第6話 偶然が重なる日
朝から、胸の奥がざわついていた。
理由は分からない。熱があるわけでも、頭痛がするわけでもない。ただ、身体の芯が重い。眠りが浅かったせいだろうと、自分に言い聞かせながら身支度を整えた。
外に出ると、空はどんよりと曇っていた。
川の方から、いつもより澄んだ音が聞こえる。
――聞かなかったことにしよう。
そう思って、視線を逸らす。
この町では、仕事は待ってくれない。今日も炊き出しと洗濯、そして雑用。特別なことは何もないはずだった。
共同施設に着くと、いつもより人が多かった。
「……なんか、今日は並びが早いね」
年配の女性が、鍋をかき混ぜながら言う。
「朝から来てる人が多くてさ」
「そうなんですか」
理由は聞かなかった。
聞いてしまったら、何かと結びつけてしまいそうだったから。
配膳が始まる。
器を差し出す人々の表情は、昨日までと少し違って見えた。疲れているのは変わらない。でも、どこか落ち着いている。
「今日のスープ……いつもより、匂いがいいな」
列の中の誰かが、ぽつりと呟いた。
私は、手元の鍋から目を離さなかった。
「気のせいだろ」
別の誰かが笑う。
「腹が減ってるだけだ」
それで終わるはずだった。
けれど、その後も似たような言葉が続いた。
「味、変えてないよな?」
「いや、同じ材料のはずだ」
「……でも、なんか飲みやすい」
偶然。
たまたま。
そう言い聞かせながら、私は器を渡し続けた。
昼過ぎ、洗濯場へ向かう。
川のそばに立った瞬間、はっきりと分かってしまった。
――昨日より、濁りが薄い。
底までは見えない。でも、水の色が違う。流れも、ほんの少しだけ速い。
「……なあ」
ミロが、川を見下ろして言った。
「これ、昨日の“偶然”が、まだ続いてると思うか?」
問いかけは、私に向けられていた。
「……分かりません」
正直な答えだった。
分かりたくなかった、というのが正しい。
「俺も分からん」
ミロはそう言って、頭をかいた。
「ただな。偶然ってのは、続きすぎると……疑われる」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「疑われるって……」
「誰かのせいだ、ってな」
その言葉に、喉が詰まった。
私は、何もしていない。
それなのに、“誰かのせい”になる。
「今は、まだいい」
ミロは続ける。
「川が綺麗になるのも、スープがうまく感じるのも、町にとっては良いことだ」
それは、分かっている。
だからこそ、怖い。
「でもな」
彼は、私を見る。
「理由が欲しくなる時が来る」
洗濯を始めると、身体の重さがはっきりしてきた。
腕がだるい。息が少し浅い。集中しようとすると、視界の端が揺れる。
――休めばいい。
そう思っても、手が止まらない。止める理由がない。私は、ただの雑用係なのだから。
川に手を入れる。
冷たいはずの水が、妙に優しい。
その感触に、背筋が粟立った。
私は、祈っていない。
何も願っていない。
ただ、ここにいるだけだ。
「……エリシア?」
声をかけられて、顔を上げる。
年配の女性が、心配そうにこちらを見ていた。
「顔色、悪いよ。休みな」
「大丈夫です」
即座に否定する。
休んでしまったら、何かが止まる気がした。
それが良いのか悪いのか、分からないまま。
夕方、町の方で小さな騒ぎが起きた。
「井戸の水が、澄んでるって」
誰かが走ってきて言う。
「昨日まで、あんなに濁ってたのに」
ざわめきが広がる。
期待と、不安が混じった音。
私は、その場から一歩引いた。
心臓が、やけに早く打っている。
――やめて。
声にならない叫びが、胸の中で反響する。
夜。
家に戻る頃には、足元がおぼつかなかった。
扉を閉めた瞬間、力が抜け、床に座り込む。息が、少し苦しい。
身体の内側が、空っぽになっていく感覚。
――これは、偶然じゃない。
認めたくなかった答えが、ゆっくりと形を持つ。
私は、何かを“使われている”。
意志とは無関係に。
善意とも、覚悟とも無関係に。
布団に潜り込み、目を閉じる。
このまま眠れば、明日には元に戻っているかもしれない。
そう願いながら。
けれど、眠りに落ちる直前、ふと思ってしまった。
――もし、私がいなくなったら。
この町は、どうなるのだろう。
その考えが、何よりも恐ろしかった。
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