第3話 境界線の向こうへ
出発の日は、驚くほどあっさりしていた。
見送りはない。
式典も、言葉もない。
決められた時刻に指定された場所へ行くと、そこには簡素な馬車が一台停まっていただけだった。御者は無口そうな中年の男性で、私を見ると軽く会釈する。
「辺境領ルーヴェンまで、五日ほどかかります」
「……お願いします」
それだけのやり取りで、馬車は動き出した。
王城の白い壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。整備された石畳の道、行き交う人々、商人の声。すべてが、ガラス越しに見る別世界のようだった。
私は、振り返らなかった。
振り返ったところで、何かが変わるわけじゃない。
あそこには、もう私の居場所はない。
馬車が街を抜けると、道は次第に細くなり、舗装も荒れていった。建物は減り、代わりに畑や林が増える。景色が変わるたび、空気も少しずつ重くなる気がした。
「……本当に、遠いんですね」
思わず呟くと、御者が前を向いたまま答えた。
「ええ。あまり人が行き来する場所じゃありませんから」
それ以上、彼は何も言わなかった。
昼は揺れる馬車の中で過ごし、夜は簡易的な宿に泊まる。食事は質素で、味気ない。でも、不思議と不満はなかった。
期待されない生活は、こんなにも静かなんだ。
四日目の夕方。
遠くに、山影が見え始めた。空はどんよりと曇り、風が冷たい。御者が小さく息を吐く。
「この辺りからが、ルーヴェン領です」
境界を示すものは、ほとんどなかった。立派な門も、兵の詰所もない。ただ、道の脇に古びた標石が立っているだけ。
――境界線。
その向こうにあるのは、王都とはまるで違う世界だ。
馬車が進むにつれて、道の脇に倒れた柵や、手入れの行き届いていない畑が目に入る。人影は少なく、すれ違う村人たちの表情も硬い。
活気、という言葉とは程遠い。
胸の奥が、少しだけざわついた。
ここで、私は何ができるのだろう。
いや、正確には――何もできない前提で来たはずだ。
「……人手不足、でしたっけ」
御者は短く笑った。
「ええ。人も、余裕も、足りていません」
その言葉は、事実を述べているだけだった。でも、なぜか責められている気はしなかった。
むしろ、正直で、助かる。
夕暮れ時、ようやく小さな町が見えてきた。石造りの建物がいくつか寄り集まっただけの、質素な集落。王都の一角よりも、ずっと小さい。
「あそこが、領都です」
領都。
その響きに、少しだけ驚いた。もっと何もない場所を想像していたからだ。
馬車が町に入ると、数人の人がこちらを見た。興味というより、警戒に近い視線。歓迎の色は、ない。
それでも、私は思った。
――いい。
ここなら、何も背負わなくていい。
聖女でも、候補でもない、ただの一人として生きられる。
その考えが、どれほど甘いかも知らずに。
町の中心に近づくにつれて、建物はさらに古くなっていった。
石壁にはひびが入り、屋根の一部が修繕途中のまま放置されている家もある。人々は忙しそうに動いているが、どこか余裕がない。こちらを見ては、すぐに視線を逸らす。
――見慣れない顔だから、だろうか。
それとも。
馬車は、町の奥にある少し大きめの建物の前で止まった。城、というよりは要塞に近い。装飾はほとんどなく、実用性だけを考えて建てられたような造りだった。
「こちらです」
御者に促され、私は馬車を降りる。
扉の前には、簡素な制服を着た男性が一人立っていた。年は二十代後半くらいだろうか。私を見るなり、わずかに眉をひそめる。
「……王都から?」
「はい。エリシア・タカハシです」
名前を告げると、男性は小さく息を吐いた。
「話は聞いています。領主がお待ちです」
その言い方には、歓迎も失望もなかった。ただの事務連絡だ。
中に通され、短い廊下を進む。石の床は冷たく、靴音がやけに響いた。
扉の向こうから、低い声が聞こえる。
「……入れ」
扉を開けると、そこは執務室だった。
部屋の中央に置かれた机の向こうに、一人の男性が座っている。髪には白いものが混じり、目元には深い隈。長年の疲労が、そのまま形になったような顔だった。
ガルディオ・ルーヴェン。
この領地の領主。
彼は書類から目を上げ、私を見た。
数秒。
沈黙。
私は、思わず背筋を伸ばす。
「……聖女、だったか?」
確認するような口調だった。
「いえ。候補でしたが……選ばれていません」
そう答えると、彼は少しだけ目を細めた。
「そうか」
それ以上、何も言わない。
怒りも、落胆も、安堵もない。ただ事実を受け取っただけの反応だった。
「王都からは、人手として預かると聞いている。特別扱いはしない。それで問題はないか」
私は、一瞬だけ考えてから頷いた。
「……はい。むしろ、その方が助かります」
その言葉に、彼はほんのわずかに口角を上げた。笑顔というには、あまりにも控えめな変化。
「正直でいい」
彼は椅子に深く座り直す。
「この領地は、余裕がない。奇跡も、即効性のある救いも、期待していない」
その言葉は、冷たく聞こえるはずだった。けれど、不思議と胸は痛まなかった。
――期待されない。
それは、ここでは責め言葉ではないのだ。
「できることを、できる範囲でやってもらう。それだけだ」
「分かりました」
私は、そう答えた。
ガルディオは短く頷き、扉の方へ視線を向ける。
「ミロ」
先ほどの男性が入ってくる。
「この者の住まいと、当面の仕事を手配してくれ」
「了解です」
ミロと呼ばれた彼は、ちらりと私を見る。
「……あんた、期待されないのが好きなタイプか?」
唐突な問いだった。
私は、少し迷ってから答える。
「……嫌いじゃないです」
ミロは、鼻で小さく笑った。
「なら、ここは合ってる」
そう言って、扉を開ける。
私は最後にもう一度、領主を見た。
ガルディオはすでに書類に視線を戻していた。私に興味を示す様子はない。でも――追い出す気も、なさそうだった。
それで、十分だった。
廊下に出ると、空気が少しだけ軽く感じられた。
ここでは、奇跡を起こさなくていい。
役に立たなくても、すぐには切り捨てられない。
私は、知らず知らずのうちに息を吐いていた。
――ここが、私の居場所になるかもしれない。
その考えが、胸の奥で静かに芽生え始めていた。
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