第9話 記録される兆し
報告書は、一枚だった。
紙質は粗く、端は少し黄ばんでいる。王都で使われている上質な羊皮紙とは違う。それでも、そこに書かれる内容の重さは変わらない。
ガルディオは、机に向かい、ペンを走らせていた。
簡潔に。
感情を交えず。
評価を避け、事実のみを。
それが、この領地が長年生き延びてきたやり方だった。
「……川の水質、改善傾向あり」
「井戸水、沈殿物の減少を確認」
「住民の体調、軽度ながら回復例あり」
一文ごとに、ペンが止まる。
彼は、書いている内容が「良い知らせ」であることを理解していた。同時に、それがどれほど危ういかも。
――辺境で、改善。
王都が最も好む言葉だ。
「……原因、不明」
そこだけ、わずかに字が歪んだ。
扉の外で、ミロが腕を組んで立っている。
「本当に、送るんですか」
ガルディオは顔を上げない。
「送らねばならん」
「黙っていれば、気づかれないかもしれません」
「気づく」
即答だった。
「数字は嘘をつかない。変化は、必ず比較される」
ミロは、舌打ちをこらえる。
「……あの子の名前は」
「書かない」
ガルディオは、きっぱりと言った。
「個人名は出さない。環境変化として報告する」
「それで、通りますか」
「最初はな」
その言葉に、ミロは何も言えなくなった。
最初は。
つまり、次がある。
「王都は、聖女を探している」
ガルディオは静かに続ける。
「そして、失敗を嫌う。見逃しもしない」
報告書は、乾かされ、封をされた。
それだけで、何かが動き出した気がした。
***
その頃、エリシアは家で横になっていた。
身体は、まだ重い。けれど、昨日ほどではない。立ち上がろうと思えば、立てるだろう。
――立たない。
そう決めていた。
ミロの言葉が、頭の中で何度も反響する。
「何もするな」
それは命令であり、懇願でもあった。
窓の外を見ると、川が見える。水面は穏やかで、反射する光が柔らかい。
――私が、いなければ。
その続きを、考えないようにする。
昼過ぎ、軽いノックがあった。
「……誰ですか」
「役所の者だ」
知らない声。
扉の向こうに立っていたのは、若い職員だった。緊張した面持ちで、書類を抱えている。
「体調は……どうですか」
「……少し、ましです」
彼は、ほっとしたように息を吐いた。
「良かった。あの……無理はしないでください」
言葉を選びながら、続ける。
「最近、町の様子が良くなっていて。皆、喜んでいます」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「……それは、良かったですね」
「ええ。でも」
職員は、少し声を落とした。
「理由を聞かれることが、増えました」
来た。
エリシアは、目を伏せる。
「答えられないことは、答えなくていい」
それは、ミロでもガルディオでもない、ただの職員の言葉だった。
「でも……報告は、上がります」
職員は、それだけ言って頭を下げ、去っていった。
部屋に残された静けさが、やけに重い。
***
三日後。
王都の管理局で、ひとつの報告書が回覧された。
「……辺境ルーヴェン領?」
白い法衣の男が、眉をひそめる。
「数値が、改善しているな」
「はい。水質、健康指標ともに」
「原因は?」
「不明とあります」
男は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「“不明”が続くことは、ない」
指が、机を叩く。
「聖女候補の処遇記録を確認しろ。最近、誰を送った」
「……一名、保留扱いで派遣されています」
「名前は」
書類が、めくられる。
「エリシア・タカハシ」
男は、目を細めた。
「……切り捨てたつもりの札が、まだ生きていたか」
それは、感情のこもらない声だった。
だが、その瞬間。
辺境で起きていた静かな変化は、
確実に「管理される現象」へと変わった。
***
その夜。
エリシアは、理由の分からない悪寒に震えていた。
熱はない。
身体も、昨日よりは動く。
それでも、胸の奥が冷える。
――見られている。
根拠のない直感。
けれど、それはこれまで何度も当たってきた。
布団の中で、膝を抱える。
私は、ただ暮らしたかっただけだ。
期待されず、測られず、名も残さず。
それなのに。
外の世界が、私を「兆し」として記録し始めている。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
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