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九章 二つの戦い 105 ヘドロバの憂鬱

・・・一・・・


 ヘドロバはコボスを送り出した後、兵士達が今までに経験したことがない程のゆっくりとした行軍速度で本隊を進めさせた.ヘドロバとイロガンセ将軍が先頭に立って進んでいたが、彼女が意図的に馬の歩みを遅くしたものだから軍列が詰まってしまい、軍の行軍というよりも幼子達を連れた親子が街道を歩く姿に似て、遅々として進まなかった。

 兵士達は普段の行軍調子を崩され、いらついていた。どんな急歩調をとっても歩けるように訓練されていたから、経験のないのろのろとした歩調で歩かされ、気分的にも滅入っていたのだ。行軍距離の長短、峠の有無に関わらず、常に一定の速度より早く歩かないと疲れてしまうのだ。

 ヘドロバはもう少し早く歩くように願う兵士達から、あからさまな不満顔で見られても気にとめなかった。何故ならシュットキエルに引き返したコボスとこれ以上離れたくなかった。今朝別れたばかりなのに、もう何日、何ヶ月、何年も会ってない気持ちになっていた。その気持ちが遠征軍の行軍速度を遅いものにしていたが、その本当の理由を知る者はいなかった。

・・・天馬の薬の方が良かったかしら・・・あの人はもうシュットキエルに着いて、先に引き返したザイラルと戦っているのかしら・・・そのまま村に残りたいなどと思わないで欲しいわ・・・

 まだ日没までには時間があるというのに、どうしてもコボスのことが気になって、イロガンセ将軍に命じて行軍を止め、宿営の準備に入る命令を下した。

「ヘドロバ様、行軍を終了させるのはまだ早いのではありませんか?日暮れまでには時間があります。暑さもなく行軍するには一番いい時間です。もう少し先まで進まれてはどうでしょう?」

 命令されたイロガンセ将軍はあまりに早い行軍停止に驚いた。遅い行軍にイロガンセ将軍も兵士同様にいらついていたが、仕方なく行軍時間を長くして遅れを取戻そうと思っていたのだ。それに今日の有様のままで終わったのでは兵士達がだらけ、明日以降の行軍にも悪い影響を与えると考えていた。

「それに朝からの行軍速度が遅すぎて、予定した地点まで到達していません。逆に遅れを取戻すために、倍速で駆けさせるよう進言致します」

「いいのじゃあ。鐘は手に入り、遠征の目的はほぼ達成できた。ゆっくり進むのもたまにはいいだろう。それにザイラル以下の部隊も待ってやらねばなるまい」

 イロガンセ将軍はヘドロバの言葉を聞き、もう彼女に何を言っても無駄だと感じた。それでも何か一言、言いたかった。

「ザイラルもそうですが、コボス様も・・・ですかな・・・」

 イロガンセ将軍が珍しく軽口を叩く。兵士達の間で噂になっているヘドロバとコボスの関係を匂わせるが、ヘドロバはそれに答えず彼を一瞥すると自分専用のセルタに向かった。黒い頭巾を深くかぶっていたからイロガンセには見えなかったが、ヘドロバの頬は赤く染まっていた。

・・・気付かれずによかったわ。あの人との間を少し匂わされた位で、こんな気持ちになるなんて・・・純情な娘でもないけれど、変に嬉しいのは新妻だからかしら・・・

 スターシャに戻って好き勝手できるならば、黒服を脱ぎ捨てコボスを追ってシュットキエルに戻りたかった。天馬の薬を飲ませた馬で先に村に入り、夫の好きな白い服を着て出迎えたら驚くだろう。そして部下達の前で胸に飛び込んで、抱きしめるように甘えるのだ。仮面を付けている彼等は目の前で何が起ころうと無関心で、スターシャの姿で現れようが例え裸で現れようが記憶に残らない。コボスはそれを知らないから出迎え以上に驚き、抱きしめていいものか躊躇うに違いない。

 望んでも実際にはできないその場面を想像しながら微笑んだ。今の彼女は妻として夫が戻って来るまで、じっと待つしかなかった。一晩だけ寂しさを我慢すれば、明日には必ず手の届く所に姿を見せる。もう二度とそれから先は一人だけでは何処へも行かさず、夫婦としての日々を誰にも邪魔させずに過ごそうと思った。

 セルタに入るとすぐに姿を変えた。黒服を脱ぎ捨てると、男達を惑わす豊かな胸としなやかな肢体、美しい体が透き通って見える白服に着替えた。兵士達にはセルタに近づくなと命じており、安心してスターシャに戻れるのだ。

 服を着替えるだけで気分は変わり、夫を待つ新妻に戻って心を弾ませた。コボスを迎えに馬を駆けさせたい熱い恋心と、帰りを信じて待つ妻のいじらしさを心の中で競わせてみたが、どちらを応援していいか決心がつかず爪を噛んだ。男の帰りを一人で耐えながら、気を揉みつつ待つのは久しく忘れていた感覚であった。長い年月を生きて来たスターシャは、初めて一日を長く感じた。


 着替えを済ませると他にこれといった用もなく、広すぎるセルタの中で一人とり残された気持ちになった。コボスがいない夜がこんなに心細く、つまらないものだとは思わなかった。夫の存在が自分にとっては如何に大きいものかを、今さらながら強く感じた。

 コボスを想うと自然に頬を涙が流れ大泣きしたいスターシャだったが、妻のつとめという言葉を思い出し、せめて夫が帰るまでは泣くまいと誓った。それでも一人で夜を過ごす自信はなく、手が自然にピピの卵に伸びた。ピピと話すだけで・・・今は顔を見るだけで、スターシャは安心できた。

