナ、ありがとう。いいお客を譲ってもらって。あなたのお陰でこの先遊んでも十分暮せるわ。遠くの町で新しくやり直すつもりよ。あなたも早くこんな生活から抜け出せればいいわね。今度は運を自分から投げ出しては駄目よ・・・二度も同じ運が巡って来るかはわからないけど・・・」と、こざっぱりとした服に着替え、哀れみと皮肉とが混ざった表情で言葉をかけた。
スザナは悔やんでも悔やみきれなかった。彼女に言われなくても、手に掴んだ運を捨てた自分の愚かしさに打ちのめされていたのだ。・・・二度と同じ過ちはしない・・・絶対にあの時以上の運を掴んでやる・・・あの女から受けた屈辱は必ず晴らしてやる・・・それ以来どんな客に対しても、愛想良く振舞ようになった。客の中には秘密めいた話で騙す者もいて、失意の時を過ごしたこともあった。時にはほんの少しヘドロバの関心を引く話を聞き出し、いくらかの金を手にもした。その繰り返しではあるが、大金を得る望みは棄てていなかった。
「ねえ、初めて見る顔だけど、どこから来たの?名前は?」
「俺か・・・コボスだ。ショコラム王国の生まれだ。戦いで部隊は全滅したが、運良く一人だけ生き残れた。死んだ奴に俺の服を着せ、そいつの顔を潰して逃げて来た。表向きは名誉の戦死者だが、本人は生きているわけだ。面白いだろう」
コボスは正直に話した。訴えられて捕まってもかまわないと思っていた。
「そうなの・・・人にはいろいろあるからね」
スザナはコボスの正体に興味を示さなかった。殺人者、詐欺者、怪しげな僧侶、商人、泥棒・・・あらゆる類の者を見て来たから、『敵国の逃亡兵』と聞いても別段驚きはしなかった。
「ねえ、もっと食べなさいよ。それとも何か飲む?」
「そうしたいがそんなに金はない」
『一見客なら飲み食いの金がいらない』との噂は、他国者のコボスには届いていなかった。時には何も知らない無一文の客が偶然に入っては来たが、ただ食いの噂を聞きつけてやって来る客のほうが多かった。珍しい客の訪れに、スザナはいい予感を抱いた。
・・・不思議な客だわ。格好は汚いけど、幸運をもたらしてくれそう・・・
「遠慮しないでいいわ。ここの御主人は、初めての客からお金はとらないのよ。気にしないで思う存分食べなさいよ」
「それは随分気前のいい主人だな」
スザナは料理を食べさせ、酒を勧め、気長に相手した。
相手をする内に、男の気持ちが見かけほど荒んでないのを知った。戦場で言葉に表せない位の体験をしたに違いないが、他の男のように少しも目が濁っていない。話の合間に見つめられると胸が震え、それを隠すためにわざと体を預けた。コボスの逞しい体に受止められると、体の芯が溶けそうになるほどうっとりした。話の内容はどうであれ、他の女に任せないで、最後まで相手をしたくなった。しかしその前にいい話を持っているか確かめなければならない。
「あんた、本当にお金がないのかい?そうとわかると、身ぐるみ剥がされ外へ叩き出されるよ」
「ん?さっき金はとらないと言っていたが、俺の聞き間違いか?」
「飲み食いのお金はとらないわ。でも相手した私にはお金はかかるのよ」
「面白いことを言うな。お前はこの店に雇われているのだろう。主人が初めての客から金をとらないのなら、お前が相手しても金をとるはずがない。主人と雇われ者の関係を考えるとそれが当然だろう。そうは思わないか?」
理路整然とした問いかけにスザナは言葉が詰まった。これまでの男達は相手した金は別と聞くと青くなるか、怒りだすかの二通りしかなかった。しかし怒りだす者も周囲の常連客から睨まれると大人しくなった。コボスのような理屈を言う男はいなかった。
「う、うるさいわね。口だけは達者そうね!私が大声を出せば、男達が黙ってないわよ。いいの?本当にただではすまないわよ!」
コボスは鼻で笑った。彼女が本気でないのは感づいていた。
・・・何かの魂胆があって自分を騙そうとしているのだろう。ここは騙されてやるか・・・
それ以上女の嘘をあばいても何の得にもならない。ただ飯のお返しをしてやる位の軽い気持ちになった。
「それは困る。争いは好まない。だが・・・金はない。何とかならないのか?」
「やっと素直になったのね。心配はないわ。一つだけ救われる方法があるの」
「そうなのか?何をすればいい?力仕事位ならできるが・・・」
「もっと簡単よ。口がきければ大丈夫・・・誰もが知らない話をすればいいの。ここの御主人は、珍しい話が好きなの。ある?」
スザナはいつもの調子に戻って尋ねた。コボスに反論されて墓穴を掘ったが、ただ食い、ただ飲みだけで出て行く客に、真面目に話をさせようとして考えついた手だった。
「どんな話でもいいのか?」
「いいわ。面白い内容だったら、ここの御主人のヘドロバ様に報告するの。ヘドロバ様が気に入ったら、お金も手にできるのよ」
報告する者には金がもらえることをスザナは告げなかった。
「面白いというか、俺が生まれた小さな山間の村に、見事な鐘があって・・・・」
コボスは村の鐘についてしゃべり始めた。酒で警戒心も薄れ、長い間他人と接しなかった寂しさも手伝って、自分が見聞きしたことを詳しく聞かせた。スザナも引き込まれ、夢中で話を聞いた。その話はバーブルが聞くと、力ずくでも止めさせる内容だった。
コボスの長い話が終わった。スザナは嘘や偽りを感じなかった。それにしても、今まで聞き覚えのない興味深い話だった。スザナは自分の予感通り、やっと運が向いて来たと思った。
「初めて聞く話だわ。早速ヘドロバ様に聞かせて来るわ。ヘドロバ様が関心を示してくれたら、あなたが直接話すのよ。それまではここでゆっくり飲んで、待っていて」
コボスの太ももを擦ると、思わせぶりに股間に手をやり強めに握った。この店では女が気に入った男を誘う合図であった。いかつい男達がそうされるのを待ち望んでいると知っていて、コボスも期待して待ってくれると思ったのである。
スザナは立ち上がると、ヘドロバのいる二階へ向かった。その途中、群れて飲んでいる屈強な男達に近づきと、彼等に小声で頼み事をした。
「あの男を店から出さないでおくれ。お礼にあんた達の飲み代は全部私がもつわ」
「約束だぞ。スザナ。でも、いいのか・・・前にも同じことがあったが、ヘドロバ様は関心を持たず、お前の借金だけが増えたが・・・」
「何とでもお言い。でも、頼んだわよ」
「ああ、安心しな。奴が出て行こうとしたら、足をへし折ってでも止めてやる」
「それは駄目。あの人に手を出したら、二度とこの店には入れないよ」
「何だ?もう惚れたのか?うまい話に騙されるなよ」
「あの人はそんな人じゃあないわ」
「わかった。奴に手を出す輩がいれば俺達が守ってやる。勿論奴に手を出しそうな女も許さない。もっとも奴の格好を見れば手を出さないがな・・・」
「ありがとよ」
スザナは娘のように心が弾んだ。店で『あの人』などと口に出したことなどなく、男達から言われたように惚れたのかも知れない。早くヘドロバに報告して、またコボスの隣に座り商売抜きで飲みたかった。コボスに行く当てがないのであれば、面倒位みてもいいと思った。
「さあ、みんな、おおいに盛り上がろうぜ」
スザナの思惑など知らない男達は、酒樽を抱えると大騒ぎを始めた。




