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十九章 大乱 215 ヘドロバの希望

・・・四・・・


 ヘドロバは壁の王家の紋章を無言で見ていた。コボスはその背中越しに紋章を見ていた。黒地に金糸で刺繍された王冠を抱く獅子。コボスが一度として会えなかったヘドロバの敬愛するドンジョエル国王。これまたまだ見ぬペリルポイルに討たれ、もうこの世にはいないという。

「スターシャ・・・」

 二人だけの時はそう呼ぶ。けれどもスターシャは振り向きもせずに、コボスの存在も忘れているかのように、壁の紋章を無言で見詰めている。コボスはそれ以上声を掛けなかった。自分の慰めの言葉など耳に入らないであろう。

「コボス、どうすればいいかしら・・・」

 ようやくスターシャが声を出した。

「まずは国王の安否を確かめる必要があるだろう。君はそれができるはずだ」

「ええ・・・こんなことを占うとは思ってもみなかった」

 スターシャは紙に文字を書いた。インクは小刀で斬った指から滴り落ちた血を使った。紙は一枚だけでなく、何十枚も使った。そのため途中で血のインキが足りなくなり、何度も指を斬らなければならなかった。左手だけでは終わらず、右手の指も数本使った。書くことが終わると、その血書を手で丸めながら、浅い皿の上に積み重ねていった。

 皿上に小さな赤い山が現れた。スターシャはその山にランプの油をたっぷりと注いだ。

「少し下がって」

 コボスを下がらせてから、蝋燭で火を付けた。

 コボスは激しい炎が一気に吹きあがると思った・・・が、そうではなかった。頂上から裾の方に向かって今にも消えそうな青白い火となって、ゆっくりと燃えていた。その火にスターシャは低い声で何事か呪文らしきものを唱えながら、両手をかざした。コボスにもはっきり聞き取れなかった。聞き取れても意味がわかるはずもなかった。

 ほどなく血書は燃え尽きた。しかし山は崩れず、そのままの形で残った。

「剣を」

 コボスから剣を受け取ると、スターシャは刃を横にして両手で持ち、これまた呪文を唱えた後、上から押し下げるようにして山に押し当てた。剣が触れた途端、山は崩れ、粉状になった。

「水を」

 スターシャは短い言葉づかいを続けた。コボスは言われるままに、大きな木桶一杯の水を運んで来て、スターシャの前に置いた。置いた勢いで水が跳ね、スターシャの足を濡らした。コボスは頭を掻いたが、スターシャは水にも、コボスの照れにも気づかず、呪文を唱え続けている。壁の紋章の前には蝋燭が半円形に取り囲むようにして何十本も並べられていた。また小さな祭壇も置かれ、その上には抜き身の剣と、根元を縛った羽根製の小箒のようなものが並べられていた。

・・・今度は蝋燭か?水汲みから戻るまでの短い間に並べたのか?ん?何だ?あれは?・・・

 コボスの目が床の染みを捉えた。小さな染みが蝋燭と並ぶようにして半円形を描いている。

・・・蝋燭と染みについて聞きたい・・・が・・・無理だろうな・・・

 壁の紋章を見ながら、一心不乱に呪文を唱え続けるスターシャ。からかうのは無理だろうと少し近寄り妻の顔を見た時、染みの正体がわかった。

 涙、それはスターシャの涙だった。頬からの涙が、床に滴となって落ちていたのだ。今でのこうだから、蝋燭を並べる時も泣いていたに違いなかった。

・・・それほどまでに国王を・・・

「これでいいか?」

 邪魔な声かけだとはわかっていた。少しばかり嫉妬心が顔を出す。

 スターシャはわずかに頷つくと、その水にさっき作った白い粉を入れ、またコボスの剣で掻き混ぜた。粉は水に溶けて、乳白色となった。その間も呪文は途切れない。

「シャッ、シャッ」

 スターシャは剣を祭壇に戻すと、次に小さな羽根箒で桶の水を浸して異声を発しながら、左右に鋭く振った。無数の水玉となって壁の紋章や蝋燭に降り注ぐ。紋章は変わらなかったが、蝋燭が激しく燃え上がった。小さな蝋燭の灯が、天井に届きそうになるほどであった。

 何度も何度も同じ動作を繰り返す内に、呪文を唱える声は次第に大きくなっていく。髪を振り乱し、息つく間もなく羽根箒を打ち振る姿にコボスは圧倒されていた。スターシャの表情は今までコボスも見たことがない、肉体だけがそこにあって、魂が何処かを彷徨っている風であった。

