第8話 立っていられない理由
朝が来たことは、音で分かった。
外で誰かが桶を置く音。遠くで家畜が鳴く声。町が、いつも通り動き始めている。
――それなのに。
私は、起き上がれなかった。
身体が重い。
四肢に、鉛が詰まっているみたいだ。
熱はない。寒気もしない。ただ、力が入らない。布団の中で指を動かそうとしても、思うように反応しなかった。
「……まずいな」
小さく呟いた声は、かすれていた。
無理をした覚えは、ない。
重い物を運んだわけでも、徹夜をしたわけでもない。
ただ、そこにいただけだ。
立ち上がろうとして、失敗する。視界がぐらりと揺れ、吐き気が込み上げる。慌てて布団に戻ると、天井がゆっくり回っていた。
――休め。
頭の中で、何度も同じ言葉が浮かぶ。
でも、休んでいい理由が見つからない。
私は、雑用係だ。
代わりはいくらでもいる……はずなのに。
結局、無理やり身体を起こした。
足を床につけた瞬間、膝が笑う。壁に手をついて、なんとか立つ。息が浅く、胸の奥がひりひりした。
外に出ると、空は昨日より明るかった。
川の音が、はっきりと澄んで聞こえる。
――聞こえるな。
そう思った瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。
共同施設に着いたとき、すでに人が集まり始めていた。
「おはよう」
声をかけられ、反射的に頷く。
「……顔色、悪くない?」
年配の女性が、鍋をかき混ぜながら言った。
「大丈夫です」
即答だった。
その言葉を口にした瞬間、頭がふわりと浮いた。視界の端が白く滲む。
――立っていられない。
そう思ったときには、もう遅かった。
膝が崩れ、床に座り込む。鍋の中身が揺れ、周囲がざわつく。
「ちょっと!」
「大丈夫か!」
誰かが肩を支えてくれた。
「……すみません」
謝ろうとして、言葉が途切れる。喉が、うまく動かない。
「座ってな」
無理やり椅子に座らされる。
その瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
――楽だ。
立っていないだけで、こんなにも楽になる。
それが、何よりも怖かった。
「今日は休め」
ミロの声がした。
いつの間に来ていたのか、彼は腕を組んで立っている。表情は、硬い。
「……大丈夫です」
また、同じ言葉を言おうとした。
「大丈夫じゃない」
きっぱりと遮られる。
「立てなかっただろ」
私は、何も言えなかった。
事実だからだ。
「戻れ」
「……でも」
「戻れ」
それ以上、言わせない声だった。
仕方なく、施設を出る。歩くたびに足元が不安定で、道がやけに長く感じられた。
家に戻ると、扉を閉めた途端に崩れ落ちる。床に座り込み、しばらく動けなかった。
呼吸が、浅い。
身体の内側が、空洞になっていく感覚。
――何が、起きている。
考えようとすると、頭が痛む。思考が、途中で途切れる。
しばらくして、誰かが扉を叩いた。
「……エリシア」
ミロの声だ。
返事をしようとしても、声が出ない。
彼は返事を待たず、扉を開けた。
「……やっぱりな」
私の様子を見て、そう呟く。
「医者を呼ぶ」
「……だめです」
必死に声を絞り出す。
「……大したこと、ないので」
ミロは、眉をひそめた。
「お前、自分の状態分かってるか」
「……少し、疲れてるだけです」
嘘だった。
自分でも、分かっている。
これは、疲労じゃない。
「……聞け」
ミロは、椅子に腰を下ろし、低い声で言った。
「町の様子、見てるだろ」
私は、目を伏せた。
「川も、水も、畑も。全部だ」
「……偶然です」
反射的に言う。
「偶然にしては、続きすぎだ」
胸が、痛んだ。
「……私が、原因だって言いたいんですか」
声が、震える。
ミロは、すぐには答えなかった。
「……言いたくない」
そう前置きしてから、続ける。
「だが、お前が来てからだ」
沈黙が、部屋に落ちる。
私は、膝の上で手を握りしめた。
「……私、何もしてません」
「分かってる」
即答だった。
「だから厄介なんだ」
その言葉に、涙が込み上げた。
私は、祈っていない。
望んでいない。
覚悟もしていない。
それなのに。
「……このままじゃ」
言葉が、途切れる。
「このままじゃ、私は……」
――壊れる。
その先を、口に出せなかった。
ミロは、しばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「今日は、誰も近づけない」
「……え?」
「休め。何もするな」
扉に手をかけ、振り返る。
「いいか。お前が倒れたら、この町は困る」
その言葉が、胸に刺さる。
「……でも」
「だからだ」
ミロは、静かに言った。
「町のためにも、お前は生きてろ」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、私は天井を見つめた。
町のため。
生きていろ。
その言葉は、優しさだったのか。
それとも、呪いだったのか。
目を閉じる。
意識の底で、はっきりと理解してしまった。
――私は、もう「いないふり」はできない。
立っていられなくなった理由は、はっきりしていた。
この町が、私を通して息をしている。
それを否定するには、もう遅すぎた。
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