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第5話 熱の残る手

 町の外れにあるその家は、昼間でも薄暗かった。


 窓が小さく、日当たりが悪い。壁にはひびが入り、隙間風が入るのか、部屋の空気はどこか冷えている。


「ここだ」


 ミロが短く言って、扉を叩いた。


 中から、かすれた声が返ってくる。


「……はい」


 扉が開くと、やせた女性が顔を出した。頬はこけ、目の下には濃い隈がある。こちらを見る目には、警戒よりも疲労が滲んでいた。


「役所の者です。様子を見に来ました」


 ミロがそう告げると、女性は一瞬だけこちらを見て、それから私に視線を移す。


「……この人は?」


「新しく来た人手だ。雑用係」


 雑用係。


 その言葉に、私は内心で少しだけ安堵した。聖女だと思われない。それだけで、肩の力が抜ける。


「……どうぞ」


 女性は道を開けた。


 中に入ると、すぐに分かった。


 ――病人がいる。


 部屋の奥、簡素な寝台の上で、小さな子供が横になっていた。八歳くらいだろうか。顔は赤く、額には汗が滲んでいる。呼吸は浅く、時折苦しそうに喉を鳴らす。


「……ルゥです」


 女性がそう言った。


「この子、ずっと熱が下がらなくて……」


 その声は、震えていた。でも、泣いてはいない。もう泣き尽くした後の声だった。


 私は、寝台のそばに近づいた。


 ルゥは目を閉じたまま、苦しそうに眉を寄せている。小さな胸が、早く上下していた。


「医師は?」


 ミロが聞く。


「……一度だけ。でも、薬は効かなくて」


 それ以上は、言わなくても分かった。


 この町には、医療の選択肢が少ない。薬も、治療も、限られている。回復しない子供は、珍しくない。


 私は、何も言えずに立ち尽くした。


 ――これは、無理だ。


 頭のどこかで、冷静な声がした。


 私は医者じゃない。

 聖女でもない。

 奇跡を起こす資格も、力もない。


「……今日は、様子を見るだけだ」


 ミロがそう言って、私を促す。


 それでいい。

 それ以上、踏み込む必要はない。


 そう思ったのに。


 気づけば、私は寝台の横に腰を下ろしていた。


「……ごめんなさい」


 母親に向けて、そう言った。


「何もできなくて」


 女性は、首を振った。


「いいんです。もう……慣れましたから」


 その言葉が、胸に刺さった。


 慣れる。


 子供が苦しむことに。

 助からないかもしれない現実に。


 私は、そっとルゥの手に触れた。


 熱い。


 思わず、息を呑むほどの熱だった。


「……あつ」


 小さく声が漏れた瞬間、ルゥの指が、わずかに動いた。


 ぎゅ、と。


 弱々しく、私の指を掴む。


 ――やめて。


 心の中で、そう叫んだ。


 期待しないで。

 私に、何もできない。


 それでも、手を離すことができなかった。


「……大丈夫だよ」


 誰に言うでもなく、そう呟いていた。


 意味のない言葉。

 責任の取れない言葉。


 それでも、ルゥの呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた気がした。


「……?」


 母親が、不思議そうな顔をする。


「今……」


「気のせいです」


 私は、すぐに否定した。


 期待させてはいけない。

 希望を持たせてはいけない。


 私は聖女じゃない。


 しばらくして、私たちは家を出た。


 外の空気は冷たく、肺がひりつく。


「……どう思う?」


 歩きながら、ミロが聞いてきた。


「……厳しいです」


 正直に答えた。


 ミロは、何も言わなかった。


 その夜。


 私は、ひどく疲れていた。


 身体が鉛のように重い。頭がぼんやりする。布団に入ると、すぐに意識が沈んでいった。


 夢は、見なかった。


 翌朝。


 扉を叩く音で、目が覚めた。


「……誰?」


 寝ぼけた声で答えると、外から切迫した声が返ってくる。


「エリシア! 起きてるか!」


 ミロだった。


 慌てて扉を開ける。


「どうしたんですか?」


「……あの子だ」


 それだけで、分かった。


 胸が、嫌な音を立てる。


 走る。


 昨日と同じ家。

 同じ寝台。


 でも。


「……下がった、んです」


 母親が、震える声で言った。


「熱が……下がって……」


 ルゥは、眠っていた。


 昨日より、ずっと穏やかな顔で。


 私は、何も言えなかった。


 喜ぶべきなのに。

 安堵するべきなのに。


 胸の奥が、冷えていく。


 ――やってしまった。


 私は、何もしていないはずなのに。


 ただ、手を握っただけ。

 ただ、そばにいただけ。


 それなのに。


「……偶然だろ」


 ミロが、低く言った。


「そうですよね」


 私は、即座に頷いた。


 そうであってほしかった。


 奇跡なんて、いらない。

 期待なんて、されたくない。


 けれど、ルゥはゆっくりと目を開け、私を見た。


 熱の残る手が、もう一度、私の指を掴む。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 その瞬間、胸の奥で、何かが静かに崩れた。


 私は、聖女じゃない。

 でも――もう、何もしていないとは言えなかった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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