二章 カイデン 26 サイノス 奥義
・・・十・・・
カイデンは剣を与えると、岩の斬り方を匂わせる言葉も残さず行ってしまった。サイノスには求められた挑戦は、一回きりだということはわかっていた。何回も斬りつけるなど考えられないからだ。
一人残されたサイノスは難題である大岩と向き合った。闇夜の十本剣の修行に比べると、岩を斬るのは危うい修行ではないもののどう始めていいか見当がつかなかった。剣の望みと聞かされたものの剣に意思があるとは思えず、最後の試練なのは明らかだった。
負けたくはなかった。片手で触ってみる。岩はひんやりとした感触でもって、無謀な挑戦をあきらめるように語っていた。
・・・一度きり、時間など関係ない・・・
サイノスはどっかと岩の前に座り、じっと目を閉じる。
・・・心を無にするのだ。何も思うな。そうすれば何かが見えるはずだ・・・
一晩向き合ったが斬れそうになかった。剣に手をかけることもなかった。
翌日からバーブルの鐘で起き出し、岩と向きあう日々が始まった。斬り方が閃いた時、瞬時に抜き打ちできるように剣を常に側に置いた。
数日過ぎても心に何も浮かばなかった。目を閉じれば岩の存在はなくなるが、開けると少しも変わらない大きさで挑んで来る。見るたびに大きくなっている気さえした。
・・・剣で岩を斬った者など聞いたことがない。カイデン様御自身でも無理だろう。でも師匠の言葉を疑うわけにはいかない・・・
数日経っても斬れる確信は生まれて来ない。一心に斬り方を考え続けたが何も浮かばない。顔には無精ひげが生え、食事ものどを通らなくなった。目には異様な光が宿り、体からは凶暴な殺気が立ち昇った。
ポレルもサイノスの変貌を心配していた。カイデンに言いつけられて食事を運んでいた。最初の数日、サイノスは瞬く間に平らげ、ポレルをからかう余裕も見せた。しかし次第に無口になり、食事も残すようになった。気になったが、励ましの言葉はかけなかった。余計な緊張を与えたくなかったからだ。食事を置くと無言のまま足早にその場を去る日が始まった。
「うお〜」
サイノスが吠え、両手で髪の毛をかきむしる。いきなり剣を抜くと見えない敵に向かって斬りつけた。空気を切り裂く音が空しく響く。
「駄目だ、何も見つからない」
絶望感に包まれて頭を剣の柄に強く打ち付けた。飾り金具で額が切れて血が流れる。自身を傷つけて、厳しい現実から逃れようとしていた。心の痛みより肉体的な痛みの方がまだましだった。
「カイデン様、このままではサイノスが倒れてしまいます。もう止めさせて下さい」
ポレルはカイデンに懇願した。あんなに苦悩しているサイノスの姿を今までに見たことがなかった。
「お前の頼みでもそれはできない。ここで歩みを止めれば、二度と同じ道を歩けなくなる。苦しめば苦しむほど得るものは大きい。心配するな。奴は間違いなく蘇る」
それでもポレルの不安は消えなかった。狂気の一歩手前で何とか持ちこたえているかに見えるのだ。肩を落として大石の前に座り込む背中が痛々しかった。
大石が見える。それも大きな壁のように。何も語らぬ強敵は挑んでくるのを静かに待っている。何の殺気も発せず、挑発もしないで。不気味な圧迫感を感じ、もう手で触ることもできなかった。
・・・もうだめだ・・・この岩を斬れない・・・
自分を傷つける気力もなくなった。考える力も薄れてきた。
「サイノス、無理をしないで・・・」
突然背後から抱きしめられた・・・甘い髪の香りがし、ポレルだとすぐにわかった。
食事を置いて立ち去ろうとしたが、サイノスの悲壮な姿を見て、気がついたら抱きしめていた。裸の背中に頬をつけ、胸に手を回した。溢れた涙が背筋を伝わっていく。
「大丈夫だ。俺を信じてくれ」
胸に回されたポレルの手を握った。
「信じていいのね」
「ああ」
サイノスはポレルに抱かれて安らいだ気分になった。
「カイデン様が心配する。もう帰れ」
「うん」
背中でひとしきり泣くと気持ちが落ち着いたのか、そっと体を離すと去って行った。
