僕と君との距離
プロローグ 希望の種
静寂に包まれた深い森の中を、一粒のマリーゴールドの種が舞っていた。遠い国から長い旅を経てきたその小さな命は、微かに漏れる夕陽に照らされて金色に輝いていた。風に乗って、種は木々の間を縫うように進む。まるで森の精霊たちに導かれるかのように、特別な場所へと向かっていく。
やがて、日は暮れ、月光に照らされた小さな空き地が姿を現れた。苔むした岩と清らかな小川に囲まれたその場所は、意図を持って隠された秘密の園のようだった。種は静かに舞い降り、柔らかな土のベッドに身を委ねる。微かな風が吹き、マリーゴールドの種を優しく包み込んだ。森全体が、新たな生命の誕生を見守るかのように静まり返っていた。
夜明けとともに、マリーゴールドの種は目覚めのときを迎えた。柔らかな土の中で、小さな根が伸び始める。陽光を浴びて、芽は少しずつ地上へと顔を出した。周囲の植物とは明らかに異なり、この芽には不思議な輝きがあった。葉は翡翠のような透明感を見せ、茎は真珠のような光沢を放っている。森の精霊たちは、この特別な花の成長を見守りながら、ささやかな魔法をかけていく。
やがて蕾が膨らみ始めた。それは通常のマリーゴールドよりも大きく、まるで太陽の欠片を閉じ込めたかのような輝きを放っていた。森の生き物たちも息を呑み、その瞬間をじっと見守っていた。
ついに花開く時が訪れる。花弁が一枚、また一枚と開いていく様は、まるで黄金の炎が燃え広がるかのようだ。完全に開ききった花は、深い森の中で燦然と輝き、周囲の空気さえも金色に染め上げた。神秘的な光景が園に広がる。それは、森が長い間待ち望んでいた奇跡そのものだった。
夜空に輝く星々が見守る中、マリーゴールドの花に月明かりが収束していく。飽和をむかえたかのように、突如花弁の中心から放たれる光は、まるで新しい命の鼓動のように脈打ち、周囲の空気を温かく包み込む。
その光の中から、無垢で愛らしいマリーゴールドの精霊が姿を現した。彼女は光を宿したかのような金茶色の髪と瞳を持ち、希望に満ちた表情で佇んでいた。その小さな手は、まるで森の恵みを感じ取るかのように空に向かって伸ばすと、一際周囲の目を引いた。
精霊は初めて見る世界に目を輝かせ、周囲の美しさに心を奪われていた。その存在は、森の静けさの中で異質なものであったが、まるで自然そのものが息をしているかのように場の空気に溶け込んだ。彼女は深い緑の中で、自らがこの森に宿る意味を感じ取っていた。
「私はここにいるよ」
彼女は小さな声で呟いた。その言葉は風に乗り、森全体に広がっていく。動物たちや木々も、その声に耳を傾け、新たな命の誕生を祝福するかのようだった。
精霊は一歩また一歩、森の奥へと進んでいく。彼女の存在が、この場所にもたらす変化をまだ誰も知らない。月明かりが優しく照らす中、彼女の姿は木々の中に溶けていった。
第一章 出会い
森の木々たちが風に揺れ、ざわざわと心地よい音色を奏でる。都会の喧騒などとは無縁な、青と緑のコントラストが眼前に広がっていた。
朝の陽射しが窓から差し込み、夏輝はまだ完全には開かない瞼を擦りながらゆっくりと目を覚ました。ベッドから起き上がると、窓を開けて新鮮な空気を深く吸い込む。冷たい朝の空気が頬を撫で、心地よい爽快感が全身を駆け巡った。
「今日もいい天気だな」
夏輝は独り言をつぶやく。都会から遠く離れたこの小さな村での一人暮らしは、彼にとって心の平穏を取り戻す大切な時間だった。
服を着替え、軽く朝食を済ませると、夏輝は早朝の散歩に出かける準備を始めた。彼にとって、この日課は欠かせないものだった。玄関を出ると、鳥の囀りが聞こえる。澄んだ朝の空気と村の静けさが心を落ち着かせる。村人たちと挨拶を交わしながら、夏輝は森への小道を歩き始めた。周囲の人々は彼の習慣をよく知っており、自然を愛する彼の姿を温かく見守っていた。
小道は緩やかなカーブを描いている。両側には色とりどりの花々が咲き誇っており、夏輝はその美しさに目を奪われながら、歩みを進めていく。
「ここにいると、まるで別世界に来たみたいだ」
自然の中を歩きながら、夏輝は都会での生活を思い出す。騒音や慌ただしさから逃れ、この村に移り住んで数年。今では、この静かな環境が彼にとってかけがえのないものとなっていた。
