先生あのね
先生のことがきらいでした
先生のことがきらいでした。
スーツから仄かに香る煙草の匂いがきらいでした。
「優等生」と揶揄うような言葉がきらいでした。
でも、口の端をあげて皮肉気に笑うその顔が一番きらいでした。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざここへ来ると何も言えない。言葉が出ないとはこういう事なのだろうか。
ポケットに入れた手に力を籠めるとグシャッという音がした。ここに来ると決めてから、言ってやろうと思っていたことを書いてきていたものだ。だが今は、ルーズリーフ一枚分にびっしりと書き綴り、きれいに畳んでしまっておいたそれを、取り出すことができなかった。
上着のポケットに手を突っ込んだまましばらく佇んでいると、ふと冷たいものが頬に降りてきた。空を見上げるとしんしんと雪が降り始めている。このままここにずっと居るわけにもいかないと気を取り直して、お供えとして持ってきていた酒瓶を墓石の前に置く。それから供えられている花をみて、少し傷んでいるものは抜き、自分が持ってきていた花と交換する。落ちていた花びらを痛んだ花と一緒にまとめてわきに置くと、単純な作業の筈なのに妙な達成感を得られた。
少し得意げになったところで、背負っていたリュックから紙コップを二つ取り出すと、置いておいた酒瓶の蓋をあけて適量を注ぐ。コップの中から漂う強いアルコールのにおいに少し顔をしかめ、一つは自分の手に持ち、もう一つは目の前の墓に供えた。
そうしてまたしばらく無言で墓を見つめる。右手に紙コップを持ち、左手は先ほどと同じようにポケットに手を入れて、先ほど握りしめてぐしゃぐしゃになった紙を弄んでいる。肩にはうっすらと雪が積もってきているが、不思議と寒さは感じなかった。
「…先生」
ぽつりと言葉をこぼす。
それは自分が思っていたよりも柔らかい音だった。
「お久しぶりです……半年前に、一緒に酒飲んで以来ですかね。あのときは散々な目にあいましたよ」
一度こぼせば次から次へと言葉があふれ出てくる。言葉と一緒にその時の様子も思い出してきていた。
「まだ成人になったばかりのおれに、よくもあんなに飲ませましたね。まだ恨んでるんですからね」
半年前、高校を卒業してからただの一度も会うこともなかった担任に、偶然にも駅前で再会した。大学からの帰り道で、少し余裕をもってゆっくりと歩いていたのが運のツキだったのかもしれない。いきなり右肩を叩かれ「よっ、優等生!」なんて声に驚いてしまい、尻餅をついてしまったその姿は、傍からみればマヌケにみえただろう。
地べたに座り込んだまの自分を見て、口の橋をあげて皮肉気に笑うその顔は、高校時代目にしていたものと何も変わらなかった。
そのあとは久しぶりに会ったのだからとか何とか言いくるめられ、半ば強引に近くの居酒屋に連れ込まれた。「大学はどうだ」という世間話から始まり今の自分の生活のことや、高校時代のころの話をした。相変わらず喫煙を続けているようで、会話を続けている間中煙草を口にしていた。「先生、吸いすぎると早死にしますよ」という言葉に目を細めて「…変わんないねえ、優等生くんは」気だるげに笑い灰皿に灰を落とす。その様子に揶揄われていると感じ「優等生じゃないです。吉田です」と高校のときと同じようにぶっきらぼうに返した。
酒がきてからは、成人したばかりの自分に何杯も勧め、限界まで飲ませた挙句、「もう眠いから」とか言って会計だけ済ませてさっさと帰っていった。その後自分は先生の自分勝手な態度にひとりごちながら、ふらふらとした足どりで何とか帰路につき、気づいたら玄関先で寝てしまっていた。翌朝玄関で寝たことによる体の痛みと、明らかな二日酔いの頭痛に、先生についていったことを激しく後悔した。
