十四章 ザイラルの罠 177 バーブル、ヘドロバに会う
・・・七・・・
「バーブル、待たせたかしら?仕度に手間取って少し遅くなったの。御免なさい」
「スターシャ、僕も今着いたところです。少し先にシュエードを弾いていました」
娘はバーブルに親しい間柄を匂わす聞き方をした。
言葉遣いやいきなり抱き合わないところからすると、恋人同士でもない様子だ。
サイノスとキトが初めて聞く、スターシャの名前。二人の出会いはサイノスとキトも知らないところで始まっていた。勘のいいポレルさえも気がつかなかった。
話は幾分遡る。
部隊で移動するだけの単調な日々は、大半の兵士達には面白みのない時間だった。しかしバーブルにとっては、刺激を感じる時間であった。そればかりか、宿営地の中を歩き回ることでさえ楽しい気持ちになった。
遠征先からの帰還は兵士達の警戒心を解き放ち、誰もがのんびりと過ごしていた。殺気だつ場面といえば、商売人達が現れる夜に限られていた。酔っぱらった兵士達が女を取り合っての殴り合いや、時には剣での争い事を起こすからだ。そんな時は悲しい気持ちになった。
・・・なぜ仲間同士で争うのだろう・・・悲しいことだ・・・
バーブルは昼食時間によく顔見知りの兵士からシュエードの演奏を頼まれ、彼らの故郷の歌を奏でてやった。兵士の歌を一度聞くだけで旋律が頭に入り、以前からその歌を知っていたように奏でられた。兵士達はシュエードに合せて、思う存分歌ったり踊ったりして愉快な時間を過ごせた。彼らはバーブルに感謝し、一人で宿営地を歩き回っても乱暴する者はいなかった。バーブルもこうして少しずつ部隊内で知られる存在になっていった。
その日も兵士達に頼まれてシュエードを弾いていた。短い休み時間を兵士達は十分に楽しみ、楽しい気分を持ったままで行軍準備に入っていた。バーブルがシュエードを片付けていると、一人の兵士が近づいて来た。その兵士の格好は今までバーブルを取囲んでいた兵士達とは違って、着ている服も素晴らしく背丈も高かった。彼を目にした兵士達も気軽に声をかけられないのか、避けるようにしている。
「おい、バーブルというのはお前か?黙っていてはわからぬ。そうなのだな。なら返事をしろ」
矢継ぎ早に、自分の地位を意識している者特有の威張った言い方をした。
「私がそうですが、何か用ですか?」
「ヘドロバ様がお呼びだ。ついて来い」
いきなり言われてバーブルは戸惑った。別に不安は感じなかったが、このまま行ったのでは仲間に知らせる時間がなかった。姿が見えないとポレルが騒ぎ出すに違いない。
「私が急にいなくなると心配する者がいます」
「仲間?おい!そこのお前」
いきなりその兵士は近くの者を指さし、
「バーブルをヘドロバ様のセルタに同行させる。この者の仲間とやらに伝えておけ」
と言い放った。指された兵士はもう駆けだしていた。よほどこの男は役職が上らしい。
「バーブル、安心しろ。お前のことは仲間に伝わる。さあ行くぞ」
バーブルの返事などお構いなしでもう数歩先にいた。一緒に行くしかなかった。
ヘドロバの名前は聞いていた。兵士達の間でも特別な存在として、その警護者のコボスと共に畏敬されていた。コボスもバーブルと同じシュットキエル出身者だった。彼について知っていたのは、ヘドロバがいるはずの民家で美しい娘と抱き合っていた姿だった。
「ヘドロバ様は私に何をお望みなのですか?」
「それはわからない。ただ連れて来いと命じられたのだ」
兵士はそれ以上何を聞かれても答えないという固い表情で、バーブルの前を歩いて行く。バーブルはシュエードを兵士達に聞かせたくらいでは咎められないと考え、今から会うヘドロバに興味を湧かせていた。若者特有の怖いもの見たさの気持ちは、バーブルも例外ではなかったのだ。
ヘドロバの宿営地に近づいても兵士の数は多くなかった。むしろ少なくなった。遠征軍の指揮者を守るために大勢の兵士を警護につけるのが自然だが、ここはそうではなかった。
・・・あの夜のように不用心だな。どうやらヘドロバ様とやらは、周囲に警護の兵士をおくのが嫌いなのだろう・・・
バーブルの思いを裏付けるように、案内した兵士はセルタに入ってすぐ出て来た。
「ヘドロバ様が中でお待ちだ。ここから入るがいい」
そう言うと足早にセルタを離れた。一人残されたバーブルは兵士が出入りした幕を開け、案内なしで入るしかなかった。
