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第12話 何も起きない一日

 その日は、本当に何も起きなかった。


 朝、目を覚ますと、身体は思っていたより軽かった。完全に元通りとは言えないが、立ち上がっても視界は揺れない。息も、苦しくない。


「……動ける」


 それだけのことが、少し嬉しい。


 窓を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。川の音は、いつも通り穏やかだ。澄んだ音にも、もう驚かなくなってしまった自分がいる。


 ――慣れ、は怖い。


 そう思いながら、顔を洗う。


 今日は、ミロから「無理はするな」とだけ言われている。仕事を完全に休めとは言われていないが、重い作業は免除された。


 それが、かえって落ち着かなかった。


 共同施設に顔を出すと、いつもの顔ぶれが揃っていた。


「あら、今日は来られたのね」


 年配の女性が、穏やかに声をかけてくる。


「……はい。少しだけ」


「無理しないでよ」


 その言葉に、胸がきゅっとする。


 以前は、そんな気遣いを向けられる存在じゃなかった。ただの新入り。雑用係。それだけだったはずなのに。


 炊き出しの準備を手伝う。


 野菜を刻み、鍋に入れる。湯気が立ち上り、薄いスープの匂いが広がる。材料は相変わらず少ない。でも、以前よりも手際が良くなっている気がした。


「今日は、子どもが多いね」


「うん。体調、落ち着いてきたみたいで」


 その言葉に、手が一瞬止まる。


 ――落ち着いてきた。


 ルゥの顔が、脳裏をよぎる。


 昨日、様子を見に行ったとき、彼はまだ苦しそうだった。でも、前ほどではなかった。熱は高いままでも、呼吸は少しだけ楽そうだった。


 良い兆しだと、思いたい。


 でも、確信は持てない。


 昼過ぎ、洗濯場へ向かう。


 川は、静かだった。水面に映る空は、薄く曇っている。底までは見えないが、以前ほどの濁りはない。


 私は、川に手を入れなかった。


 ただ、そばで布を干す。


 それだけで、胸の奥がざわつく。


 ――触れなくても、いいのだろうか。


 触れたら、何かが起きるかもしれない。

 触れなくても、起きるかもしれない。


 どちらにしても、選択は私にある。


「……難しい顔してるな」


 ミロの声に、顔を上げる。


「考え事です」


「そういう顔だ」


 彼は川を見てから、私を見る。


「今日は、静かだ」


「……はい」


「こういう日が、一番いい」


 その言葉に、私は小さく頷いた。


 本当にそうだ。

 誰も苦しまず、誰も期待せず、誰も疑わない日。


 ――でも。


 そんな日は、長く続かない。


 それを、もう知ってしまっている。


 夕方、町を歩く。


 子どもたちが、路地で遊んでいる。以前よりも、外に出ている子が多い気がした。笑い声が、風に乗って届く。


 胸の奥が、温かくなる。


 ――守りたい。


 その感情が、はっきりと形を持つ。


 夜、家に戻る。


 灯りを点け、簡単な食事を取る。質素だが、落ち着く味だ。


 布団に腰を下ろし、深く息を吐く。


 今日は、倒れなかった。

 今日は、何も壊れなかった。


 それだけで、十分なはずなのに。


 ふと、考えてしまう。


 ――もし、王都の人がこの光景を見たら。


 川の水。

 町の空気。

 人々の表情。


 きっと、こう言うだろう。


「聖女がいる」と。


 私は、膝の上で手を握りしめた。


 名付けられないままで、いられるだろうか。

 役割を与えられずに、守り続けられるだろうか。


 答えは、まだ出ない。


 それでも。


 この何も起きない一日が、

 確かに「奇跡の上に成り立っている」ことだけは、もう分かっていた。


 静かな夜の中で、

 エリシアは初めて、はっきりと願ってしまった。


 ――どうか、この日常が、奪われませんように。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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