 珍しくせっかちに蓋を外したが、ピピは台座の上でいつものようににこやかに微笑んで待っていた。

 スターシャはピピを椅子に座らせると、息継ぐ間もなく早口で揺れ動く心の内を打ち明けた。兵士達が怖れるヘドロバと可憐なスターシャとでは姿は全く違っていたが、コボスを想う気持ちはどちらも同じだった。

 冷静なはずなのに、初めて恋を母親に打ち明ける娘のように言葉が先走る。ピピは微笑んでスターシャの訴えを静かに聞いている。彼女はスターシャが昼、夜と姿は変えているものの、コボスが去ってから一時として心を休めていないのを知っていた。

 彼女の告白は長く続いた。夜は始まったばかりで、話す時間は際限なかった。

 スターシャは自分の心の内を全て話すと気持ちが落ち着いたのか、やっと普段の落ち着いた表情に戻った。同時に自身の取り乱しに気づき、恥かしくなって俯いてしまった。

・・・無言の時間が流れる・・・

 スターシャが上目遣いでピピを見る。ピピの言葉を待っているのだ。

「スターシャ様、素適な夜ですね。今のスターシャ様はどんな人形より愛らしくて、一途な恋、いえ・・・愛・・・でしょうか・・・、それに包まれて輝かれています・・・お綺麗ですよ・・・」

「まあ、ピピったら・・・恥かしいわ」

 スターシャがくるりと背中を見せて後を向く。

 大きく開いた背中が薄紅色に染まり、耳につけた金色の飾りが揺れる。細い肩がいかにも心細げだ・・・。こんな姿を見せられたら、どんな堅物の男でも後から抱きしめるに違いない。恋する娘は背中でも恋を語れる。ましてや新婚間もない新妻の背中からは、娘にない匂い立つ色香が漂っていた。

「スターシャ様も御一緒されればよろしかったのに。二、三日は病と偽って行軍を止められました。それ位のことはスターシャ様には容易いはずです」

「そうね。そうしたい気持ちもあったけど、『夫の大切なものを守るのも妻のつとめだ』と言われると、一緒に行けなくなったわ。それに彼も待って欲しそうな顔をしていた。私は夫に従って彼の言葉通りにしたけど、今は少し後悔しているわ」

「お二人の未来を占えないのですね」

「そう・・・占いたいけど、怖くてできない。本当に心配だわ・・・」

「コボス様なら大丈夫ですよ、スターシャ様」

「ありがとう・・・夫の故郷が無事であればいいけど・・・いいえ、駄目・・・あの人には故郷を失って、がっかりして帰ってきて欲しいわ」

 スターシャの中で気持ちが揺れていた。聞き上手なピピに気持ちをぶつけ穏やかな気持ちに戻れたものの、彼女が卵の中に戻り姿が見えなくなると、また不安な気持ちに襲われた。今まではピピに話すだけで心が晴れる時が多かったが、今度ばかりはそう簡単にはいかなかった。彼女自身にもそのわけがわかっていた。

・・・今の自分が幸せ過ぎる・・・

 それを失いたくないため、無意識に作り出した不安と戦っていた。コボスを愛することで心が満たされているものの、幸せというものが長く続かないのを、これまでの生き方の中で知り抜いていた。スターシャは不幸には永遠に続く長さが隠され、幸せの絶頂期は不幸への止めようもない始まりと考えていた。

・・・幸せと不幸の捉え方は人それぞれだわ。例えば平凡な生き方で満足する者は、絶頂期の山が低いため、不幸に陥っても幸せと信じたままで生き抜ける。一方、人並の幸せで満足できない者は、求めるものも大きくなり、険しい山頂を目指して歯を食いしばって登って行かねばならない。しかし誰もが登れるものではなく、多くの者が途中で転げ落ちるわ。転げ落ちて初めて痛手を味わった者は臆病になり、再び山頂に挑む気持ちを失くし、少しの不幸もこの世の終わりと感じてしまうようになる。その結果何事に対しても背を向ける生き方をしてしまい、人生を棒に振るのよ。平凡な者が平凡なままで終わりたくないと無理した結果の悲劇は、簡単には元に戻せないわ・・・

 これまでにスターシャは普通の者以上に高い絶頂期を味わい、逆に底知れぬ不幸な時代も経験して来た。彼女にとってコボスとの結婚は、普通の娘と同じ幸せの絶頂期であり、一時の別れは耐えきれないほどの悲しみであった。そうならないためにコボスに永遠の命を授け、無敵の仮面軍団まで生み出した。こうまでして夫を護るために十分過ぎる心配りをしたからには、憂える対象のものは何もないはずであった。

・・・私の本能が微かな危機を察知しているわ。でもその私だけが感じる不幸が、どこまで迫っているかはわからない。ピピに打ち明けても心の晴れないのは、答えが見つかっていないから。未来を知るには将来を占えばいいけど、それだけはしたくないわ・・・

 スターシャの不安は当っていた。彼女が思っている以上の早さで運命は通り抜けていたのだ。夫について悩んでいるこの時、彼女を悲しませる出来事が既に始まっていた。いや、その夜の時点では紆余曲折はあったものの、過去の出来事として二つの物語は終わっていたのだ。その一つには夫のコボスが絡んでいた。もう一つは二人が将来絡むことになるかも知れない出来事だった。


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