・・・どうしたことだ?声を掛けてみたいが、それはやらないほうがいいだろう。聞こえそうもないし、ここでそうすると魂が戻ってこないような気がする・・・

 見守るしかなかった。

 長い時間が過ぎたように思えた。突如スターシャは羽根箒を投げ捨てると、水桶を両手で持つと、中身を壁の紋章めがけて叩きつけるように振り撒いた。それまでによほど力を使ったのだろう。スターシャは床に倒れ込んだ。水桶は床に転がると、そのまま壁にぶつかってばらばらに砕けた。

「大丈夫か!スターシャ」

 コボスは床に倒れ込んだ妻を抱き起そうとした。間近で顔を覗き込んで息をのんだ。

 血の気が消え、死人のような顔色をしていた。唇は紫色に変わり、目の下には隈ができ、その目も視線が定まっていなかった。大きく口を開け、肩で息をしていた。

「私を・・・立たせて・・・」

 体を震わしながら必死で立とうとしている様は、コボスには最後の命を絞り出しているように見えた。

「駄目だ。すこし横になって休むといい」

「それはもう少し後。結果を確かめないと、今迄やってきたことが無駄になるの。大丈夫だから」

 コボスの肩につかまって、ようやく立ちあがった。力を使いきったせいか、スターシャのままではいられず、夫に見せたくないヘドロバの顔になっていた。つかまりながら低い声でなおも呪文を唱えていく。コボスの肩に置いた手に力が入って、爪が肉に食い込んでいく。コボスは激痛に耐えるしかなかった。

「終わった・・・」

 声と同時に肩の痛みが引き、横顔がヘドロバからスターシャに戻っていく。少し青白いが愛する妻がそこにいた。

「そうか・・・占いとは、かくも恐ろしいものとは思わなかったよ」

 正直な気持ちを吐露した。

「そうよ。特に親しい人を占う時には覚悟がいるのよ」

「で・・・どうなんだ?国王は本当にこの世にいないのか?」

 どうにか息を整えたスターシャは壁の紋章と床の蝋燭に目を向けた。コボスも意味がわからいまま妻の見ているものを見た。

 黒地に金糸で刺繍された王冠を抱く獅子。さっきまでの神々しさは消え、黒地の生地は灰色と黒、白色、それもまだらに変色し、金糸の刺繍も切れ切れになって、不格好に短く、また長く、それも無意味に醜く垂れ下がっていた。床に並べられた蝋燭も惨めさは変わらなかった。折れたり倒れたりして、まっすぐ立っているものは、ほとんど見当らなかった。中には部屋の隅まで飛ばされ、その恨みを壁に黒ずんだ染みとして残したものもあった。

「ザイラルの言った通り、陛下はなくなっているわ」

「そうか・・・そいつは残念だな・・・」

「でも・・・希望もあるわ」

「希望?占いでそう出たのか?」

「ええ」

 はっきりとした口調に少し驚き、コボスはもう一度壁の紋章と蝋燭を見た。壁の紋章は獅子の姿は完全に消え、小さな王冠だけが元の輝きを放っていた。蝋燭はわずか一本だけが申し訳なさそうに炎を灯していた。

「俺にはわからん」

「当たり前よ。これでわかったら私の立場がないわ」

 その希望もあってか、スターシャの顔に赤みが戻ってきた。スターシャはコボスから体を離すと、小刀で冠を中心にして布地を切り取った。そしてそれを丁寧にたたむと、別の布を取り出して、唯一消え残った蝋燭と一緒に包んだ。

「これは大切なものだから、この鞄にいれておくわ」

 スターシャが大事なものを入れる鞄、この鞄にはピピの卵も入っている、の一番底にしまい込んだ。

「さあ、これから忙しくなるわよ」

 すっかり普段のスターシャに戻っていた。コボスはその変わり身の早さに内心驚いていた。あれほどの嘆き悲しんでいた時から、まだ三十プ~ン(三十分)も経っていない。

・・・「う~む」・・・

 コボスは占いについて、普段ならする冗談めいた風なしつこさを発揮しなかった。聞こうとする気が一気に萎んだというよりも、全く興味を失ってしまっていた。

・・・俺がいなくなっても同じだろうか?・・・

 その問いかけに答えが欲しかった。妻が信じられない位、長く生きてきたと聞いていた。コボス自身も「誓いの書」で愛を誓い、永遠の命を得ていた。自分が死んでスターシャに悲しみを与えることはないが、元の普通の人間に戻って死んだ場合、彼女の悲しみは一時的なものになるのだろうかと、ぼんやりと考えた。初めて永遠の命を得たことに、見えそうで見えない蜘蛛の糸、針の先ほどの幽かな後悔を感じた。妻は占いの結果とこれからやるべきことに気持ちを奪われ、夫のその心を感じ取ることができなかった。


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