ショルタしか知らないバーブルにとって、セルタの中は身の置き場に困るほどの広さがあった。天井から明かりが入り、少し薄暗さがあるものの見づらいものではなかった。室内は幕で仕切られ、奥に人のいる気配がした。しかし・・・誰も出て来ない。
中に入ったバーブルは勝手に幕を開いて奥へは入っていけず、声がかかるか誰かが出てくるまで待つしかないと考えその場に立っていた。
長い時間待ったが、誰も出て来なかった。バーブルは声をかけようと思ったが、それよりもっといい考えが浮かんできた。バーブルは鞄からシュエードを取り出すと、静かに弾き始めた。
セルタの中でシュエードから放たれた音色が、壁代わりの布を通り過ぎてヘドロバに届くはずだった。ヘドロバの好みの曲はわからなかったが、バーブルは一番気に入っている曲を弾き始めた。
曲の半ばが過ぎた頃、突如セルタの中で人のうめき声というか叫び声が起こった。普通の人の声とは思えない恐ろしいその声に、バーブルは思わず後ずさりしシュエードを取り落としそうになったが、曲は弾き終わっておらず、演奏者の意地もあってその声を気にせず一心に弾き続けた。意味不明のその声は止むこともなく時には大きく、時には低く続いていた。シュエードを弾きながらバーブルは、その声が自分の弾く曲に合せていることに気がついた。
・・・何かわからないが、曲に合せて歌っている。ヘドロバが歌っているのか?あの黒ずくめの老婆が・・・
バーブルは最後の章を弾き終えた。それと同時に気味の悪い歌声も止んだ。
シェードを片付けているとセルタの幕が小さく開けられ人影が現れた。ヘドロバの出現かと思ったが、美しい若い娘だったからバーブルは目を見開いた。娘はバーブルの驚いた顔を見ていない風にして、飲み物を載せたプレートを両手で持っていた。
「これを飲んでもう少しお待ち下さい。今ヘドロバ様が見えます」
娘は小さなテーブルに二人分の飲み物を置くと奥へ引き返そうとしたが、足を止めてバーブルに笑顔を見せると、
「心に響く素適な曲だったわ。聞いていて涙が出てきたわ。大好きな曲になりそう」
「ありがとう。ヘドロバ様はいらっしゃるのですね」
「ええ」
「どんな方ですか?」
「ご自身でお話されて感じて取って下さい。私からはお話できません」
短い会話の後娘が奥に戻り、一杯目の飲み物に手をつける前にヘドロバが出てきた。彼女は前に見た時と同じように、黒ずくめの格好だった。体全体から発せられる不気味な威厳を感じ、話すのが初めてのバーブルは緊張し、テーブルの上の飲み物を一気に飲んだ。
ヘドロバは何も言わず空になった器を見て、二杯目の飲み物を注いだ。
「ヘドロバ様、バーブルです。あなたの使いに呼ばれました」
「バーブル・・・お前を呼んだが、用件は終わった」
「?まだ何も聞いておりませんが・・・」
と言いかけて、ヘドロバがシュエードを聞きたかったのだと気がついた。
「もう一度シュエードを弾きますか?」
「今日はもうよい。十分堪能した。・・・で、お前に頼みたいことがあるのだが・・・」
「何なりとおっしゃって下さい」
バーブルの答えを待っていたように、ヘドロバはテーブルの上に小さな袋を置いた。
「これでお前が今弾いた曲を買いたいのだ。売ってくれるな」
「ヘドロバ様、先程の曲は売れません。私にとって大切な曲です」
「曲などお前であればいくつでも作れよう」
「確かにおっしゃられる通りですが、この曲は別です。普段誰にでも聞かせる曲ではありません」
「どうしても駄目か」
「はい」
「それは残念じゃあ・・・この曲を我ものにするのは無理なのか・・・」
ヘドロバは落胆した顔をした。バーブルは噂に聞いた恐ろしいヘドロバが、その辺の老婆と同じ哀れな様子を示したことに同情を感じた。余程の理由があると察して、
「ヘドロバ様、お買いになりたい理由をお話し下さい。私にも考えさせて欲しいのです」
ヘドロバはバーブルの真剣な表情を見て、二三度頷くと・・・
「お前が曲を弾いた時に声を聞いたであろう」
「はい。驚きましたが、私の曲に合せるように歌っているようでした。どなたでしょうか?」
「わしの孫娘の夫だ。以前は快活な若者であったが、ある事で心を病み、何に対しても興味を示さなくなった。生きる屍と化してしまったのじゃ。お前のシュエードに初めて心を動かされたようだ」
「では先ほどの娘が孫娘と・・・」
