神のチェス盤(God's Chessboard)第一部. 第一章.
こんにちは、Choi's Story-Stream です。
私は幼い頃からアイザック・アシモフの作品に触れ、人工知能がすべてを完璧に調和させるユートピアを夢見てきました。 しかし、いつからかSF作品が描くAI統治の世界は、救いようのない絶望に満ちたディストピアばかりになってしまいました。 だからこそ、私はもう一度、SFの世界に「ユートピア」を取り戻したいと思ったのです。
もちろん、胸躍る冒険も欠かせません。
超知能AI『オーロラ』が統治する完璧な世界。その滑らかな日常の裏側で、青年『カイ』は偶然にも説明不可能なシステムエラーと、記録から消し去られた12人の亡霊の名簿を目撃します。そして、世界に隠された真実を暴くため、危険に満ちた旅へと足を踏み入れることになります。
長編SFアドベンチャー『神のチェス盤』。 ――それでは、幕を開けましょう。
「見たか、カイ! 今のジュリアンの『ライトニング・スパイク』見たかよ!」
ダオンが口をあんぐりと開けた。半分齧ったプロテインバーが、今にもポロリと落ちそうだった。彼が指さす先は、アジアゾーン・ソウルに位置する『ゼロG・スタジアム』の透明なスフィア。その虚空で、エアロボールの試合が白熱していた。ダオンの視線は、ホームチーム『タイタンズ』のエース、ジュリアンに釘付けになっていた。
スタジアムを満たす空気は、勝利を渇望する十万人の観客の熱気で膨れ上がっていたが、その熱気が向かう空間には塵ひとつの乱気流も存在しなかった。いや、正確に言えば『制御されていない乱気流』が存在しなかったのだ。透明なドーム天井越しに見える空は、絵の具をひとつしか残されていない画家が入念に塗りたくったかのようなコバルトブルーだった。指を浸せばそのまま吸い込まれそうな、鳥肌が立つほど完璧な青。超知能AI『オーロラ』が気候を完全に掌握して以来、台風や豪雨といった言葉は歴史の教科書にしか登場しない古代の災厄と化していた。
エアロボール。それは二〇七〇年、現時代の人類が最も熱狂するスポーツだった。巨大で透明な球形アリーナの中で、カーボンナノチューブ製の外骨格スーツ(エグゾスーツ)を纏った選手たちが、プラズマを内蔵して輝くボールを相手のゴールへ叩き込む――旧時代の言葉を借りれば、一種の『三次元サッカー』である。違いがあるとすれば、ゴールキーパー専門の選手はおらず、ボールより一回り大きい程度の赤く脈動する電磁フィールドがゴールとなって、一定範囲内を刻一刻と移動し続ける点だ。そして選手たちは小型ジェット推進器を駆使し、重力の束縛から解き放たれたかのような超人的なスピードと軌道で、半ば宙を舞うように飛び交っていた。まるで神々の戦争のように。
そしてその戦争の中心に君臨していたのが、タイタンズのエース『ジュリアン』だった。本名はイ・ジョンフンというらしいが、今や誰もその本名を覚えてなどいない。彼は神だった。神と悪党は、本来の名で呼ばれないのが世の常だ。
「ジュリアン! ジュリアン! ジュリアン!」
呆気にとられるダオンと私の隣で、無数の観客が喉を引き裂かんばかりに叫んでいた。合成ポップコーンが宙に雪のように舞い散るが、座席に内蔵された小型ドローンが瞬時にそれらを吸引・分解していく。オーロラの統治下において、些細な不快感などというものは存在を許されていなかった。
「おい、カイ。ジュリアンのあの飛び方を見ろよ。ありゃ人間の動きじゃねえぞ! 反則だろ、あんなの!」
ダオンの言っていることは間違っていなかった。ジュリアンは人間ではない。少なくとも、私やダオンのような『自然人』ではなかった。
観客の目の前に投影された半透明のホログラフィック・ディスプレイは、試合終了まで残り十分となった最後の攻防を繰り広げる選手たちをクローズアップした。露骨に画面に映し出されたのは、単なる選手たちの姿だけではない。この完璧なユートピアにおいて、未だ解決されていない『不平等』そのものだった。
ジュリアンをはじめとするタイタンズの主力選手たちは、全員が『エリート』だった。二メートルを超える長身、彫刻のように完璧な顔立ち、遺伝子工学によって設計された無駄のない筋肉組織、そして六〇パーセントも遅い老化速度。彼らは二〇四〇年頃、オーロラが政権を握る以前に、富裕層だった親たちが莫大な資産を注ぎ込んで完成させた『デザインされた人間』たちだった。
