十六章 ピピ物語 192 愛のかたち
・・・四・・・
コレディノカは突っ伏して泣くピピに、右手をゆっくりと近づけていった。そしてピピの背中を指先で静かに撫でた。
「ピピ、悪かった。許してくれ。僕が間違っていたよ。誰もが同じような記憶を持っているはずがないよ。君とはこの先もずっと一緒にいたいよ。機嫌を直してくれないか・・・ピピ・・・」
ピピはコレディノカの言葉を聞いて感動していたが、それ以上の感動を覚えていた。
・・・涙、これが涙ね。泣くってこんなことなんだ。格好は恥かしいけれど、泣くって気持ちがいいことだわ。自分の体から嫌なものが流れ落ちるみたい。スターシャ様もよく泣かれることはあったけど、泣かれることによって悲しみを外に出されていたのね。それに男の人は泣かれると困るのね。こんなに困ったコレディノカの声を聞いたことがないわ・・・
ピピは顔を上げてコレディノカの顔を見た。さっきの曇った表情は消え去り、今にも泣き出しそうな顔をしていた。泣いている自分を何とか慰めようと、懸命に背中をさすってくれていた。
・・・これが泣くってことなのね。とっても気持ちがいいわ。もう少し様子を見てみよう。しばらくは会えないから、やさしい言葉をもっと聞かせて・・・
やはり娘はどんな時にもしたたかだ。男は娘の涙には弱い。それも娘と付き合ったことがない若者にとって涙を見せられることは、拷問を受けているように苦痛だ。ほんの少しの笑顔を見るためなら、どんなことでもしなければならないとの気持ちに襲われてしまう。
コレディノカもそうだった。ピピを慰めるために何とかしなければならなかった。夫婦であれば前日喧嘩しても、翌日には仲直りして子供達を驚かせることもできるが、新しく生まれたばかりの恋人同士ではそうもいかなかった。言葉が全てなのだ。
ピピにとっては初めてとなるコレディノカの長い言い訳が始まった。
「ピピ・・・大好きなピピ・・・こんなに君を悲しませるとは思わなかったよ。僕は君のこと全てを知りたいんだ。ヘドロバ様のセルタで会う前からの君をね。さっきの言葉は自分勝手だった。みんながみんな両親の記憶がいいものとは限らないよ。僕だってそうさ。父はドルスパニア王国では名の知れた軍人。母は貴族階級の出身だった。逞しい父親と美しい母親。回りから見れば理想の夫婦。広大な屋敷に住み、使用人も多かった。そんな家庭に僕は生まれたんだ。僕の記憶の始まりは母の笑顔だけ。それも不思議なことに抱かれた記憶はないんだ。母の笑顔とやさしい声は、二人だけの時に聞いたことがなかった。大勢の人に囲まれた中での母の笑顔・・・美しかった・・・。いつも言っていた。『可愛いコレディノカ、私の宝物。あの人は陛下に忠誠を尽す軍人よ。あなたも早くお父様のような立い派な軍人になるのよ』と。周囲の人たちは感嘆の声を発し、母を誉めたよ。僕も初めは母の言葉を聞いて、おもちゃの剣を振り回して大人達の気を引いたけど、母から『私の前ではふざけないで。あの人の真似など二度としないと約束するのよ』と後で叱られたよ。父は屋敷にも帰ることも少なく、僕はある日母の部屋から若い父の部下が朝出てくるのを見たことがあるよ。母は僕に気がついて、初めて聞くやさしい声で言ったよ。『コレディノカ、あなたも五歳になるわ。寄宿舎に入る年ね。あの方は学校の先生よ。私があなたのことをお願いしておいたわ』。僕はその時から母が嫌いになったよ。父は屋敷に帰ることも少なく、戦いに明け暮れていた。そして名前も知らない国の戦いで死んでしまった。母は父の死を知ると訪れる人の前では立派な妻を演じていたけど、葬儀が終わった日から男を屋敷に泊めていたよ。これが僕の記憶の始まり。それと・・・これは面白い話だけど・・・」
コレディノカの話はまだまだ続きそうだった。話しながら背中をさすってくれるコレディノカの行為で、ピピも落ち着きを取戻していた。号泣もすすり泣きに変わって、今はコレディノカの話に気持ちを切り替えていた。コレディノカの傍に行きたい気持ちだった。
「僕の記憶はこんな感じかな・・・後は寄宿舎に入って軍人として鍛え上げられ、勲章を何度ももらった兵士になった。ところが、僕の友達のバーブル、サイノス、ポレルは違っていた。戦いが起きる時まではそれぞれの家で自由に暮らしていたんだ。バーブル、ポレルには幼い頃からの記憶を聞いたけど、身近な両親の記憶から始まっていたよ。その中でサイノスの記憶は違っていた。森で一緒に遊ぶバーブルやポレルから始まっているんだ。両親の記憶はもっと後から始まったと言っていた。人の一生での記憶の始まりはそれぞれ違っていて一緒じゃあないんだ。その者が一番いいと思う時から人生の始まったと考えても、誰に批判されることもない。そう考えると、気が楽になるよね。年をとっても、そう、死ぬ間際でも自分の最高の幸福感を記憶の始まりと考えるなら、過去の嫌なことに戻る必要もないだろう。そんな意味でね・・・ピピ・・・君の記憶の原点を今からにして欲しいんだ。僕もそうしたい」