しばらく歩くと、小道の先に鬱蒼と茂った木々が広がっていた。森の中に入るときは、いつも心に不思議な期待感が芽生えている。今日は何か特別なことが起こるのではないだろうか。そのような思いを胸に、夏輝は小道を進み続けた。
森の入り口に辿り着くと、一度その歩みを止めた。木々の間から零れる朝日が、まるで彼を招き入れるかのように輝いていた。一歩踏み出すと、足元の落ち葉が心地よい音を立てる。森の中は、村とはまた違った静けさに包まれていた。頭上では枝葉が風に揺れ、木漏れ日が揺らめく様相を地面に描いている。夏輝は、その光と影の戯れを見つめながら、ゆっくりと歩を進めていく。途中、小さな清流に出くわした。水面に映る自分の姿を見つめながら、ふと物思いに耽る。
「あの頃は、こんな澄んだ水を見ることもなかったな」
遠い記憶を懐かしむかのように、ぽつりと呟く。この清らかな流れが、今の彼の心を映し出しているようだった。
森の奥へ進むにつれ、木々はより鬱蒼としてきた。しかし、夏輝は恐れを感じるどころか、むしろ心が落ち着くのを感じていた。この村に来てよかったと改めて思う。突然、目の前に小さな空間が広がった。そこには、見たこともないほど鮮やかな花たちが咲き誇っていたが、その中でも特に目を引いたのは、黄金色に輝くマリーゴールドの群生だった。夏輝は思わず足を止め、その美しさに見入った。
風が吹き、花々が揺れる。厳かな雰囲気に惹きつけられるように、ゆっくりと広場の中心へと歩み寄った。花々に囲まれ、夏輝は深く息を吸い込んだ。都会では決して味わえなかった、自然の神秘的な力を肌で感じていた。マリーゴールドの群生に見入っていると、木々の陰に微かな動きを感じた。目を凝らすと、そこには夢幻的な姿の少女が佇んでいた。金茶色の髪は風にたなびき、透き通るような肌は柔らかな光を放っている。髪色と同じ金茶色の瞳には深い森の緑を映していた。
夏輝は息を呑み、目を見開いた。目の前の光景が現実なのか、幻なのか判断できない。しかし、心臓の高鳴りが、目の前の光景を確かに起きているなのだと実感させていた。
「君は、誰なんだ」
夏輝は震える声で尋ねた。少女は困惑したような表情を浮かべ、木の幹に身を寄せた。しかし、その仕草さえ夏輝の目には美しく映った。
「僕は夏輝。この村に住んでいるんだ。君のことを教えてくれないかな」
少女は首を傾げ、戸惑いの表情を浮かべる。その仕草に、夏輝はますます心を奪われていく。
「森の中で君のような人に会えるなんて、信じられない。こんな美しい人がいるなんて」
少女は黙ったまま、困った様子で夏輝を見つめている。その沈黙は、逆に夏輝の想像力を掻き立てた。
「君も村に住んでいるの。君はどうして森の中にいたの」
夏輝は次々と質問を投げかける。少女は少し体を引いたが、その場に留まっている。夏輝の洪水のように押し寄せる言葉の波に、戸惑いの色を深めるばかりだ。夏輝は興奮を抑えきれず、さらに話し続けた。
「君の髪色はここに咲いているマリーゴールドみたいだね。頭に付けている花冠もマリーゴールドなんだね」
少女は依然として言葉を発することはない。しかし、幼く見える少女の表情には、明らかに陰りが見えていた。夏輝の興奮は収まる気配がなく、少女の様子を知る由もない。
「もっと君のことが知りたいんだ。ねえ、君の名前は何ていうの」
質問を畳みかける夏輝に、少女の表情はますます曇っていく。その目には、困惑に加えて不安の色が浮かび始めていた。
「あ、ごめん。急に質問攻めにしちゃって」
夏輝は少し落ち着きを取り戻そうとするが、すぐに話を続ける。
「でも、君みたいな子に会えるなんて、本当に信じられないんだ。森の中での出会いなんて、童話の中の出来事みたいだよ」
少女は一歩、また一歩と後ずさりを始める。その動きに気づかない夏輝は、さらに前に進み出る。夏輝の言葉が止まる間もなく続く中、少女の目には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。突然、彼女は身を翻すと、森の奥へ向かって走り出した。
「あ、待って」
夏輝は慌てて叫ぶ。少女の姿は木々の間を縫うように素早く動き、まるで森と一体化するかのように見えた。夏輝は必死に追いかけるが、少女の動きはあまりにも軽やかで、すぐに見失ってしまう。
