第4話 生活に触れる
住まいとして割り当てられた家は、町の外れにひっそりと建っていた。
石造りの小さな平屋で、壁にはひびが入り、屋根の修繕跡も目立つ。それでも、雨漏りはしないらしい。中に入ると、かすかに埃と湿気の混じった匂いがした。
「文句は言うなよ」
ミロがぶっきらぼうに言う。
「この辺じゃ、状態はいい方だ」
「……十分です」
それは本心だった。
王都で与えられた部屋は、広くて清潔だった。けれど、常に誰かの視線を感じていた。評価され、測られ、いつ切り捨てられるか分からない場所。
ここには、それがない。
「明日から仕事だ。炊き出しと洗濯、あと雑用。力仕事は回さない」
「分かりました」
即答すると、ミロは少しだけ眉を動かした。
「……即答するな。普通は嫌がる」
「嫌がる理由がないので」
そう言うと、彼は小さく鼻を鳴らした。
「変わってるな」
それ以上は何も言わず、踵を返す。
私は一人になった部屋で、深く息を吐いた。
静かだ。
夜、風の音と、遠くで犬が吠える声が聞こえるだけ。久しぶりに、何も考えずに眠れそうだと思った。
翌朝。
まだ薄暗いうちに起き、指定された共同施設へ向かう。炊き出しと洗濯を行う、町の生活の中心のような場所だった。
「新しい人?」
声をかけてきたのは、年配の女性だった。手慣れた様子で鍋をかき混ぜている。
「王都から?」
「……はい。でも、特別な人間じゃありません」
「そう」
それ以上、深くは聞かれなかった。
洗濯場は、施設の裏手にある川沿いだった。
近づいた瞬間、独特の匂いが鼻をつく。水は濁り、底が見えない。流れも鈍く、澱んだ印象が強い。
「昔はね、もっと澄んでたんだけど」
女性が言う。
「今はこれでもマシな方だよ」
私は黙って頷き、袖をまくった。
冷たい水に手を入れる。布を揉み、叩き、絞る。単純な作業。考え事をする余裕もない。
――こういう仕事でいい。
何かを期待されることも、評価されることもない。ただ、必要だからやる。それだけ。
しばらく作業を続けていると、ふと違和感を覚えた。
水の冷たさが、最初より柔らかい気がする。
気のせいだろうと、自分に言い聞かせる。朝の冷え込みが和らいだだけだ。そう思って、作業を続けた。
けれど。
洗い終えた布から、いつもより匂いが残っていない。
「……洗剤、変えました?」
思わず聞くと、女性は首を振った。
「いいや。ずっと同じだよ」
首を傾げながらも、彼女はすぐ作業に戻った。
私だけが、その違和感を気にしている。
昼は炊き出しだった。
大鍋で煮込まれたスープは、具が少なく、味も薄い。それでも、列を作る人々は文句を言わず、静かに順番を待っている。
配膳をしながら、一人ひとりの顔を見る。
疲れ切った大人たち。
痩せた子供たち。
諦めが染みついた目。
「ありがとう」
小さくそう言われるたび、胸の奥が少しずつ重くなった。
私は、何もしていない。
鍋を運び、器に注いでいるだけだ。
午後、洗濯物を干していると、頭がぼんやりしてきた。視界が揺れるほどではない。ただ、身体が重い。
――疲れただけ。
そう思って、深く息を吸う。
その瞬間、鼻を刺していた川の匂いが、ほとんど気にならなくなった。
「……ねえ」
隣で作業していた女性が、川を見つめて呟く。
「今日の水、変じゃない?」
「え?」
「前より……臭くない気がする」
私は、言葉を失った。
気のせいだと言いたかった。
偶然だと言いたかった。
でも、自分の中のどこかが、否定できずにいる。
夕方、ミロが様子を見に来た。
彼は洗濯場の近くで足を止め、川を覗き込む。
「……濁り、少し引いてるな」
「……そうですね」
声が、わずかに震えた。
ミロは私を見る。
「お前、何かしたか?」
「してません」
即答だった。
祈っていない。
魔法も使っていない。
ただ、洗濯をしただけだ。
ミロは数秒考えるように黙り、それから肩をすくめた。
「偶然だろ。川は気まぐれだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
そうだ。偶然だ。
私のせいじゃない。
夜、家に戻ると、身体の重さが一気に押し寄せてきた。布団に倒れ込むように横になる。
頭が、ぼんやりする。
――期待されない生活は、楽なはずなのに。
窓の外から、川の音が聞こえる。
昨日より、少しだけ澄んだ音に聞こえた。
それを認めてしまいそうになる自分が、怖かった。
私は、聖女じゃない。
奇跡を起こす役目なんて、引き受けていない。
目を閉じ、そう何度も言い聞かせる。
それでも、眠りに落ちる直前、ふと考えてしまった。
――もし、これが続いたら。
その先を想像する前に、意識は暗く沈んだ。
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