サイノスの心から苛立ちが消えていた。そればかりか力がみなぎっていた。華奢なポレルがサイノスの悩みを持ち去り、新たな勇気を置いていったようだ。
ゆっくりと立ちあがった。大きく背伸びして、体を回転させる。何日も動かしていない筋肉が悲鳴を上げた。岩を斬るために座り込んでいたから、剣を抜くこともなかった。ふと足元に目を落とすと、座っていた場所の花がすっかり枯れていた。
わけもなく目から涙がこぼれる。名も知らぬ花を枯らせた感傷からではなかった。ポレルの慈しみへの感謝だ。胸に巣くっていた黒い感情が消えていく。
・・・もう心を縛るものは何もない。悩みは去った。今なら斬れる・・・
時間をかけて長い眠りから体を目覚めさせる。関節がぽきぽきと音を立てる。
一通り動かし終えると猛烈な空腹に襲われた。ポレルが残した籠の蓋を力任せに開ける。
「ポレル・・・」
思わず名前を呼んだ。籠一杯に好物料理が詰まっていた。ポレルはサイノスが食べなくなった日から、その日を信じて好物を作り続けていた。
「ありがとう」
感謝したのは一瞬。いきなり両手で料理を掴むと貪るように口に運んだ。呑み込むのが間に合わず何度も咳き込んだ。野獣が食い荒らす姿そのものだった。
食べ終えると大の字になって寝そべった。今まで感じられなかったものが耳や目に飛込んでくる。小鳥のさえずり、吹き抜ける風のざわめき、眩しい陽射し。青空に雲が浮かび、緩やかに流れていく。
・・・いい天気だなあ。一眠りしよう・・・
こんな穏やかな気持ちでそう思ったのは久しぶりだった。
泥のように眠っていたサイノスが起き上がった。体に凛々とした気持ちが湧き上がる。体が軽く疲れはもう感じなかった。
岩にすたすたと近づくと剣を抜き、大きく振りかぶった。これまでサイノスを悩ませた大きな岩が、少し小さく感じられた。もう一歩近づく。大きくなるはずの岩が更に小さくなった。
サイノスはなおも間合いを詰めた。岩に対する恐れは全くない。
岩の表面に小さな筋が見えた。その筋が徐々に姿を変え、小さな傷になる。その小さな傷は上から下に伸びていく。サイノスは息を止め、腰をすっと落とした。岩はもう目に入らず、線だけを追っていた。
サイノスには見えないが、剣が青白い光芒を放ち始めていた。気力が増すたびに、剣の放つ光が強くなっていく。岩に生まれた線と剣筋が一直線に繋がった。
・・・今だ!・・・かっと目を見開き裂帛の気合を込め、振り上げた剣を思い切り振り下ろした。
その時・・・サイノスは不思議な感覚に包まれていた。剣の動きが見えるのだ。力強く振り下ろしたはずなのに、ゆっくりとした動きになっている。まだ岩肌に届いていないのに、岩に切れ目が生じ、柔らかいものが斬られたように綺麗な切り口を見せて開いていく。強固な岩に阻まれる手応えはない。勝手に剣が岩を切り裂いていく。
・・・斬れた・・・
しかし現実は違っていた。剣は岩に触れる直前で止まっていた。
「サイノス、確かに見届けた!」
サイノスは、はっと気をとり戻し、慌てて岩に目を落とす。傷一つついていない。元の姿のままであった
「カイデン様、斬れませんでした。申し訳ありません」
剣を鞘に収めながら謝った。だがサイノスの表情は明るかった。岩は斬れていないが、感覚の中では斬ることができたからだ。
「隠すな。意識の中で、斬れたのだろう」
「はい。斬れました」
「それが剣の境地だ。忘れるな」
「はい、肝に銘じます」
サイノスは胸に右手を当て、誓いの姿勢をとった。サイノスが大きく見えた。
・・・わしの意地までこうも見事に斬るとは・・・いい跡継ぎを得た・・・
岩を斬る苦悩させたのは教えもあったが、武術家としての意地もあった。自分が十数年かけて達した境地には、サイノスでも数年かかると思っていた。剣の修行の厳しさを教え込むいのが狙いだった。しかしサイノスは誰に教わることなく、見事にその答えを出した。弟子に敗れた格好になったが、後継者に秘伝を伝えた満足感と安堵感に包まれていた。




