カルボナーラ
黒板の字をノートに写す度、前髪を掻き分けなければいけないことに面倒臭さを覚えつつあった。そろそろ髪を切らなければいけないと考えはするものの、あまりにお洒落に興味がなく、わざわざ美容院に予約して髪を切りに行くだけの時間も勿体ないと思ってしまったので、いつも自分で前髪を切る、応急処置みたいなことで済ませてしまっていた。
ただそれだけでは誤魔化せないくらいに後ろ髪が長くなり、そろそろ括るか、髪を切るかしなければ怒られそうな状態となってしまったので、それなら一度で済む散髪の方がいいだろうと、ようやく重い腰を上げることとなったのだった。
そうして、姫路天華はしばらくぶりの美容院に予約し、髪を切りに行こうと思い立ったのだが、いざ予約するという直前になり、そういえば隣町に一人のカリスマが営む美容院があると噂を聞いたことがあると思い出し、急遽、その美容院の予約を取ることとなった。
どのような美容院か、具体的な情報は何一つとしてないが、とにかく有名なカリスマが営んでいるという情報だけは耳に入っていたので、髪が伸びたら行ってみようかと思っていたのだと、ちょうど都合よく、髪が伸びたタイミングで思い出したのは、正に天啓のように思えた。
そして、無事に予約の取れた当日、天華は隣町にある美容院、カペッリ・ダンジェロを訪れることとなる。
辿りついた店は、極めて一般的な美容院と変わらなかった。ベージュを基調とした柔らかな外観も、赤と白と緑のラインが回るサインポールも、他の美容院で見たことのあるもので、この店だけで見られるという特徴的な外観は特にない。
意外と普通の店である。そのように思いながら、天華はカペッリ・ダンジェロに足を踏み入れていく。
「いらっしゃいませ」
店に足を踏み入れた直後、そこでは噂に聞いていた一人のカリスマが待っていた。日本人ではあると思うのだが、実は外国人であるとこっそり言われたら、そのようにも思えてくる見た目をした人だ。どちらかと言えば、純日本人という見た目なのだが、投票箱が二つあって、この人は日本人と外国人どちらでしょうかというクイズを出され、外国人に入れようとしている人がいたら、確かにそう見えるかもしれないと考えなくもない、くらいの見た目である。醤油かソースかと聞かれたら、確実に醤油であるが、ソースをつけても悪くはない、それくらいの差だ。
そのカリスマに予約していた事実を伝えると、天華は待つこともなく、すぐさま席に案内されることとなる。そこでカリスマは髪を切るための準備を進めながら、天華に髪型のオーダーを決めるためのメニューを手渡してくる。
メニューを開くと、中には天華でも見慣れた名前がいくつも並んでいた。この中から一種類を選ぶのかと考えたら、全く聞き馴染みのないものを選んで、どのようなものなのか確かめてみたい気持ちにも駆られるが、こういうところは無難に慣れ親しんだものから選んだ方がいい気もする。
そのように考えながら、メニューを最後まで捲り、最後のページに描かれた全部で五十個の違いがあるという間違い探しを天華は見つめ始める。頭の中で数個までなら覚えられるが、二桁を超えた辺りから、どこを見つけてカウントしたのか覚えられなくなり、これをやるならペンで丸をつけたいと思い至ったところで、天華はどれを頼むか心で決める。
「ご注文はお決まりですか?」
「カルボナーラでお願いします」
カリスマに注文を聞かれ、天華がすぐさまそう答えると、カリスマは天華の手元からメニューを回収し、散髪を始めるためにカセットコンロを持ち出していた。
それを天華の座る席の傍に設置し、その上に取り出したフライパンを置く。カセットコンロに火をつけると、カリスマはフライパンの上にオリーブオイルを流し込み、細かく指先で握り潰したニンニクや良い感じに指先で引き千切ったベーコンを落とし、良い感じの煙や匂いが立つまで炒め始めた。
その作業を進める脇で、カリスマはボウルを用意していた。そこにシャワーを伸ばし入れ、水を注ぎ込んでいくと、そこに氷を叩き込み、少し手を入れるだけで指先が死んでしまいそうなほどに冷たい氷水を作っていく。
すると、フライパンの中が良い感じになり始めたところで、カリスマはそのフライパンをボウルに張った氷水の中に落とし込んでいた。フライパンは冷え、そこで炒められていたオリーブオイルや潰して引き千切った奴らなどは少しずつ固まり始める。
それが完全に固まる前に、カリスマは氷水の張ったボウルから引っ張り出し、そのままの勢いで天華の頭にフライパンの中身を一気に解放していた。どろりとした塊がフライパンから落ち、天華の旋毛からゆっくりと広がるように流れ落ちていく。
その状態が完成すると、今度はまた別のボウルに生クリームを準備し始めていた。そこに卵を割り入れ、チーズなども振り入れてから、カリスマは素早く掻き混ぜていく。ボウルの中で白い液体が混ざり合い、綺麗な渦を作ってから、その勢いを利用するようにボウルを傾け、カリスマは天華の頭の上に、どろりとしたホワイトクリームを注ぎ込んでいく。
「お客様」
そこで不意に声をかけられ、天華は少し驚きながら、カリスマを見やった。
「はい?」
「生卵の方はどうされますか? 添えますか?」
「ああー……」
天華は少し考え込んでから、せっかくならと思い、「お願いします」と頭を下げる。
「かしこまりました」
カリスマはそう言うと生卵を取り出し、それを天華の側頭部にぶつけ始めた。コンコンと、軽く二度ほどぶつけてから、天華の頭頂部付近で、片手だけで綺麗に割っていく。
天華の頭頂部に生卵がぽとりと落ちる。カリスマはそれらの上に粉チーズとブラックペッパーを振りかけて、天華の首元に巻いていたタオルを取っていく。
「はい、完成しました。こちらでどうでしょうか?」
カリスマはそう言いながら、天華に鏡を見せてくる。天華は垂れ落ちるホワイトソースを見ながら、頭を左右に動かし、カリスマに頷いてみせる。
「大丈夫です」
「では、代金なのですが、三千円のお支払いをお願いします」
カリスマにそう言われ、天華は財布から千円札を三枚取り出し、カリスマに手渡していく。
「ありがとうございました」
カリスマにそのように礼を告げると、カリスマも笑顔で会釈し、「またのご来店をお待ちしております」と声をかけてくれる。
その声に笑顔を返しながら、天華は店を後にして、しばらく歩いてから、先ほどは鏡越しに確認しただけの自分の髪型を改めて確認するように手で触れていた。
生卵が潰れ、黄身が溢れ出し、とろけたチーズや固まりかけたオリーブオイルが手に張りついている。ベーコンの欠片が頭から零れ落ち、ブラックペッパーは常に鼻孔を擽るようだった。
その様子を確認した天華がぽつりと呟く。
「さっぱりしたなぁ」
噂通りのカリスマの店だった。そのように感じながら、帰路につくのだった。