「どこに行ったんだ」
息を切らせながら、辺りを見回す。しかし、そこにあるのは鬱蒼と茂った木々の風景だけ。少女の姿はどこにも見当たらない。マリーゴールドの香りだけが、微かに空気中に漂っている。夏輝は呆然と立ち尽くし、興奮と困惑が入り混じった表情で、彼は森の奥を見つめ続けた。
「あれは、夢だったのかな」
小さく呟くが、心の奥では確信していた。あの出会いは確かに実在のものだったと。そして、再び彼女に会えることを強く願いながら、夏輝はゆっくりと来た道を戻り始めた。
村への帰り道、夏輝の足取りは重かった。興奮が冷めるに連れ、自分の行動を振り返り始める。
「あんなに一方的に話しかけて、怖がらせてしまったんだ」
後悔の念が胸に広がる。夏輝は人見知りな性格で、人とのかかわりが苦手な方だ。だからこそ、あの不思議な少女との出会いに舞い上がってしまったのだ。
「僕らしくないな」
呟きながら、夏輝は空を見上げた。背から照り付ける太陽の光が、彼の顔に陰をつくる。彼の複雑な胸中を映し出しているようだ。あの少女の姿が忘れられない。金茶色の髪、透き通るような肌。まるで自然を体現したかのような存在に、夏輝の心は強く惹かれていた。
「もう一度会いたい。でも、どうすれば」
夏輝は立ち止まり、来た道を振り返る。森はいつもと変わらない静けさを湛えていた。しかし、彼の目には全てが新鮮に映る。
「明日も来よう。でも今度は静かに、ゆっくりと」
そう決意する夏輝の心に小さな希望が灯った。人と上手く関われない自分を変えたい。その思いが、不思議な出会いによって強くなっていく。
村が見えてきた頃、夏輝の表情は晴れやかになっていた。明日への期待と、自分を変えたいという決意が、彼の心を前向きにさせていく。家に着くと、夏輝は部屋に駆け込み、日記を取り出した。今日の出来事を書き留めながら、彼は誓う。
「必ずまた会える。そして今度は、きっと上手く話せるはずだ」
ペンを置き、窓の外をふっと見た。少女との再会に胸を膨らませながら、夏輝は静かに目を閉じた。
第二章 もどかしい思い
朝日が昇る前、夏輝は目を覚ました。普段なら微睡んでいるだろうが、やけにしっかりと覚醒している。昨日の不思議な出来事を思い出すと、まるで夢のように感じられる。しかし、日記に記された文字が、それが現実だったことを証明していた。
「今日も、あの子に会えるかもしれない。会って昨日のことを謝らないと」
その思いが、夏輝の体を軽くする。いつもより早く起き出し、朝食を済ませると、夏輝は森へと向かった。
道すがら、昨日のことを思い返す。少女の困惑した表情。明らかに不安を抱えた瞳。
「今度は怖がらせないようにしないとな」
夏輝は自分に言い聞かせた。
森に入ると、夏輝はゆっくりと歩を進めた。周囲の音に耳を澄まし、木々の間を注意深く見渡す。昨日とは違った静かな期待感が胸に広がる。
マリーゴールドの群生地に着くと、夏輝は深呼吸をした。ここで彼女に出会ったのだ。辺りを見回したが、彼女の姿をどこにも確認することができない。
「まだ来ていないのかな」
夏輝は近くの木の根元に腰を下ろし待つことにした。時間だけが過ぎていく。小鳥の囀り、風に揺れる葉の音。自然の音に耳を傾けながら、夏輝は辺りを観察し続けた。
日が高くなっても、少女の姿は現れない。しかし、夏輝の心は不思議と穏やかだった。森の中にいると、都会では味わえない安らぎを感じる。
「今日は合えなかったけど、諦めなければきっと会える。明日も来よう」
そう決意して立ち上がった時、ふっと風が吹き抜けた。マリーゴールドの花びらが舞い上がり、夏輝の周りを舞う。まるで、誰かが彼を見守っていたかのようだった。夏輝は微笑んだ。今日は会えなくても、きっといつか再会できる。その確信が、彼の心を温かく包んだ。
村への帰り道、夏輝は森を振り返った。
「明日また来るよ」
小さく呟く夏輝の頬を、爽やかな風が撫でていった。
森に通う日々が続き、数日が経った。夏輝は毎朝、変わらぬ思いで森を訪れていた。マリーゴールドの群生地で少女を待ち、姿が見えないと森の中を歩き回る。そのような朝のひとときが日課となっていた。