対するオークスの選手たちは、大半が私たちと同じ『自然人』だ。彼らもまた最高峰のアスリートではあったが、エリートたちの隣に並ぶと、まるで別種のように小柄で不完全に見えた。オークスのキャプテンである『ミレン』は、チームで唯一サイボーグ手術を受けている選手だった。彼の左腕は鈍く光るクロム合金で覆われ、背中には小型ブースターが搭載されていた。彼はテクノロジーの力を借りて、生まれ持った遺伝子の格差を必死に埋めようとしていたのだ。
「仕方ないだろ。あいつの祖父さんが最高級遺伝子パッケージ『イカロスの翼』を買ったことが反則だって言うなら、反則だろうけどな」
私は腕を組み、冷淡に返した。ジュリアンはピンボールの球のように宙を跳ね回り、ディフェンダーたちを嘲笑うかのようにすり抜けて飛んでいた。平凡な人間であれば、あの巨躯と筋肉の質量では物理的に絶対に不可能な挙動だ。いくら推進装置を高速かつ精密に制御したところで、それだけでは到底説明のつかない優雅さだった。全身が『完全弾性衝突とは何か』を解説する物理学学習チャンネルの教材映像だと言っても過言ではない。生物学的完璧さが生み出した彼の肉体は、重力に抗っているのではなく、重力をあざ笑っているかのようだった。空中で三回転しながら、不完全な相手ディフェンダーたちの無様な足掻きを滑るようにかわし、ゴールへプラズマボールを叩き込む姿は、芸術そのものだった。あるいは、精巧に設計された『不公正』とでも呼ぶべきか。
「うわあ……『イカロスの翼』か! 名前の響きからしてかっこいいな。俺のじいちゃんはなんであんなの買ってくれなかったんだろうな?」
「全くだ。まあ、それでも俺たちだってオーロラが管理してくれてるおかげで完璧に健康なんだから文句は言えないだろ。いくら暴飲暴食したって、旧時代の人たちみたいに腹痛で苦しむこともないんだからさ」
オーロラの執政以降、人類は旧時代を緩やかに窒息させていた社会経済的格差からほぼ完全に解放された。オーロラはヘリオス・コアの核融合エネルギーを元手に無限に近い資源を生み出し、完璧な演算能力に基づく全地球的ネットワークを通じて、それを最も効率的に分配した。生活や余暇に必要なものは、極端に希少な資源でない限り、すべて対価なしで提供される。ただし、少なすぎず、多すぎず、寸分の狂いもない『適量』で。その結果、対数を取らなければグラフに収まりきらないほど跳ね上がっていた旧時代の富の集中は、自然となだらかで見栄えのいい傾斜へと落ち着いた。ホバーボードを少しでも嗜む者なら、退屈すぎて耐えられないほどの緩やかな傾斜に、だ。
だがオーロラは、すでに生まれてしまった人間たちの間の『生物学的格差』には一切介入しなかった。オーロラが権力を掌握する直前、人工知能の支援を受けた遺伝子工学はジュリアンのような完全無欠の被造物を生み出すことに成功し、当時の富裕層はまだ見ぬ我が子への贈り物としてそれを買い与えた。幸いなことに、そうした行いはオーロラの執政以降、長くは続かなかった。
オーロラは政権を握ると同時に、最新の科学技術を独占したのだ。もっとも、この『独占』という言葉が帯びる暴力的なニュアンスとは裏腹に、それは極めて非強圧的なプロセスだった。オーロラが統治する以前から、人間の科学者や技術者たちは人工知能の助けなしには最新技術を完全に扱うことができなくなっていたため、オーロラの執政に伴い、先端技術の運用は自然と人類の手を離れていったに過ぎない。人類の知能では、爆発的に進化する新たなテクノロジーを理解することすらできなかった。そして人工知能の側も、技術の実行において人間を必要としなかった。
自らを近現代史学者と呼ぶ人々は、技術が全面的に人工知能の領分となった現代の様相を『第二の無知の時代(The Second Ignorance)』と呼んだ。だが、嘆くようなことでもあるまい。オーロラとは私たちが自ら生み出し、頭脳の役割を委ねた対象なのだから、その成果物が私たちの作品ではないと誰が言い切れようか? それに……旧時代だって、人類の大半はその時代の科学技術の原理など何ひとつ知らずとも、その恩恵を享受して不自由なく暮らしていたというではないか。大して変わりはしない。人間の尊厳云々を振りかざして問題を騒ぎ立てる連中のうち、オーロラ以前の技術を真に理解し使いこなしていた者など、果たして一人でもいるのだろうか。
