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第11話 名を伏せるという選択

 執務室の空気は、重かった。


 窓は閉め切られ、昼間だというのに灯りが点いている。机の上には、数枚の報告書と、王都から届いた返書が置かれていた。


 ガルディオは、黙ってそれらに目を通している。


 ミロは、壁際に立ったまま、口を開かなかった。


「……来るな」


 最初に口を開いたのは、ガルディオだった。


 声は低く、感情を抑えたものだったが、そこには明確な意思があった。


「王都の使者は、今回は寄越さない」


「……本当ですか」


 ミロが思わず問い返す。


「公式には、まだ“確認段階”だ。数値の揺れだと言ってある」


 机の上の書簡を、指で軽く叩く。


「だが、時間の問題だ」


 ミロは、歯を食いしばった。


 時間の問題。

 それは、必ず来るという意味だ。


「……エリシアのことは」


「名は伏せる」


 即答だった。


「今後の報告にも、個人名は出さない。聖女候補が派遣された事実も、必要以上には触れん」


「それで、通りますか」


「通らせる」


 ガルディオは、ようやく顔を上げた。


「ここは、辺境だ。王都の目は届きにくい。その利を、今は最大限に使う」


 それは、防御であり、賭けでもあった。


「……あの子は」


 ミロが、言葉を探す。


「自分が原因だと、分かっています」


「だろうな」


 ガルディオは、短く息を吐いた。


「分かっているからこそ、逃げない」


 その評価は、決して軽いものではなかった。


「だが」


 彼は続ける。


「一人で背負わせるつもりはない」


 その言葉に、ミロはわずかに目を見開いた。


「エリシアは、この領地の“象徴”ではない」


 ガルディオは、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「ただの住人だ。役割は与えない。称号も、名目もだ」


 それは、保護であり、同時に鎖でもあった。


 名付けない。

 役割を与えない。


 だが、それは「逃げられない」ことでもある。


「……彼女には、伝えますか」


「いいや」


 ガルディオは首を振った。


「伝えれば、あの子は自分から前に出る」


 その未来が、容易に想像できた。


「だから、伝えない」


 それが、この領主の出した答えだった。


 ***


 エリシアは、その頃、家で静かに過ごしていた。


 体調は、少しずつ戻ってきている。立ち上がると、まだふらつくが、歩けないほどではない。


 それが、逆に不安だった。


 ――回復している。


 自分が元気になるほど、町も落ち着いていく気がする。


 因果関係なんて、証明できない。

 それでも、感覚が否定できなかった。


 扉を叩く音がした。


「……誰ですか」


「俺だ」


 ミロの声。


 扉を開けると、彼はいつもより硬い表情をしていた。


「領主様からの指示だ」


 そう前置きして、続ける。


「しばらく、外部の人間は入れない。王都とのやり取りも、最小限になる」


 エリシアは、ゆっくりと瞬きをした。


「……それは」


「お前のためだ」


 即答だった。


 胸が、きゅっと縮む。


「……迷惑を、かけてますね」


「かけてない」


 きっぱりと否定される。


「町は、良くなっている。それは事実だ。だが、理由を求められると厄介になる」


 少し、言い淀んでから続ける。


「……だから、今は隠す」


 隠す。


 その言葉に、エリシアは視線を落とした。


「……私、ここにいていいんですか」


 ようやく出た本音だった。


 ミロは、しばらく黙っていたが、やがて答える。


「領主様は、お前を追い出すつもりはない」


「……それは」


「期待してるわけでもない」


 付け加える。


「だから、安心しろ」


 それは、奇妙な慰めだった。


 期待されないことで、守られる。


 エリシアは、小さく息を吐いた。


「……分かりました」


 それ以上、言えることはなかった。


 夜。


 窓の外を、静かな風が通り過ぎる。


 町は、今日も穏やかだ。


 それでも、エリシアは眠れずにいた。


 王都が、こちらを見ている。

 名を伏せられている今でさえ、視線を感じる。


 ――いつまで、隠しきれるだろう。


 その問いに、答えはなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 この場所は、もう「何も起きない辺境」ではない。


 そして彼女自身も、

 ただの通りすがりでは、なくなってしまった。


 静かな夜の中で、

 第一部は、確かに終わりを迎えようとしていた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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