十四章 ザイラルの罠 178 岸辺の愛
・・・八・・・
「バーブル、待たせたかしら?仕度に手間取って少し遅くなったの。御免なさい」
「スターシャ、僕も今着いたところです。少し先にシュエードを弾いていました」
バーブルはもう胸が高まっていた。スターシャはセルタで会う時は違って、今まで見たこともないほどに美しく化粧をし、恋人に会うような姿で来てくれたのだ。少々待たされようと、その姿に込められた気持ちがわかって嬉しかった。
「ここに来る途中から聞こえていたわ。何度聞いても違った感動を与えてくれる」
「今夜も同じ曲でいいのですか?違う曲もありますが・・・」
「この曲でいいの。私の心も癒してくれるわ。お願い、約束どおり今夜は私だけのために聞弾いて」
スターシャは、バーブルに寄り添うようにして隣に腰掛けた。何の躊躇もない自然な動作は、二人の深い信頼感を表わしていた。
「それじゃあ始めますよ」
バーブルが弾き始めた。美しく、それでいて物悲しい音色が、静かな波の音に混ざりながら湖面に消えていく。月は満ちて青白い光を絶え間なく二人に降り注ぐ。二人の姿は、あたかも天上から降り立った恋人同士が、地上での一時を心ゆくまで過ごしているかのようだ。
バーブルは精一杯の感情をシュエードに込め、サイノスの剣舞で奏でた激しく鮮やかな手さばきとは違って、悩みを持っている全ての者を癒す女神の言葉のように奏でた。しかし曲には終わりがある。セルタで弾く時と同じように静かに終わった。
長い沈黙・・・
「何度聞いてもこの曲は素晴らしいわ。恥かしいけど今夜も泣けてきた」
スターシャは涙を拭きながら賞賛した。美しい瞳が涙で一層輝きを増し、憂いを含んだ悲しげな表情を見ると、バーブルは夫がいようが自分も全てを投げ出して守ろうと誓った。
・・・この思いを彼女の体を力一杯抱きしめながら言えたらどんなに幸せだろう。スターシャには心を患った夫がいる。それを治すためにあらゆることを試したに違いない。僕のシュエードに心揺らす夫を見て、わずかな望みを抱いたのだろう。必死になって自分で弾けるようにもなった。夫への愛情の深さを示して、愛の本質が何かを僕に教えてくれた。この恋心をそっと受け止めてくれる優しさもある。今夜で最後とはわかっているけど、切ない気持ちを僕は忘れられるのだろうか?いや絶対にできない・・・
バーブルは気持ちを傍にいるスターシャに伝えたかったが、それは彼女の心を裏切ることになってしまうからできなかった。ここで美しい別れをして、自分の恋心を封印するしかなかった。
「あなたにそんなに褒められると自分の曲だと思えなくなります。最高のできでした」
「これはいつ作ったの?」
バーブルは曲を作ったいきさつを話そうと思ったが、それは鐘の秘密を話に繋がると気がついた。しかし父親から「秘密を守れ」と言われていたのに、既にサイノスとポレルには打ち明けていた。ここでもう一人鐘の秘密を知る者を増やしても構わない気になったが、ヘドロバの孫には打ち明けるわけにはいかなかった。だが・・・スターシャの心をもっと癒すためには鐘の話は避けて通れない道であった。あの荘厳さの中で暗示を受けて作った曲とわかれば、彼女も同じ気持ちになれるに違いない。
「この曲を作ったのはまだ村が平和な頃でした。父は鐘撞役で毎日鐘を鳴らしていました。それは・・・・」
バーブルは一家が代々引き継いできた鐘撞きの役目を説明した。鐘の荘厳さ、美しさ、包み込まれる音色、そして輝く部屋の中で曲想の暗示を受けたことも詳しく話した。
「そうだったの・・・鐘撞役のお父様が召喚されてしまっては、もう二度と鳴らせないのね・・・」
スターシャは残念そうに言った。
「そうでもありません」
「えっ、何故?」
「僕がすべて受け継ぎました。鐘の全てを知っているのです」
バーブルは鐘の話になると夢中になる。目を閉じると鐘の音色に抱かれた時の陶酔感を思い出す。じっと話を聞いているスターシャの表情が、少し変わったのには気づかなかった。
「でもバーブル。兵士達はあなたが話したような鐘とは言わなかったわ」
「それは僕が細工をして鐘を眠らせたからです」
「どうやったの?元に戻せるの?」
「もちろんです。でもこれだけはあなたにも話せません」
「そうね。バーブル、お父様との約束なのね。本当は鐘の真実を打ち明けていけないのでしょう。でも美しい曲のいわれを教えるためにあえて話してくれた。とても嬉しいわ。あなたは正直で優しいのに私は・・・」
スターシャが俯く。白いうなじと背中がバーブルにはいじらしく、そして愛おしい。スターシャの気持ちを少しでも楽にしたかった。
「この曲はあなたと私のものにしましょう。あなたは御主人への強い愛を込めてこの曲を弾けばいいのです。父との約束はもうイノスとポレルに話して破ってしまっています。あなたはそんなに気にされなくてもいいのです」
「二人ともいいお友達なのね。兵士達の間で噂の美しい娘がポレルね」
「そうです。ポレルは強くやさしい娘です。サイノスも同じです」
「あなたはポレルが好きなのね」
「みんなポレルに憧れています」
「余程素適な人なのね。会ってみたいわ」
「宿営地にいればいつか会えます」
バーブルはポレルの名前を出されても、後ろめたさを感じなかった。ポレルの顔が浮かんでこなかった。それより今はスターシャのことだけ考えたかった。
「私に大事な秘密を打ち明けてくれてありがとう。鐘を奪ったおばあ様を恨まないで。あなたが作った美しい曲は私の宝物にするわ。私に対する気持ちは察しているけど、私には夫が全てなの。あなたの気持ちに応えてあげられなくて、ごめんなさい。でも・・・お願い、私を忘れないで。嫌いにならないで。あなたとの思い出は忘れたくないの」
「僕も同じです。あなたを嫌いになどなりません。だって・・・」
バーブルは思いのたけを打ち明けようとした。しかしその口をスターシャの手が塞いだ。
「それ以上言わないで。今までの感謝のしるしにこれを受け取って欲しいの」
スターシャは自分の首飾りを外すと、バーブルの首にかけようとした。自然にバーブルの首に手を回し、顔を近づける格好になった。美しい瞳と形のいい唇が迫ってきた。
バーブルはもう気持ちを抑えることができなかった。スターシャの体を抱きしめると夢中で彼女の唇に唇を押し付けた。
「ああ・・・」
スターシャは顔をそむけることもしないで、バーブルの首に回していた手を背中に回すと、激しく長い口づけに応えた。
「今夜だけは夫を忘れるわ。本当は私もあなたが好きでたまらないの」
耳元で甘くささやかれ、バーブルの男としての本能が燃え上がった。スターシャを抱きしめたままその場で重なっていく。湖の波は絶えることなく静かに寄せて、月の光は愛しあう二人を淡く照らしていた。




