第16話 何もしない日
その日は、朝から決めていた。
――今日は、何もしない。
目を覚ましたとき、身体は驚くほど軽かった。立ち上がっても、ふらつかない。息も深く吸える。胸の奥にあった重さが、嘘のように薄れている。
「……大丈夫、だ」
声に出して確認すると、少しだけ安心した。
医療団の診断結果が、頭をよぎる。
町は健康で、私だけが不健康。
なら、今日は休むべきだ。
それは、誰が見ても正しい判断だった。
外に出ると、空気が澄んでいる。川の音も、静かで穏やかだ。
――触れない。
昨日決めたことを、もう一度胸の中で繰り返す。
共同施設には向かわなかった。
炊き出しも、洗濯も、手伝わない。
ただ、自分の家で過ごす。
昼前、簡単な食事を作る。いつもより、手が軽い。包丁を持つ指も震えない。料理をしながら、ふと笑ってしまった。
「……元気じゃん」
それが、怖かった。
午後、外の様子を窓から眺める。
人の往来はいつも通りだ。
子どもたちの声も聞こえる。
――何も、起きていない。
胸の奥で、ほっとする感情が広がる。
これでいい。
私がいなくても、町は回る。
そう思った、そのときだった。
遠くで、誰かの声がした。
「……あれ?」
続いて、別の声。
「水、こんな色だったか?」
胸が、きゅっと縮む。
窓を開け、外を見る。
川のほうに、人が集まり始めている。
私は、すぐには動かなかった。
――偶然だ。
自分に言い聞かせる。
今日は、何もしない日。
だから、確かめに行く理由はない。
それでも、胸のざわつきは消えなかった。
夕方、耐えきれずに家を出る。
川辺に近づくと、分かった。
水の色が、少しだけ戻っている。
完全に濁っているわけではない。
けれど、昨日までの澄み方ではない。
「……気のせいだよな」
誰かが言う。
「昨日、雨降ったっけ?」
「いや……降ってないはずだ」
小さな違和感。
誰も、深刻には受け取っていない。
それが、余計に胸を締めつけた。
――私だ。
確信に近い感覚が、静かに広がる。
私が、触れなかった。
私が、関わらなかった。
その結果が、これだ。
「エリシア」
背後から、ミロの声。
振り返ると、彼は川を見て、次に私を見た。
「……今日は、休んだんだな」
「はい」
嘘はつかなかった。
「体調は?」
「……良いです」
それも、事実だ。
ミロは、しばらく黙っていた。
「医者の言う通りだな」
低い声。
「お前が休むと、お前は元気になる」
私は、唇を噛んだ。
「でも」
ミロは、川に視線を戻す。
「町は、少し戻る」
その言葉は、責める調子ではなかった。
ただの、観測。
「……ごめんなさい」
思わず、そう言っていた。
「謝るな」
即座に否定される。
「お前が悪いわけじゃない」
「でも……」
「悪いのは、構造だ」
その言葉に、私は顔を上げた。
構造。
誰かの意思や善悪ではなく、
“そうなってしまっている形”。
ミロは、深く息を吐く。
「今日は、これ以上何も起きない」
「……本当ですか」
「ああ。これくらいなら、町は自力で戻せる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
――戻せる。
つまり、完全に依存しているわけじゃない。
夜。
家に戻り、布団に入る。
身体は、楽だった。
呼吸も深い。
けれど、心は重い。
今日一日で、はっきりしてしまった。
私は、癒しているわけじゃない。
助けているわけでもない。
ただ、歪みを引き受けている。
それをやめれば、私は楽になる。
でも、その分、町に歪みが戻る。
どちらが正しいかなんて、分からない。
ただ一つ、分かることがある。
――私は、選び続けなければならない。
何をするか、だけじゃない。
何をしないかも。
それが、
聖女として選ばれなかった私に与えられた、
いちばん重い役割だった。
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