第20話 記録される日常
介入実験は、静かに始まった。
号令も、儀式もない。
ただ、朝の診療所に一冊の帳簿が置かれただけだった。
「これに、書くだけです」
セラはそう言って、帳簿を私の前に差し出した。
「今日、どこに行ったか。
誰と話したか。
どれくらいの時間、関わったか」
簡素な項目だ。
命令も、制限もない。
それが逆に、逃げ場をなくしていた。
「……分かりました」
私は帳簿を受け取った。
紙は重い。
中身よりも、「記録される」という事実が。
***
最初の変更は、小さなものだった。
炊き出しは、手伝わない。
代わりに、医療団の助手が栄養計算をして、配給量を調整する。
畑仕事は、私が行く回数を半分に減らす。
その分、領主の指示で作業人員が増やされた。
私は、その様子を遠くから見ていた。
――回っている。
完璧ではないが、止まってもいない。
帳簿に書く。
《午前:共同施設に滞在10分。作業なし》
たった一行。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
昼前、川辺に行く。
今日は、立つだけ。
触れない。目を閉じない。
風に当たり、五分で離れる。
《午後:川辺滞在5分。接触なし》
それ以上は、やらない。
身体は、楽だった。
息が深い。
視界も、澄んでいる。
――これなら。
そう思ってしまう自分が、少し怖い。
***
午後、診療所で簡単な検査を受ける。
脈拍、呼吸、体温。
すべてが、安定している。
「数値は、良好です」
助手が言う。
セラは、別の紙を見ていた。
「町の指標も、大きな揺れはありません」
その言葉に、部屋の空気がわずかに緩む。
――うまくいっている。
少なくとも、今日は。
その夕方だった。
共同施設の前で、騒ぎが起きた。
「……子どもが、熱を出した」
聞き覚えのある声。
ルゥの母親だった。
胸が、瞬間的に締めつけられる。
私は、一歩踏み出しかけて、止まった。
――今日は、私がやらなくても。
医療団の助手が、すぐに対応に入る。
冷静で、的確だ。
「水分を。安静に」
医師の声が聞こえる。
私は、少し離れた場所から見ていた。
数分後。
「……少し、苦しそう」
その言葉が、胸に刺さる。
以前なら、ここで迷わなかった。
迷う前に、身体が動いていた。
でも今は、帳簿がある。
記録がある。
“配分”がある。
私は、拳を握りしめた。
――全部じゃなくていい。
自分に言い聞かせる。
私は、診療所に戻らなかった。
その夜、帳簿に書く。
《夕方:共同施設周辺。介入なし》
文字が、少し歪んだ。
***
翌朝。
ルゥの容態は、落ち着いていた。
医療的な処置が、効いたらしい。
「……大丈夫そうだ」
ミロが、低く言う。
私は、ほっと息を吐いた。
――良かった。
それでも、胸の奥には、消えない感覚が残る。
もし、もっと悪化していたら?
もし、医療が間に合わなかったら?
その問いは、帳簿には書けない。
セラは、記録を見ながら言った。
「今日の結果は、成功です」
成功。
その言葉に、私は頷けなかった。
確かに、数値は安定している。
私の体調も、町も。
でも。
「……安心は、できません」
そう言うと、セラは少しだけ目を細めた。
「ええ」
短く、同意する。
「成功と安心は、別です」
その言葉に、少し救われた。
夜。
布団に入っても、眠りは浅かった。
身体は元気なのに、心が追いつかない。
帳簿が、枕元に置かれている。
閉じたままなのに、
そこに書かれていないものが、はっきりと分かる。
――私は、まだ選びきれていない。
管理されることで、救われる部分もある。
でも、切り捨てられる感情もある。
介入実験は、始まったばかりだ。
数字は、正直だ。
でも、人の心は、測れない。
私は、帳簿を閉じ、目を閉じた。
この方法が正しいのかどうか、
まだ誰にも分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
何もしないよりは、前に進んでいる。
それが救いなのか、
次の痛みへの助走なのかは――
まだ、分からなかった。
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