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第17話 揺れの記録

 異変は、小さすぎて見逃されるところだった。


 医療団の一室で、助手の一人が首を傾げたのは、夕方の記録整理のときだった。


「……あれ?」


 紙の上に並ぶ数値を、もう一度見直す。


「どうしたの?」


 隣の医師が聞く。


「今朝測った井戸水の濁度、少し上がってる」


「誤差じゃない?」


「……昨日より、確実に」


 助手は、別の紙を引き寄せた。


「皮膚症状の訴えも、二件だけど増えてる」


 二件。

 騒ぐほどではない。

 町全体から見れば、誤差の範囲だ。


 それでも、助手は違和感を覚えていた。


 ――昨日まで、下がり続けていた。


「代表に報告する?」


「一応」


 そうして、数枚の記録がセラの元へ運ばれた。


 ***


 セラは、無言で数値を追った。


 水質、体調、睡眠時間、呼吸数。

 すべてが、ほんのわずかに“戻っている”。


 完全な悪化ではない。

 だが、改善の流れが止まった。


「……昨日、何か変わったことは?」


 問いかけに、助手が答える。


「特に大きな出来事はありません。雨も降っていませんし、作業量も変わっていない」


「人の動きは?」


「通常通りです」


 セラは、ペン先を止めた。


「……一人だけ、違う」


 助手が、息を呑む。


「エリシアさんですか」


 名前は、もう伏せられていなかった。

 医療団の中では、すでに共有されている。


「彼女、今日は診療所に来ていない」


「体調が良いと、ミロさんが」


 その言葉に、セラは静かに頷いた。


「でしょうね」


 数値が、それを示している。


「彼女のバイタルは、今日が一番安定している」


 紙の上の線が、なだらかに整っている。


「……町は?」


「町は、ほんの少し揺れた」


 セラは、はっきりと言った。


 それは、断定ではない。

 だが、仮説としては十分だった。


「……代表」


 助手が、慎重に言う。


「まるで、彼女が――」


「“調整役”のようだと?」


 セラは、言葉を引き取った。


 助手は、黙って頷く。


「ええ。私も、そう考えている」


 セラは、窓の外を見る。


 穏やかな町。

 静かな川。


 だが、その静けさが、誰か一人の負担の上に成り立っているとしたら。


「これは、治療ではない」


 セラは、低く言った。


「環境への過剰適応。

 人間を“装置”として使う現象」


 その言葉に、助手の顔色が変わる。


「……報告、しますか」


「しない」


 即答だった。


「まだ、仮説だ。数日、観測を続ける」


 彼女は、ペンを走らせ、別の紙に書き始めた。


 ――対象が休息すると、環境指標が揺れる可能性あり。


 その一文は、あまりにも静かだった。


 だが、それは

 “聖女の力”を数字で捉えた最初の痕跡だった。


 ***


 同じ頃。


 エリシアは、自分の家で湯を沸かしていた。


 身体は、昨日よりさらに軽い。

 息も深く、視界も澄んでいる。


 その事実が、素直に喜べなかった。


 ――また、揺れた。


 川の色を、思い出す。


 誰も困ってはいない。

 誰も、責めていない。


 それでも、確実に“戻った”。


「……難しいな」


 独り言が、湯気に溶ける。


 何もしなければ、私は楽になる。

 でも、町は少しずつ歪む。


 やりすぎれば、町は安定する。

 でも、私は壊れる。


 ――じゃあ、どうすればいい。


 答えは、まだない。


 けれど、はっきりしたことが一つある。


 私はもう、

 「無自覚な奇跡」ではいられない。


 知らないふりをしていた頃には、戻れない。


 その夜。


 医療団の帳簿に、新しい項目が加えられた。


 《環境変動と特定個体の相関》


 まだ、仮説。

 まだ、未整理。


 だが、その線は、確実に引かれた。


 誰かが、均している。


 そしてその“誰か”は、

 今日、何もしなかった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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