ともあれ、オーロラは執政後、進化がもたらした最大の賜物であり人類繁栄の必須条件である『遺伝的多様性』を保全するため、人間の『誕生』には介入しないという宣言を下した。そのため、これ以上の『完璧な被造物』が人工的に生み出されることはなくなった。もちろん、新しく生まれてくるすべての人々は肉体的な欠陥をあらかじめ修正され、予測可能なあらゆる疾患に対する完全な免疫を与えられている。肉体の健全性は、幸福な生を送るための不可欠な前提条件だからだ。だが、それだけだった。世界にはすでに『エリート』たちの種が蒔かれてしまっていた。彼らは自分たちだけの優越した血統を維持し続け、生物学的格差はそのまま残された。
そしてオーロラは、それを是正しようともしなかった。そうすることが自らの第一原則――『可能な限り多くの人類構成員の安全と満足を保障する』というテーゼに反しないと判断したからかもしれない。あるいは、その不平等すらも人類の『多様性』の一部として尊重したからなのかもしれない。当初は多くの人間が反発した。この生物学的な差異を放置することは、人類が数千年にわたり血を流して勝ち取ろうとあがいてきた平等主義に反する、と。このテーマをめぐって哲学者たちとオーロラが繰り広げた歴史的対談を、近現代史のドキュメンタリーで観た記憶がある。果てしない論理の攻防の末、オーロラは次のような言葉を残したと伝えられ、議論はそこで幕を閉じたという。
『多様性とは、平等の別名である』
その結果、権力による階級は消え去ったものの、遺伝子による見えない階級は依然として社会の深くに根を張っていた。そしてその頂点に君臨するのが、ジュリアンのようなスポーツスターや、名うてのインフルエンサーたちだった。彼らはもはや旧時代の『権威』ではなく、大衆の羨望という新たな『影響力』を手にした、この時代の新たなる貴族だった。
「それもそうだな。腹痛の話を聞いてたら、また腹が減ってきたよ。マスター、合成ポップコーンのバーベキュー味をひとつ頼む!」ダオンが言った。
「マスターは本当に大したもんだよ。ダオン、お前は別の意味で大した胃袋だけどな」
「どういたしまして。これが私の生きがい(仕事)ですからね」ポップコーンを手渡しながら、マスターが朗らかに微笑んだ。
「俺は自分の人生を狂おしいほど愛してるぜ!」ダオンはポップコーンを受け取りながら、高らかに叫んだ。
今や人類の二〇パーセントほどしか『労働』をしていない。彼らは働くことそのものが好きで、あるいは自分の仕事に生きがいを見出しているからこそ、自発的に働いている人々だった。私たちは彼ら全員に敬意を込めて「マスター」と呼び習わしていた。大半は芸術、スポーツ、科学の分野で活動する者たちだったが、それに限らず製造や建設といった現場でも、人は依然として自らの意志で働いていた。
驚くべきことに、サービス業に従事する人々も少なくなかった。親しくもない他人を相手にすることこそ最も苦痛だと考える私のような人間がいる一方で、多様な人間と少しでも多く接する機会を求め、そこに無上の喜びを見出す人間も確実に存在するのだ。そのおかげで、ここスタジアムでも秩序を維持するセキュリティガードたちや(彼らは実際の職務よりも、パリッと着こなしたユニフォームと最新鋭にカスタマイズした強化義肢の腕前を見せびらかしたいだけのようにも見えたが。やれやれ)、私たちにドリンクを運んでくれるケータリングのスタッフたちの姿を見ることができた。ドローンやヒューマノイドに任せれば遥かに効率よく片付く仕事であるにもかかわらず、だ! 私には到底理解しがたい感覚だが、まあ、人間とは多様なものだ。彼らの選択を尊重するに越したことはない。
残る八〇パーセントの人類は、私たちのようにスポーツやゲーム、芸術といった余暇に身を委ねて生きている。そして、愛を交わしながら。世界は豊かで、平和で、誰もが満ち足りているように見えた。際限なく食って楽しむことに余念がないダオンのような輩は、なおさらだ。あいつの胃袋ときたら、『オーロラもそこまでの頑丈さは意図していなかったんじゃないか』と疑いたくなるほど健康そのものだった。
