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珈琲の紅涙

作者: 眼100

1 

 不思議な夢を見た。

 足元を歩く蟻の群れ。その先に、どこかで見たことのある男。群がる蟻どもに取り囲まれた蝶。羽が破れ、ただそこにあるだけの蝶。やがて、その蝶は少しずつ食い破られていく。私はただ、音もなく見つめていた。

 突然、遠くからミーンミンミンミンと聞こえた。その瞬間、頬を伝う透明な熱が、冷たい汗と綯交ぜになり落ちていく。まるで何かを認めたくないように。


 夜なのに、けたたましい蝉の鳴き声に目を覚ました。目の前ではテレビが砂嵐を映している。どうやら、テレビをつけたまま眠ってしまったみたいだ。服は汗でびっしょり濡れている。夏だというのに体が震えた。着替えようと脱衣所に向かうと、鏡の中に、夢に出てきた男が涙ながらに立っていた。男は目を見開いた。その行動は私と一致していた。そうか。夢の男は私だったのか。ならば、あの夢での私は誰だったのか。不意に不安がよぎり、着替えることも忘れて妻の元へ向かった。


 バタバタと階段を駆け上り、寝室の前で深呼吸をする。扉をそっと開け、中に入る。変わらぬ彼女の姿を見て、安堵したかったのかもしれない。しかし、目についたのは彼女の寝顔ではなく、机の上の白い紙とペンだった。見ぬふりをして一階に戻り、漫画を開く。主人公が仲間たちとバカ騒ぎしながら冒険する少年漫画だ。しかし意識はあの白い紙から離れなかった。どうにも気になり、再び彼女の部屋へ戻った。白い紙は伏せられた原稿用紙だった。手が「見るな」という自分の意思とは反対に、紙を裏返す。その中には、こう記されていた。


---


ネオンが溶ける

君もそれに続く

街が溶けていく

僕は水彩画に水を垂らした


---


 生真面目な彼女にしては珍しく、枠に無視した書き方だった。

「なんのこっちゃ分からん」と思い、再び一階に降りた。彼女の書く文章はいつも崇高で、私には難しい。年々、小説を読むのがしんどくなってきた。一度小説の世界に入り込むと、そこから抜け出すのに苦労する。今の私に合っているのは、深く考えずに楽しめる漫画ぐらいだ。


 翌朝、彼女に昨夜のことを謝りつつ、原稿の内容について尋ねてみた。

「深い意味はないわ」

 彼女は笑いながら言った。

「そうか」

 追求したくなるのを無理やり抑えた。

 私が淹れたコーヒーの香りを楽しむ彼女の姿を、眺める。


 外に出るのが億劫になる頃、妻は医師から入院を告げられた。私は広い家に一人取り残された。孤独を埋めるように、嫌いだったコーヒーを淹れ、小説を開く日々が始まった。少しでも彼女を感じていたかった。


 私がまだ極貧大学生であった頃、彼女はカフェで働いていた。彼女はただの客にも優しく笑い、動くたびに長い髪がふわりと浮く。私はコーヒーが大嫌いなのにカフェに通い詰めた。彼女と話すためだった。しかし私はちびちびと飲む苦すぎるコーヒー越しに、同僚と笑い合う彼女をただ眺めるだけの臆病者だった。

結局声をかけることもできず、大学を卒業すると、彼女はいつの間にか店を辞めていた。諦めたつもりで、他の女性たちと夜を共にしたこともあったが、彼女のことを忘れることはできなかった。


 収入も得て、少しずつ自信をつけた頃、再び彼女に出会った。カフェの片隅で、蝶のように優雅な仕草でコーヒーを嗜む姿は、あの頃と変わらなかった。違ったのは、私が勇気を出したことだ。彼女は、ただの客だった私のことなど覚えていなかったが、私たちは少しずつ距離を縮めた。そして、彼女は私の人生の中心になった。何よりも大切な存在だった。


 病名は「がん」だった。定期検診を欠かさず受けてきたにもかかわらず、持病に隠れて発見が遅れたという。私は会社を辞め、病室にいられる時間は一緒にいた。春が来て、外の世界が生命の息吹に満ちていく一方で、桜色だった彼女の肌は月の光のように白く、枯れ枝のように細くなっていった。


 ふと、いつか見た夢を思い出した。彼女とあの蝶を重ね合わせてしまった。最低だ。その思いが胸を締め付け、その事実を認めたくはなかった。彼女に悟られたくないと思ううちに、病室に足が遠のいていった。


 そして、彼女の肌が最も月に近い色に変わった日、白衣を着た男から呼び出され、別れを告げろといわれた。そんなことを出来るはずもないのに。まだ30にもいかない枝のようになってしまった彼女の手を握り、大丈夫、きっと治る、と笑顔をつくり嘘をついた。彼女は鈴のようなかすかな声で、「そんな顔をしないで?」と言った。私はどんな顔をしていたのだろうか。


 数時間後、彼女は息を引き取った。悲しいはずなのに、涙も出なかった。窓の外には、雲ひとつない青空に満開の桜が咲いていた。それが今は憎かった。いまなら彼女が好きだった和歌の意味が分かる。古今集832番歌『深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け』彼女は春になるたびにこれを好んで読んでいた。


 家に帰るようにと言われた頃には、空は赤く変色していた。ふらふらと歩くうちに夕立にあった。雨はすぐに上がり、雲間から光が差し込む。薄明光線。彼女が言うには天使の梯子らしい。梯子の光に吸い寄せられるように歩いていると、彼女の声が聞こえた気がした。もう一度、触れることはできないのか。彼女を追いかけるうちにガードレールにぶつかった。


3

 家に帰り、またコーヒーを挽く。彼女に似たのかコーヒーが好きになってきた。音がない彼女の部屋で飲みながら、原稿用紙を借りた。私も彼女の真似事をしよう。彼女が書いたあの文章の意味を知りたい。

改めて彼女が書いた紙を見ると所々、字がぼやけていた。おそらくアイスコーヒーの結露で滲んだのだろう。夏には好んでアイスコーヒーを飲んでいた。



ネオンが溶ける

君もそれに続く

街が溶けていく

僕は水彩画に水を垂らした



 いつかあなたが書いていた文章に倣って、私もこのB4用紙に飲みかけの珈琲を零そう。文字とともに記憶も滲んでくれることを願って。

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