「そうじゃあ。名前はスターシャと言う。夫を元に戻すために今まであらゆることを試してきたが、無駄であった。感情さえも出せなかった。しかしお前の奏でる曲を聞いて、眠っていた感情を揺さぶられて涙を流しながら大声を出しおった。お前からみれば恐ろしい声に聞えたであろうが、わしらにとっては希望に満ちた声なのじゃあ。それ故お前の曲を買いたいのだ」
ヘドロバは静かな口調で本当の理由を話した。しかしバーブルは曲を売ることにはどうしても踏み切れなかった。売れば自分の手元からなくなってしまう思いがした。
「ヘドロバ様、私がこのセルタで曲をお聞かせすることで、お心をお慰めしてはいけませんか?それに曲をお売りしても私のように弾ける者はいないと思います」
「他の者ではシュエードは弾けぬのか?」
「曲は写せましょうが、曲に込められた心は写せません。曲は私自身なのです」
バーブルはその言葉に絶対の自信があった。名曲は奏でる名手がいなければその真価を発揮できない。特にこの曲は心がないと、静かなだけでつまらないものになる。それに大勢の者に聞かせるには不向きで、心に悩みのある者を癒す魂の曲だと確信していた。
「そうか・・・お前は娘のために聞かせに来てくれるというのだな」
「お約束します」
「スターシャも喜ぶであろう」
「ヘドロバ様・・・孫娘がいらっしゃるのは初めて知りました。兵士達も噂にしておりません」
「お前だから会わせたのだ。秘密を守れとは頼まぬが、お前を信頼しておる」
ヘドロバのこの一言で、スターシャの件は誰にも言えなくなった。しかしバーブルはヘドロバのセルタを訪れる機会を得た。
最初の頃はヘドロバがバーブルの相手をしていたが、いつの間にかスターシャがバーブルの相手をするようになった。いつもスターシャはバーブルの傍で曲が終わるまで静かに待っていた。セルタの声の主、スターシャの夫の気持ちも何度か曲を聞いているうちに和らいできたのか、唸り声を上げなくなってきていた。
バーブルはスターシャと会うようになってから、妙に心が落ち着かなかった。ヘドロバのセルタを訪れて、スターシャの傍でシュエードを弾くことが楽しみな時間になったのだ。いつもスターシャは目を閉じて聞いていたが、バーブルは美しい横顔と微かな甘い香りに包まれこれ以上ない喜びを味わっていた。夫あるスターシャの妖しい美しさの虜になりそうなのをどうにか耐えていた。しかし・・・どこまで強い心を持ち続けられるか自信がなかった。
そんな日が何日か続いたある日、スターシャが、
「夫も随分良くなってきたわ。バーブル、今日までのことを感謝するわ」と言ってじっと見詰め、更に何か言いたげな表情をした。しかし言葉が続かない。
バーブルは毎回同じ感謝の言葉を聞いていたが、今日は違った感じで受け取った。彼女が別れを告げようとしているのを物憂い表情から読み取った。
「それはよかったですね。あなたも明るくなられたし、前に感じた御主人の恐ろしさもどうやら消えたようです。それにあなたがシュエードを弾きこなされるのもわかったし、何度となくこの曲も聴かれ覚えられたはずです。僕の役目は終わりましたね」
バーブルはスターシャが切り出す前にそう言ってやった。
実際スターシャはバーブルの弾く曲を自分のものにしていた。スターシャがシュエードを弾かせて欲しいと頼んできた時に手渡したが、スターシャの弾く曲を聞いて自分の曲が完璧にこなされたことを知った。それにスターシャが夫に対して、淡い恋心など入りようも無いほど深い愛情を持っているのも痛感していた。
スターシャは一瞬泣き笑うような不思議な表情をした。
「バーブル、最後に私だけのために弾いてくれないかしら。一度でいいからあなたの心を私にぶつけて欲しいの」
「わかりました」
バーブルがシュエードを構え、弾こうとするのを何故かスターシャは止めた。彼女の意図がわからない。
「ここでは嫌。・・・そうね・・・静かな美しい場所がいいわ」
スターシャは目を閉じて何かを思い浮かべているようだった。そして目を開けるとバーブルの手を握った。
「西の方に小さな湖があるわ。宿営地の外だし、誰も来ないわ。ねえ、そこにしましょう。明日の夜は満月だしきっと素適な時間が過ごせるわ・・・」
バーブルは彼女に対する恋心は通じていたと知って嬉しかった。反面、はっきりと別れを言われたようで胸が張り裂けるほどに悲しかった。その日を最後に別れたかったが、スターシャの申し入れに微かに頷いてしまった。少しでも長く彼女と過ごしたかったのだ。