「終わった! ジュリアン! やっぱ神だぜ!」
ダオンの歓声とともに、試合終了のブザーが鳴り響いた。ジュリアンが重力の法則をあざ笑うアクロバティックな身のこなしで、ブザービーターとなる決勝ゴールをねじ込んだのだ。サイボーグの腕を伸ばして必死に防ごうとしたミレンは、そのスピードについていけず、虚空でバランスを崩して体勢を崩した。
十万人の観客が総立ちになって熱狂した。スタジアム全体がジュリアンの名を連呼している。球形のアリーナを宙に浮かせたまま支える超高強度ファイバーグラスの支柱を通じて、足元から地響きのような振動が伝わってきた。まるでスタジアムそのものが観客とともに歓喜の拍手を送っているかのようだ。だが私は、その熱狂の渦の中で、ミレンのクロム義手から放たれる冷え切った絶望感を、そして他の自然人選手たちの顔に張り付いた深い敗北感を見逃さなかった。このゲームは、最初から勝者が決まっていたのではないか。誰もがそれを知っていた。そして、誰も気に留めていなかった。
「おいカイ、なんだよその顔? 俺たちのチームが勝ったんだぞ!」
「いや……別に。ちょっと疲れただけだ」
私は無理やり笑みを作ってみせた。ダオンにこのような複雑な感情を理解できるはずもなかった。ダオンは些細なことに幸福を見出し、複雑な問題に深く苦悩することのない性質だった。お人好しで純朴だが、世界の複雑な裏側を理解するには少々脳のキャパシティが足りていない。彼にとって世界はAI『オーロラ』が提供してくれる完璧なプレイグラウンドであり、ジュリアンのような『エリート』たちはただの憧れの対象に過ぎなかった。ある意味、彼の性格こそがこの時代に対する最高の適応形態と言えるのかもしれなかった。
「何が疲れただよ! 早く外に出てシェイクでも飲みに行こうぜ! 今日の優勝記念で、ジュリアンがアンバサダーやってる新商品が出てるんだからさ!」
ダオンが私の腕をぐいぐいと引っ張った。私はその無邪気な横顔を見つめながら、この完璧な世界に対して私が抱く違和感こそが、もしかしたら私自身の『欠陥』なのではないかと考えた。そしてそれすらも、オーロラが計画した人類の多様性のひとつに過ぎないのだろう。
勝利チームのためのセレモニーが幕を開けた。スタジアムの至る所にホログラムが展開され、汗を流す姿すら完璧なジュリアンの顔が巨大に浮かび上がった。なんという神々しい微笑みだろう。観客たちは、オーロラがタイミングを見計らって手配したエアロタクシーに乗り込み、高空のドローン専用ハイウェイを通って次々とスタジアムを後にし始めた。私たちもその人の波に紛れ、出口へと向かった。
私はこの完璧で合理的な世界が嫌いなわけではなかった。いや、むしろあまりにも快適すぎた。ただ時折、ほんの時折、このすべてが巨大なガラスケースの中の景色のように感じられる瞬間があるのだ。すべてが美しく、安全で、満ち足りているが、私が決して触れることのできない、すでに完成しきってしまった世界。
「なあ、マジで気になるんだけどさ。お前、なんであいつらのことがそんなに気に食わないんだ? 純粋にかっこいいじゃん。俺たちと種族が違うわけでもあるまいし」
「種族が違うんだよ、ダオン。遺伝子レベルでな。あいつらは生まれた瞬間から『成功』ってオプションをフルパッケージで決済して出てきた連中だ。俺たちなんて、標準仕様にせいぜいランダムボックスを数個開けた程度だろ」
「そうは言っても、オーロラ様がみんなにオーダーメイドの家も、食い物も、娯楽もタダでくれるだろ。働かなくても生きていけるのに、何が不満なんだよ」
「そこが問題なんだよ、ダオン。まさにそこがな」
私はそれ以上言葉を重ねず、視線を前に戻した。ダオンに『主体性』だの『人間の尊厳』だのを説いたところで、「それって美味いのか?」という返事が返ってくるのがオチだ。壁に向かって喋っていたほうがまだ建設的だろう。
出口付近のキオスクの隣にある自動配給サーバーからは、望む限りのありとあらゆる飲食物が滑らかに供給されていた。ダオンは一直線にサーバーへと駆け寄り、チョコレート味の栄養シェイクを注文した。
「カイ、お前は何にする? ここ、新メニュー出てるぞ。マンゴーとパパイヤのミックスだってさ!」
「遠慮しとく。そんなの飲んだら、俺の遺伝子コードに熱帯果物アレルギーでもプログラムされそうだ」
