第15話 健康な町と、不健康な人
診療所の空気は、静かだった。
午前中から続いていた診察が、ひと段落したところだ。医師たちは記録をまとめ、助手たちは道具を片づけている。
その様子を、エリシアは少し離れた場所から見ていた。
――今日は、触れない。
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
「全体としては、予想以上に良好ですね」
セラの声が、室内に響いた。
彼女は数枚の記録紙を手に、ミロとガルディオに向き直る。
「感染症の拡大は見られません。慢性的な皮膚疾患や呼吸器の症状も、軽度。栄養状態は依然として厳しいですが……悪化傾向ではない」
ミロは、思わず眉をひそめた。
「……それは、良いことですよね」
「ええ。医療的には」
セラは、はっきりと肯定した。
「“不自然なほど”安定しています」
その言葉に、空気が一段階冷える。
ガルディオは、腕を組んだまま聞いていた。
「原因は」
「断定はできません」
セラは即答する。
「ですが、環境要因――水質、空気、生活リズム。これらが同時に改善しているのは事実です」
彼女は、記録の一部を指で示した。
「医療の介入なしで、ここまで揃うのは稀です」
“稀”。
その言葉は、肯定でも否定でもない。
ただの、事実の分類だった。
エリシアは、胸の奥がじんと冷えるのを感じた。
――町は、健康。
それは、間違いない。
「一方で」
セラは、少し間を置いた。
視線が、エリシアに向く。
直接ではない。
だが、確実にそこを含んだ視線。
「気になる点もあります」
ミロが、無意識に一歩前に出た。
「……何ですか」
「個人差です」
セラは、言葉を選ぶ。
「町全体の数値が改善しているのに、特定の人物だけが慢性的な消耗状態にある」
室内が、静まり返る。
エリシアは、自分の鼓動が聞こえるほどだった。
「睡眠不足、筋力低下、循環の不安定さ」
セラは、淡々と列挙する。
「外傷も病原もない。それなのに、回復が追いついていない」
それは、診断だった。
曖昧さのない、医療の言葉。
「……それは」
ミロが、口を開きかける。
「エリシアさん」
セラが、はっきりと名を呼んだ。
エリシアは、逃げずに顔を上げる。
「あなたです」
言葉は、静かだった。
だからこそ、重い。
「……私、ですか」
声が、少し掠れる。
「はい」
セラは、視線を逸らさない。
「あなたの状態は、この町で一番“不健康”です」
その断言に、ミロが歯を食いしばる。
「それは……」
「責めているわけではありません」
セラは、すぐに付け加えた。
「事実を言っているだけです」
それが、一番残酷だった。
ガルディオが、低く尋ねる。
「原因は」
「可能性はいくつかあります」
セラは、少しだけ言葉を区切る。
「慢性的な過労。精神的負荷。そして――」
一瞬の沈黙。
「環境への過剰な適応」
聞き慣れない言葉だった。
「……適応?」
「はい」
セラは、エリシアを見る。
「周囲が良くなる代わりに、あなたが“調整役”になっているように見える」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
それは、恐れていた言葉だった。
「医療の立場から言えば」
セラは、続ける。
「この状態を放置することは、勧められません」
「……つまり」
ミロの声が、低くなる。
「彼女を、ここに置くのは危険だと?」
「長期的には」
セラは、肯定も否定もしなかった。
「命に関わる可能性があります」
エリシアは、何も言えなかった。
――町は、健康。
――私は、不健康。
その対比が、あまりにも明確だった。
「提案があります」
セラが言う。
「環境を変えてください」
その一言に、ミロが反応する。
「……王都へ?」
「医療施設の整った場所へ」
セラは、冷静に続ける。
「一時的にでも。観察と休養が必要です」
“観察”。
その言葉が、胸に刺さる。
それは、保護であり、
同時に、管理でもある。
エリシアは、ゆっくりと口を開いた。
「……町は、どうなりますか」
セラは、少し驚いたように瞬きをした。
「それは……」
「私が、いなくなったら」
言葉を選びながら、続ける。
「この町は、元に戻りますか」
医師として、誠実な答えが必要な問いだった。
セラは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「分かりません」
その正直さに、エリシアは小さく頷いた。
「……そうですよね」
ミロが、耐えきれずに言う。
「だから、彼女を連れて行くなんて――」
「ミロ」
ガルディオが、静かに制した。
領主は、エリシアを見る。
「判断は、本人に委ねる」
その言葉に、エリシアは目を見開いた。
守られてきた。
伏せられてきた。
でも、選ぶのは――私。
セラは、深く頭を下げた。
「今日のところは、診断結果のみお伝えします」
「……はい」
「答えを、急がなくていい」
そう言って、彼女はその場を離れた。
残された静けさの中で、エリシアは自分の手を見つめた。
少し、震えている。
町を癒す手。
自分を削る手。
その両方だった。
――健康な町と、不健康な人。
医療は、残酷なほど正確だった。
そして、逃げ道はもう、
「何もしない」ことではなくなっていた。
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