忘れられないもの
逃げることしかできなかった男が、
ようやく“立つ”ことを覚える。
剣を振るうためではなく、生きるために。
傷ついた心を抱えたまま、それでも前へ進もうとするレオンの
小さな再出発の章です。
「おい、レオン! 構えが鈍ってる!」
ダグの声が響く。
朝靄の中、訓練場の土がレオンの足にまとわりつく。
木剣を握る手の皮は、もう何度も破け、血がにじんでいた。
「っ……はっ!」
「腰が浮いてる! 腰だ、腰を落とせ!」
「は、はいっ!」
体中が悲鳴を上げても、止めることはできなかった。
動きを止めた瞬間に、過去が追いついてくる気がしたからだ。
「……もう、いい。今日はそこまでだ」
ダグがため息をつき、木剣を地面に突き刺す。
「まだまだだな。だがまあ、最初の頃よりはマシになった」
レオンはうつむいたまま、わずかに笑った。
「……ありがとうございます」
「感謝なんかいらねえ。お前が死なれたら寝覚めが悪ぃだけだ」
そう言いながら、ダグは皮袋の水を投げて寄越した。
水を飲み干した後、レオンは小さく呟く。
「……俺、強くなれますかね」
「強くなることより、生き残ることを覚えろ。強ぇ奴なんて、みんな死んじまう」
ダグは火を起こしながら、ぼそりと付け足した。
「俺もな、昔は剣で食ってたが……仲間はもういねぇ」
「……」
その横顔に、戦場を知る者の影があった。
***
翌朝、森の奥。
ダグの後ろを歩きながら、レオンは薬草を探していた。
「この草が“レスト草”だ。傷薬になる。似たやつに“ドグ草”ってのがあるが、そっちは毒だ」
「こっち、ですか?」
「違う。毒。死ぬぞ」
「っ、すみません!」
「ははっ、死ぬ前に覚えりゃ上出来だ」
失敗して、笑われて、覚える。
それがレオンの日常になっていた。
冒険者の仕事は戦うことばかりじゃない。
生き延びるための知恵と手がかりを積み重ねること。
季節が二度、森を渡る風とともに過ぎていった。
木を切り、草を売り、時には獣の皮を剥いで金に変える。
少しずつ、レオンの体は鍛えられ、表情にもわずかな逞しさが宿っていった。
それでも、夜になると焚き火の前で夢を見た。
あの村。
あの老女。
「逃げなさい、レオン……逃げて……」
夢の中の声に、何度も目を覚ました。
***
ある夜、ギルドの片隅。
依頼掲示板の前で、レオンは小さな羊皮紙を見つめていた。
隣からジョッキの音が聞こえる。
「よう、レオン。休みも仕事探しか?」
ダグが笑いながら肩を叩く。
「……ええ。もう少し、稼がないと」
「欲が出てきたな。悪くねぇ。明日、護衛の依頼がある。荷馬車の見張りだ。行ってみるか?」
「……俺なんかで、いいんですか?」
「“お前なんか”だから、ちょうどいいんだ。 お前は護衛に向いてる」
そのとき、近くの席から聞こえてきた。
「――まだ見つかってねぇらしいぞ、あの王国の姫」
「帝国が捜してるとか聞いたな。何のためだか……」
「今さら王なんざいねぇのに、誰が得すんだかね」
レオンの手が、静かに止まった。
木のジョッキを持つ指先が、かすかに震える。
ダグが気づいて、ちらりと横目で見た。
「気になるのか」
「⋯はい」
だが、胸の奥で何かが疼いていた。
消えたはずの炎が、まだ小さく、息をしている。
レオンは顔を上げた。
「……その護衛依頼、受けます」
ダグはゆっくりと頷いた。
「よし。ようやく一人前の冒険者らしい顔になったな」
レオンは小さく笑った。
けれど、その笑みの奥には――まだ痛みがあった。
レオンが初めて「逃げるため」ではなく「生きるため」に剣を握った。
それはまだ弱く、不器用な一歩だけれど、
確かに彼の中で何かが動き始めている。
次回、レオンは初めての“依頼”に挑みます。
彼の剣が再び戦いの場へ向かうとき――
過去の記憶も、再び彼を追いかけてくることになるでしょう。