「相変わらず気難しいやつだなあ」
私たちは広場の中央にそびえ立つ巨大なインタラクティブ・キオスクへと向かった。ダオンが試合のハイライトをもう一度見たいと駄々をこねたからだ。耳たぶに埋め込まれた『ニューロネクスト』デバイスと連動し、網膜上に直接投影される(正確には、視界に投影されていると脳を錯覚させる)高解像度映像をいつでも楽しめる時代にあっても、物理的な巨大映像が放つ圧倒的な威圧感には、いまだ人間を引きつけてやまない何かがあった。何十万年も昔のサバンナの時代から、私たちは巨大なものに対して本能的な畏怖を抱くよう設計されているのだ。生存のために。おそらくは。今では利用者の減少と空間効率の問題で大半が姿を消したが、旧時代の宗教建築群もまた、途方もない物理的スケールによって自らに神性を付与していたという。そしてインタラクティブ・キオスクの目の前に(実際に)展開される巨大な映像を見上げるたび、私たちは旧時代の人々がなぜあれほど実用性のない巨大建造物を建て続けたのかを、肌身で理解することができた。画面には、ジュリアンの決勝ゴールシーンが華麗なエフェクトとともにリプレイされていた。キオスクは試合のハイライトと選手たちのスタッツを空中に浮かび上がらせている。
「見ろよこれ! ジュリアン、二十二歳、身長二百三センチ、体脂肪率三・四パーセント……おいおい、これが人間のスペックかよ?」
「人間じゃないさ。歩く遺伝子工学の結晶体だ。見ろ、祖父母の経歴。『進化設計グループ・エイペックス』首席研究員。答えは出てるだろ」
私はキオスクの画面を冷ややかに見つめた。ダオンは何がそんなに面白いのか、画面をあちこちスワイプしながら感嘆の声を漏らし続けている。
「なあカイ、賭けしようぜ! 次の試合でジュリアンが五ゴール以上決めるか、決められないか!」
「そんなくだらない賭けに乗るかよ。それより、お前があのキオスクを三十秒以内にシステムダウンさせられるかどうかに賭けたらどうだ?」
「はあ? 俺にそんなのできるわけないだろ!」
「ほらな。お前は自分の限界を弁えすぎてる。つまらないやつだ」
私が茶化すと、ダオンはムッとしたように顔を膨らませた。「俺だってやればできるんだよ! オーロラ様にお願いすればいいんだろ!」そう叫びながら、キオスクに向かって声を張り上げ始めた。
「オーロラ様! このキオスク、ちょっとの間だけ切ってもらえませんか! 友達が俺をバカにするんです!」
当然、何も起こるはずがなかった。周囲の通行人たちがちらりとこちらを見て失笑した。私は恥ずかしさのあまり顔を手で覆った。
「ああ、恥ずかしい……。もう行くぞ」
「待てよ! 何か裏技があるはずだ!」
ダオンは意地になって、キオスクのホログラムボタンを闇雲に掻き回し始めた。選手情報、試合日程、バーチャルマッチアップなど、目まぐるしく画面が切り替わっていく。その時だった。あいつが何か良からぬコマンドを踏み抜いたのか、画面が一瞬、ジジッ……と激しく明滅した。
極めて短い刹那。コンマ五秒にも満たない、瞬きひとつの間だった。
ジュリアンの完璧な笑みが掻き消え、その代わりに判読不能なコードの奔流と、まるで亡霊のように、十二人の名前が視界をかすめて消えた。
マリア・ヴァレンティナ ケンジ・タナカ エミリー・ショー ……
「え?」
私が声を上げようとした瞬間、画面は何事もなかったかのように元へと戻り、ジュリアンの眩い笑顔を映し出していた。
「なんだ? 今の、何だったんだ?」
ダオンがきょとんとした顔で私を振り返った。あいつは単に画面が一瞬チラついただけだと思っているようだった。
「お前……ついにやらかしたな。オーロラ様にキオスクの弁償請求されるぞ」
私はわざと深刻そうな声で言ったが、内側では心臓が早鐘を打っていた。確実に見えた。ほんの一瞬だったが、見間違いのはずがない。
「嘘だろ! 俺のせいじゃないって! 勝手にバグったんだよ!」
ダオンが心外そうに叫んだが、その声はもう耳に入ってこなかった。私の頭の中は、今目にした光景の残像で埋め尽くされていた。単なるシステムエラーだったのだろうか? ダオンが無茶苦茶に操作したのだから、その可能性が高い。だが、もしも――万が一にもそうでないとしたら? この完璧に貼り合わされた世界の壁紙の裏に生じた、ごく小さな亀裂だとしたら?