コレディノカの話が終わった。コレディノカは黙っているピピの背中をやさしく撫で続けていた。信じられないほどに小さな背中だが、コレディノカにとっては大きな背中に思えた
ピピが話す番になった。コレディノカの気持ちがわかると、ピピも記憶の始めをやり直してもいいと
思い始めた。
「コレディノカ、あなたの気持ちはよくわかったわ。ヘドロバ様のセルタで初めて会った時から、あなたに対する記憶が始まったことにしましょう」
ピピは立ち上がった。涙に濡れ化粧の落ちた顔を隠すことなく、背中を伸ばした姿でコレディノカに対して大きく両手を広げた。目は閉じられていた。コレディノカも椅子から立ち上がると、大きく両手を広げピピを迎える格好でピピが近づいて来るのを待っていた。マヤフジも目を閉じていた。
マヤフジ、ピピは同時に不思議な感覚を覚えていた。相手の体が自分と同じ大きさに感じられたのだ。コレディノカはピピの体を強く抱きしめ、ピピも初めてコレディノカの背中に手を回せた。地面に足がついたままで、あんなに大きなコレディノカに抱きしめられることは到底できないと思っていた。頬と頬をくっつけて、背中に回した手でコレディノカの髪を触ることもできた。当然のような初めての口づけにピピは感動していた。ただ目を開けることはしない方がいいと本能的に思い、ずっと瞼を閉じていた。長い口づけに少し苦しくなって、唇を離した。
「あ、あー・・・」
自分でも出したことのない声が自然に出た。その時ピピはスターシャが卵のつまみを押すことを忘れた時の声に似ていると思った。
・・・そうだったのね。スターシャ様は嬉しかったんだわ・・・
コレディノカは夢中になっていた。ピピの体が大きくなり、胸の中で抱きしめることができるとはコレディノカも思っていなかった。小さなピピに頬擦りした時より、より鮮明に彼女の体を感じることができた。ほのかなピピの香りは、より強くコレディノカを包んでいた。長い口づけにピピが苦しくなって、顔を引いた時にピピの甘い吐息を聞いて、今まで押さえていた感情が崩れていくのがわかった。コレディノカはピピを抱きしめたままベッドに倒れこんだ。ショルタの中ではベッドの位置は目を閉じていてもわかっていた。ピピの髪を撫でながら、首筋へと唇を這わせた。ピピはコレディノカの名を何度も呼びながら、コレディノカに身を任せていた。
コレディノカは口づけをするのも初めてであり、それ以上のことの経験はなかった。厳格なドルスパニア王国では軍隊での悪友もいなかった。ただ本能に任せてよりピピを近くに感じたいと思った。最初に邪魔なのは自分の服とピピの服だった。
「ピピ、もっとピピを知りたい。服が邪魔なんだ」
「私もそう思っていたわ。脱がせてくれる?」
目をしっかりと閉じて、ピピは答えた。コレディノカが立ち上がって服を脱いでいるのがわかった。それからベッドの中に戻って来た。コレディノカの手がピピの服を脱がせ始めた。寒いはずなのに体が熱くなってきた。マヤフジが強く抱きしめてくれた。コレディノカの手がピピの胸をやさしく愛撫し始めた。ピピは今まで経験した事ない幸せに包まれた。
「ピピ、愛するってどうするの?僕にはわからないよ」
コレディノカの言葉が耳元で聞えるが、その声を聞くだけでぞくぞくした感じが体を突き抜けた。
・・・そうだわ。医学書を思い出さなくてはいけないわ。コレディノカよりは私の方が本を読んでいるだけに詳しいはずよ。私が教えてあげるわ・・・
ピピは体に走る快感の合間を縫って、小さな声でコレディノカに次にすべき事を教えていた。他人がいたら眉をひそめる光景ではあるが、愛しあう二人にとっては自分達だけで全てを覚えていく大切な時間だった。
コレディノカは一通り終わった後ピピを抱きしめ、
「ピピ、もう一度最初から愛してもいい?」
と聞いた。ピピはくすりと笑って、
「ええ、コレディノカ。教えられたことを自分のものにしたいのでしょう」
「そうなんだ。自分の性格が嫌になるよ」
コレディノカはそう言ったが、もう一度ピピを確かめたかったのだ。コレディノカはできるだけやさしくピピを愛した。今度はピピは教えることもなく、コレディノカに抱かれながら自分の気持ちに入ることができた
・・・スターシャ様と同じになったわ。愛されることって素晴らしいことなのね・・・
長い夜は今始まったばかりで、二人の初めての時間は朝までまだ多く残されていた。