――相変わらずいい加減な人だ…だからきらいなんだ。
ちなみにそれ以降酒の席では量を控えるようになったのは言うまでもない。
そんな出来事から四か月ほど後に、先生はこの世を去った。交通事故に巻き込まれたらしい。
当時の自分は酒を飲んだときのことに対して未だ腹を立てている最中であり、友人たちが葬式に行くなかで都合がつかないと嘘をつき、通夜にも葬式にも参列しなかった。
最近になってようやく先生が死んだという事実がじわじわと沸いてきた。そして葬式に出なかったことに対して後悔と罪悪感がでてきたのだ。
それからの日々は何とも気の抜けたような毎日だった。大学の授業に集中できずに、気づけば高校生のときの自分に思いをはせていた。正しくは、亡くなってしまった先生、だったけれど。このまま授業もまともに受けられないようではダメだと思い、腹をくくって高校の頃の友人に連絡をとり、なんとか墓参りへとこぎつけたのである。
しかし、ただ墓参りに行くのは癪だから言いたいことを全部言ってやろうと、ルーズリーフ一枚分にびっしりと愚痴を書いてここに来た次第だ。
「思えば高校の時からいい加減でしたよね。人に面倒ごとを押し付けて、自分はさっさと帰ってしまって」
―――よっ、優等生、あとはよろしく頼んだぜ。
今でもはっきりと思い出せる。「優等生だからなんでもできるだろう」と適当なことを言い、面倒なことは全部自分に押し付けていたその姿を。思い返しても腹立たしいことこの上ない。
「おれのことも「優等生」なんて呼んでくるし…正直すごく嫌でした」
震えてきた声に気づかないふりをして続ける。
「スーツはいつも煙草くさいし、面倒ごとを押し付けてくるし、生徒の名前をきちんとよばないし……」
おかしい、呼吸がしづらくなってきた。そう思った瞬間、目が霞んで、頬を温かいものがすべりおちる。
「っだけど、おれ、あんたのこと…っ」
ついに立っていることができずに、その場に座り込んでしまう。一度ながれたものは止まることを知らず、どんどん両目から溢れてくる。
「きらいじゃ、なかった、よ」
ルーズリーフに綴られた言葉と正反対のことを口にする。
そう、きらいじゃなかった。スーツから香る煙草の匂いは、大人だということを意識させられて、子供だった自分は少し興味があった。自分だけがよばれる「優等生」という呼び名も、周りと違い自分が特別な気がしてうれしかった。皮肉気に笑う顔も、いたずらが成功した子供のようできらいではなかったのだ。すべてはそういった憧れをうけいれるには幼すぎた故に、こじらせてしまった結果である。
嗚咽をこらえきれず、しばらくそのまま泣いていた。先生が死んでからはじめて泣いた。そうだ、先生は死んでしまったのだ。
「葬式行かなくて、ごめん…っ。さいごに会いに行けなくて、ごめん…」
涙のあとが地面にできていて、土が湿っていた。このまま涙を流し続けたら海になるのだろうか。そうしたら、涙の海を泳いで先生に会いに行こう。先生はきっと「よっ、優等生。そんなに泣いてたら目が溶けちまうぞ」って皮肉気に笑いながら涙を拭ってくれる。
そんな馬鹿なことを考えてしまうほど参っていた。
そのまま座って泣いていてどれくらいたっただろう。いい加減に帰ろうとまだぐずる鼻をすすり、立ち上がる。中身が少し減った酒瓶をリュックにしまう。そして少し迷ってから、左ポケットに入っている少し丸まった紙を取り出し、供えた紙コップの下に挟む。
「…また来ます」
いちど深く頭を下げて、取り換えた痛んだ花を手に持ちその場を去る。振りることなく歩いていく自分の耳に先生の声が聞こえたような気がした。
――待ってるぞ、優等生。
先生のことがすきでした。
スーツから仄かに香る煙草の匂いがすきでした。
「優等生」と揶揄うような言葉がすきでした。
でも、口の端をあげて皮肉気に笑うその顔が一番すきでした。