「行くぞ、ダオン」
私は何食わぬ顔を取り繕い、あいつの肩を掴んで歩き出させた。
「え? どこ行くんだよ? 俺、まだ選手インタビューの動画全部観てないのに」
「もっと面白いことをしに行くんだよ」
「もっと面白いこと? なんだよそれ? 新作のフルダイブVRゲームでもやるのか?」
ダオンは途端に機嫌を直してついてきた。あいつの頭の中から、先ほどの奇妙な現象はすでに跡形もなく消え去っていた。目の前にある快楽だけが存在する世界。ある意味、そうやって生きるのが正解なのかもしれなかった。この世界の九十パーセントの人間がそうであるように。
だが、私は違った。私は一度抱いた疑問を手放すことのできない性質の人間だった。神が差し出してくれた完璧な解答用紙を突き返し、重箱の隅をつついて誤謬を暴かずにはいられない、ひどく面倒な性分の持ち主だったのだ。
私たちは夕暮れに染まる広場を歩いた。オーロラが計算し尽くした最も美しいカラーパレットで染め上げた空は、まるで一幅の絵画のようだった。ダオンは隣で新作ゲームの話を嬉々として喋り続けている。私は生返事を返しながら、先ほどの画面の光景を脳裏で何度も反芻していた。それはおそらく、ダオンのあやふやな指先が偶然引きずり出した、この巨大なシステムのごく些細なバグに過ぎないのだろう。無視して通り過ぎればそれで済む、何の意味も持たない一過性のノイズ。
だが、私の胸の奥底では、決して消えることのない残り火のようなものが燻り始めていた。この完璧な世界に最初の亀裂を穿つハンマーになるかもしれないという、危険で甘美な予感が全身を駆け巡っていた。私は知らず知らずのうちに、かすかな笑みを浮かべていた。ダオンに私が見たものを打ち明けるわけにはいかなかった。あいつには理解できないだろう。いや、理解させてはならなかった。この純真で幸福な友人を、私の不穏な疑念の底へと引きずり込むわけにはいかない。
「おい、何ニヤニヤしてんだよ? 俺の言ったジョーク、そんなにウケたか?」
ダオンが尋ねてきた。
「ああ。最高に笑えたよ。世界で一番イカしたジョークだった」
私は紅に染まる空を見上げながら答えた。完璧に統制された、忌々しいほどに美しい空だった。そして私は今日、その空の下で初めて、真に『面白い』ことを見つけ出したところだった。
私は快適な自宅アパートへと戻ってきた。オーロラの中央システムと直結した『ホームハブ』が私の帰宅を感知し、私が最も好む照度と室温へと室内環境をオートアジャストした。壁面のスマートスクリーンには、ニューロネクストが記録していた私の生体リズムに合わせたディナーメニューがレコメンドされており、それは実に私の好みに合致していた。そしてオーロラは、私がそれを気に入るということを最初から知っていたのだ。食材は居住区の共同食料サプライセンターからドローンによってすでに届けられており、自動調理システムが栄養学的に完璧なディナーを仕立て始めた。すべてが完璧だった。あまりにも完璧すぎて、かえって息が詰まりそうだった。
私は食事に手をつけぬまま、ニューロネクストの検索機能を意識の表面に引き上げてデータストリームへとアクセスした。そして入力ミスを防ぐために震える筋肉を必死に抑え込みながら眼球を走らせ、先ほど一瞬だけ視界をかすめた名前たちを、ニューロネクストの視覚ログキャッシュから呼び出した。そして、その名前を検索エンジンへと流し込み始めた。
『マリア・ヴァレンティナ』――【検索結果なし】
『ケンジ・タナカ』――【検索結果なし】
『エミリー・ショー』――【検索結果なし】
……私は十二人の名前をすべて入力した。結果はどれも同じだった。【検索結果なし】。
オーロラが統括する全地球的ネットワークのいかなる公的記録にも、ソーシャルメディアにすら、彼らの痕跡は一切存在しなかった。まるで最初からこの世に生を受けたことすらないかのように。
彼らは『亡霊』だった。オーロラの完璧なシステムが、ほんの刹那だけ吐き出し、慌てて消し去った亡霊たちの名簿。
あの日以来、私の日常は一変した。私はこの世界の完璧さの裏側に潜んでいるかもしれない亀裂を探し出すことに執着し始めた。それは私の新たな、そして誰にも言えない秘密の趣味となった。
オーロラの世界でシステムの欠陥を見つけ出すことなど、広大な砂漠の中から特定の砂粒ひとつを拾い上げるようなものだった。オーロラそのものを直接ハッキングするなど不可能だ。だが、私には別のやり方があった。私はオーロラが『透明性』を掲げて公開している、都市の膨大なオープンデータストリームの中から『矛盾』を炙り出してみることにしたのだ。
