忘却
戦場から逃げた少年騎士が、ひっそりと身を隠す小さな村。
彼は名を偽り、剣を手放し、ただ人として生きようとする。
けれど、運命はそんな彼を見逃してはくれなかった――。
森を抜けたとき、空はすでに薄い灰色に染まっていた。
霧のような朝靄が辺りを包み、冷えた風が頬をかすめる。
レオンはふらつきながら歩き、やがて小さな村を見つけた。
喉が焼けるように乾いていた。
もはや、姫を探すという使命など頭の片隅にも残っていなかった。
生き延びること――ただそれだけが、いまの彼の全てだった。
気づけば家の扉を叩いていた。
返事はなかったが、鼻をくすぐるパンの香りに耐えきれず、
彼はその場に崩れ落ちた。
意識が戻ったとき、藁の上だった。
粗末な天井の木目がゆっくりと目に映る。
隣で年老いた女性が、布を水に浸して彼の額を拭っていた。
「起きたかい」
「……ここは……?」
「森の外れさ。名もない小さな村。倒れてたんだよ」
女性はそう言って、ぬるいスープを差し出した。
体の芯に染み込むような温かさだった。
味を感じた瞬間、涙がこぼれた。
「そんなにおなかが減っていたのかい」
「……すまない」
レオンは、自分の名を偽った。
王国の騎士だったと知られれば、村に迷惑がかかる。
それに、自分自身――もう“騎士”を名乗る資格もない。
村は小さかった。
十数軒の家と畑、それに小さな祈りの堂。
朝になると男たちは森に薪を取りに行き、
女たちは井戸で水を汲む。
そんな平和な日常が、信じられないほど遠くに思えた。
レオンも次第に、村の生活に馴染んでいった。
木を割り、畑を手伝い、羊の世話をする。
騎士の剣よりも、鍬の方が重く感じる日々。
時折、夢に団長の顔が出てきた。
「お前に託す」と言ったあの瞬間が、何度も蘇る。
そのたびに目が覚め、外に出て冷たい空気を吸い込んだ。
――俺は、逃げたんだ。
夜、焚き火の前で村の子どもが笑う声を聞きながら、
レオンは剣を見つめる。
錆び、刃こぼれしたその剣は、
かつて自分が何を誇りにしていたのかを忘れさせてくれる道具のようでもあった。
「ここにいれば、もう戦わなくていい……」
そう呟いたとき、風が吹いた。
遠く、森の奥から微かな音が届く。
馬の蹄か、金属のきらめきか――。
翌朝、井戸のそばで村人たちがざわめいていた。
「北の方で、また戦があったらしいよ」
「今度は王都が落ちたって……本当なのかね」
レオンは桶を持つ手を止めた。
話を聞かないようにしていた耳が、勝手に音を拾ってしまう。
王都――あの光景が脳裏をよぎる。炎と血と、叫び。
団長の声が、遠くで響くような錯覚。
「おや、どうしたんだい?」
声をかけたのは、彼を助けた老女だった。
「顔色が悪いよ。森にでも、何か見えたかい」
「……いえ。ただ、少し寒くて」
レオンは苦笑して、桶を持ち直した。
その笑みが、どこか無理をしているのを老女は気づいていた。
その夜、村の広場に灯りがともった。
村人たちは戦の噂を肴にして、焚き火のまわりで語り合っていた。
「帝国は北の砦も制圧したそうだ」「南の街から避難民が来てるらしい」
不安の中に、どこか現実感のない笑い声が混ざる。
誰もが「ここまでは来ない」と信じたかったのだ。
レオンは焚き火の向こうにいる子どもたちを見た。
彼らが笑っているうちは、この村はまだ平和だ。
だがその灯りが、夜風に揺れた一瞬――
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
レオンが成長してくれるといいな。
試練を与え続けよう




