第21話 足りなかったもの
異変は、夜明け前に起きた。
まだ空が薄暗い時間、扉を叩く音で目が覚めた。
「エリシア!」
聞き慣れた、切迫した声。
胸が跳ねる。
扉を開けると、ルゥの母親が立っていた。顔色が悪く、肩で息をしている。
「……また、熱が」
それだけで、状況は分かった。
私は外套を掴み、すぐに外へ出る。
――帳簿。
一瞬、頭をよぎったが、もう気にしなかった。
***
ルゥは、布団の上で苦しそうに呼吸していた。
昨日より、明らかに状態が悪い。
「解熱剤は?」
「飲ませた。でも……」
医療団の助手が、すでに対応に入っている。冷静だが、表情は硬い。
「反応が鈍いです」
胸の奥が、冷たくなる。
私は、布団のそばに座り、ルゥの額に手を当てた。
熱い。
でも、以前ほどではない。
――足りない。
はっきりと、そう感じた。
医療は、正しい。
処置も、間違っていない。
それでも、何かが足りない。
「……エリシア」
ミロの声が、低く響く。
私は、顔を上げた。
「やるか?」
短い問い。
選択肢は、二つじゃない。
でも、ここでは――
私は、ゆっくりと頷いた。
手を、離さなかった。
祈らない。
願わない。
ただ、ここにいる。
呼吸を合わせ、時間を取る。
数分。
胸の奥に、あの感覚が戻ってくる。
重さ。引き受ける感じ。
身体が、少しずつ冷えていく。
「……」
ルゥの呼吸が、わずかに落ち着いた。
医療団の助手が、目を見開く。
「……脈が、安定してきてる」
数値が、追いついてくる。
私は、息を吐いた。
――やっぱり。
完全には、代替できない。
それが、現実だった。
***
しばらくして、セラが到着した。
状況を一目で把握し、静かに言う。
「……介入しましたね」
「はい」
私は、正直に答えた。
「帳簿に、書きます」
「書かなくていい」
彼女は、首を振った。
「今日は、もう分かりました」
医師としてではなく、
一人の人としての声だった。
部屋を出て、廊下で向き合う。
「実験は、失敗ですか」
私が聞くと、セラはすぐに答えなかった。
「いいえ」
やがて、静かに言う。
「不完全だと分かっただけです」
その言葉に、胸が少し緩む。
「医療は、人を救います」
セラは続ける。
「でも、土地と環境と、生活の歪みまでは、すぐに直せない」
私は、頷いた。
「だから、あなたが必要になる場面がある」
その一言が、重い。
「でも」
セラは、視線を落とす。
「それを“常態”にしてはいけない」
沈黙。
正しさが、二つ並んでいた。
どちらも、否定できない。
***
夜。
ルゥは眠っている。
容態は安定していた。
私は、外に出て、深く息を吸った。
身体は、少し重い。
でも、以前ほどではない。
――配分。
今日の私は、それを破った。
でも、全部を投げ出したわけでもない。
足りなかったから、補った。
それだけだ。
「……難しいな」
ミロが、隣に立つ。
「ああ」
短く同意される。
「でも」
彼は、夜空を見る。
「今日の判断は、間違ってない」
「……そうですか」
「数字じゃ測れない日がある」
その言葉が、胸に残る。
私は、初めて帳簿を開いた。
そこに、こう書いた。
《夜:ルゥの家。介入あり。
理由:他の方法では足りなかった》
それは、記録であり、
言い訳でも、反省でもあった。
帳簿を閉じる。
介入実験は、万能じゃない。
でも、無意味でもない。
私は、ようやく分かり始めていた。
均すとは、正しさを守ることじゃない。
間違いを、引き受け続けることだ。
それが、私にできる唯一のやり方だった。
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