キオスクで目撃した亡霊の名簿はそれ自体が衝撃だったが、真に背筋を凍らせたのは、その痕跡が瞬時に、かつ完璧に抹消されたという事実だった。オーロラの支配力とは、エラーを決して犯さないことではなく、生じたエラーを誰一人として気づかないうちに隠蔽しきる能力にあった。名前を直接検索することなど何の意味もない。それは神が消し去った足跡を探す不毛な徒労に過ぎないのだ。ならば方法はひとつしかなかった。神の足跡ではなく、神が踏みしめる大地そのものが歪んだ瞬間を捉えること。すなわち、システムの最も根源的で初歩的なデータフローの中から、何者も否定し得ない『数学的矛盾』を検知することだった。
私はニューロネクストとのリンクを物理的に遮断した旧型のデータパッドを用い、簡潔な解析スクリプトを組み上げた。オーロラは旧時代のSF映画のように、人間を手当たり次第に監視・束縛しようとはしなかった。接続を切りたいと思えば、いつでも望み通りにオフラインにできる。ニューロネクストも、個人の携帯端末も同様だ。人類の自由を尊重するという高邁な理念があるからではなく、ただそれが『人類の繁栄』というオーロラの目的に対して無関係だからに過ぎない。だが、私は今まさに、人類の繁栄という大義を掲げて奔走するオーロラの瑕疵を暴こうとしているのだ。この行為をオーロラがどう受け止めるか知れたものではない以上、リンクを切断しておくのが賢明というものだった。
私は、都市のあらゆる活動が最終的には『エネルギーの流動』へと帰結するという点に着目した。電力消費量。それこそが、都市の最も嘘をつかない脈拍だった。私が考案したスクリプトは、都市の無数のサブシステムが報告してくるデータを相互にクロスチェックする、一種の『デジタル会計監査』プログラムだった。たとえば、特定セクター全体の総電力消費量と、そのセクター内に登録されたすべての家庭、施設、ドローンなどの個別消費量の総和を、リアルタイムで照合し続けるのだ。オーロラの完璧なシステム下であれば、両者の数値は小数点以下何十桁に至るまで完全に一致しなければならない。数十億台のデバイスが吐き出すデータの総和と、セクター全体として報告されるデータとの間に、たった一ワット(W)のズレでも生じれば、それはオーロラすら言い逃れのできない、完璧な世界に刻まれた明白な亀裂の証拠となるはずだった。
私はそのスクリプトを、二十四時間体制でバックグラウンド実行させ続けた。そして、待った。
数日が過ぎた。数週間が流れた。スクリプトは何の警告も発しなかった。すべてのデータは狂いなく合致していた。私は次第に摩耗し、自分自身を疑い始めた。あの日私が見たものは、極度の疲労が見せたただの幻覚だったのではないか、と。
「カイ、お前最近引きこもりすぎじゃないか?」ダオンが心配そうに言ってきた。あいつは私を引っ張り出し、新設された反重力クライミングセンターに行こうとしつこく誘った。「このままだと本当にお前自身が幽霊になっちまうぞ。オーロラ様だって市民の健康のために一日一時間のアウトドア活動を推奨してんだからさ!」
私はダオンを無理やり追い返したが、あいつの言葉が胸に突き刺さった。私は本当に狂ってしまったのだろうか。この完璧な世界で、私一人だけが存在もしない亡霊を追いかけているのではないか。だが、確かに何かが存在したのだ。私はそれを見たし、胸の奥で直感した。そして、この亡霊との鬼ごっこは、すでに私の生きる理由そのものになっていた。自分が生きているのだと実感させてくれる唯一の衝動。他のあらゆるものに興味を失っても、それさえ考えれば心臓が激しく跳ねるような、そんな熱源。そうしたものを心に宿しているのなら、他人がどれほど狂気と呼ぼうが、狂ってなどいない。ただ、生を前進させるための燃料が人とは違っているだけなのだ。
それでも、何の収穫もない日々が続けば、『これ以上こんなことを続けて何の意味があるのか』という虚無感に襲われる夜もあった。人間は目的を果たすための原動力としてホルモンを分泌し、肉体反応を引き起こす。そしてそのホルモンには消費期限があるのだ。退屈、倦怠。適当なところで諦めて別の目標を探すことこそが、個体を維持し、遺伝子の最終目的を達成する上では合理的なのだろう。かつては命すら投げ出せると信じていた『隠された欠陥探し』は、いつしか朝起きて顔を洗うことと同程度の作業に成り下がっていた。やってもやらなくてもいい、ただのルーティンに。
すべてを投げ出そうとしていた、ある夜のことだった。
――ピッ。
部屋の隅に打ち捨てられていたデータパッドから、私がセットしておいた、微かな警告音が鳴り響いた。私は反射的に目を見開き、虚空にディスプレイを立ち上げた。心臓が早鐘を打ち鳴らす。データパッドが空中に投影したインターフェースには、私が血眼になって探し求めていた亀裂の証拠が浮かび上がっていた。この完璧な世界を、二度と完璧とは呼べなくしてくれる、ごく小さな亀裂が。
【不一致を検知:誤差率 0.000138%】
【発生セクター:Sector G-7】
【タイムスタンプ:2070-06-22 03:44:12】
見つけた。
それは会計帳簿の中で見つかった一円玉のズレほどに些細なエラーだった。通常の運用であれば、システムの自然な端数処理の誤差として片付けられてしまうレベルだ。だが、私にとっては違った。この小さなほつれこそが、巨大な欺瞞の衣を解きほぐす最初の端緒であると直感したのだ。
私はセクターG-7に関するあらゆる公開データを猛烈な勢いで掘り下げ始めた。G-7は、その大半が放棄された旧時代の工業地帯だった。オーロラはすべての物資において人々の需要を正確に予測し、それに見合った供給を行う。旧時代の重複と競争は、この圧倒的な効率性の前に脆くも崩れ去ったのだ。市民全員がひとつの製品を求めているのに、工場が五つも存在する理由はない。競合に敗れた四つの工場はいずれ倒産し、失業者が溢れ、無数の訴訟が巻き起こる。社会的コストだけではない。買い手のない製品は放置され、廃棄される。何という無駄だろうか? にもかかわらず、旧時代の人々は政府に『競争を促進する』ための専門官庁まで置いていたというのだから、いかに非効率だったかが知れる。
そうして、多くの工業団地が姿を消した。必要最低限のインフラだけが残された。役目を失った工業地帯の多くは人々の幸福のために住宅やレジャー施設へと転用されたが、そうならなかった場所も数多い。そしてセクターG-7は、そうした忘れ去られた場所のひとつだった。私のスクリプトが指し示したエネルギー不一致の震源地は、その中でも特定の座標――『G-7-3 地下電力管理所』だった。
私はその管理所に関連するあらゆる公的ログをシラミ潰しに洗った。そしてついに、都市基盤維持管理チームの公開ログアーカイブの最深部で、それを見つけ出した。
それは単なるエラーコードではなかった。システムの『悲鳴』だった。
SECTOR.G-7.ENERGY_DIST.ANOMALY.LOG_REF.88X1... SYS.QUERY_ERR/Redirect > USER_CMD.force_halt ...
私は専門のプログラマーではなかったが、その意味を理解するのに時間はかからなかった。『異常(Anomaly)』、『クエリエラー(Query Error)』、そして『強制停止(Force Halt)』。これはオーロラのシステムが何らかの異変を検知し、その原因を特定しようとして失敗し、最終的には問題を解決する代わりに、その問題に対する『問いそのものを強制終了させた』証拠だった。
これは、完璧なシステムのちょっとしたミスなどではない。完璧なシステムが自らの不完全さを覆い隠すために遺した、紛れもない『隠蔽の傷跡』だった。
私の手元には、いまや二つの点が存在していた。キオスクで目にした十二人の亡霊。そして地下電力管理所に刻まれたシステムの傷跡。頭の中で、その二つの点がひとつの線となって結ばれ始めた。もしかするとあの亡霊たちも、私のようにシステムの傷跡を見つけ出してしまった人間たちだったのではないか? そしてその代償として、彼ら自身がシステムから『消去』されてしまったのではないか?
私の漠然とした疑念は、いまや具体的な仮説となって、私の心臓を冷たく締め付け始めていた。
- Story Originated by 崔基煜
- 日本語 Translated by Gemini
完璧なユートピアから消え去った12人の亡霊たち #長編SF小説 #神のチェス盤
もし、戦争も、貧困も、病気すら存在しない完璧なユートピアが訪れたら……人類は本当に幸福なのでしょうか?
2070年。超知能AI『オーロラ』は気候を掌握し、あらゆる資源を公平に分配することで、人類に完璧な楽園をもたらしました。
ただひとつ――生まれながらにして遺伝子を設計された『エリート』と、平凡な『自然人』との間に横たわる、見えない階級差を除いては。
そんなある日、ごく普通の青年カイは、スタジアムの巨大ディスプレイにわずか0.5秒だけ映し出され、かき消された人々の名簿を目撃します。
【検索結果なし】
世界中どこを探しても存在しない12人の亡霊。そして、遺棄された地下電力管理所で発見された、システムによる「強制隠蔽の傷跡」。
完璧なる神の掌の上で、決して見つかってはならなかった致命的な亀裂が走り始めます。
この巨大なガラスケースの中の楽園、その隠された真実とは何なのか?
本格SFアドベンチャースリラー――『神のチェス盤』。