ある日、いつもより深く森に分け入った夏輝は、不思議な空気の流れを感じた。風もないのに、木々が囁くように揺れている。「ここに何かあるのか」そう思った瞬間、その感覚は消えてしまった。
その夜、夏輝は決意した。
「明日は、マリーゴールドの花束を持っていこう。それで、僕の思いが少しでも伝わるといいな」
翌朝、夏輝は庭に植えているマリーゴールドを丁寧に摘んだ。大切に籠に入れると、いつもより早く家を出た。森に入ると、昨日感じた不思議な雰囲気が再び漂っている。心臓の鼓動が高鳴る。木々の間を縫うように進んでいくと、小さな空き地に出た。そこで夏輝は息を呑んだ。目の前に探し求めた少女がいたのだ。金茶色の髪が風に揺れ、透き通るような肌が柔らかな光を放っている。少女は夏輝に気付くと、驚いたような表情を浮かべた。
「や、やっと会えた」
夏輝の声は震えていた。
「この花、君にあげたくて」
震える手でマリーゴールドの花束を差し出す。彼女はその行動を見ると、驚いたように目を丸くして見せた。しかし、夏輝の差し出したマリーゴールドの花束に、少女が手を伸ばす気配はない。永遠ともとれる静寂が、二人の間を流れた。
夏輝の手に持たれたマリーゴールドの花束が、微かに揺れる。少女は花束を見つめたまま、動かない。その瞳には深い悲しみが伺え、何か言いたげな複雑な表情をしている。
「あの、受け取ってくれないかな」
夏輝は再び声をかけた。少女はゆっくりと首を横に振る。その仕草は儚げで、まるで風に揺れる花のようだ。夏輝は困惑した。
「どうして。嫌いな花なの」
少女は再び首を横に振った。今度は少し強い眼差しを夏輝に向けた、決意を示すかのように。ぐっと何かを押し殺すように、握られた両手に力が込められている。夏輝は花束を下げ、考え込んだ。
「もしかして、花を摘むのが嫌なの」
その言葉に、少女の目に涙が浮かんだ。小さく、しかし確かに頷く。夏輝は驚きと共に、何かを理解した気がした。
「そうか、君はとても花を大切にしているんだね」
少女の表情は変わらず、悲しみに満ちたままだ。夏輝は花束を見つめ、申し訳なさそうに言った。
「ごめん。僕、全然気づかなかった」
夏輝はそっとに花束を地面に置いた。
「この花たちも、もっと生きていられたはずだよね。まだまだ、美しく咲き誇っていられたはずなんだ」
少女は少し肩の力を抜いたが、その目は依然として悲しみに曇っている。夏輝への警戒心は解けていないようだ。
夏輝は二の句を継ぐことができなかった。その間に、少女は一歩後退りした。そして、ゆっくりと森の奥へと歩き始めた。
「待って、どこに行くの」
少女は振り返らず、木々の間に消えていく。夏輝は一瞬躊躇したが、すぐに後を追う決意を固めた。
「僕も行くよ」
少女は一切の反応を見せない。木々の間を縫うように進む少女の後ろ姿を見つめながら、夏輝の胸に後悔と焦りが広がる。地面に置かれたマリーゴールドの花束は、二人の複雑な思いを象徴するかのように、その場に取り残されていた。
夏輝は少女の後を追って森の奥へと進んでいった。木々が密集し、日光が遮られるにつれ、周囲はますます暗くなっていく。少女の姿は時折木の陰に隠れる。その度に、夏輝の心臓は焦りで高鳴った。
「ちょっと待ってよ」
夏輝は。叫んだが、少女は振り返ることなく歩み続ける。頭の中で様々な思いが渦巻く。
「また彼女を悲しませてしまった。どうして気づかなかったんだ」
自責の念が胸を締め付ける。
足元の根に躓き、夏輝は転びそうになる。必死に体勢を立て直しながら、彼は走り出した。
「今度こそ、ちゃんと気持ちを伝えないと」
息を切らしながら、夏輝は少女との距離を縮めていく。
「お願い、聞いて欲しいんだ」
彼の声には、切迫感が滲んでいた。
突然、少女は立ち止まった。振り返らないまま、その場に佇んでいる。夏輝も足を止め、深呼吸をして言葉を探す。
「ごめん。本当にごめん」
夏輝の声は震えていた。
「君の気持ちを考えずに、勝手なことをしてしまった」
少女はゆっくりと振り返った。その目には、まだ悲しみの色が残っている。
「僕は、君のことをもっと知りたかったんだ。でも、それは君を傷つけるためじゃない」
夏輝は必死に言葉を紡ぐ。風が吹き、木々がざわめいた。少女の髪が揺れる。二人の間に沈流れる沈黙が、夏輝の心臓を高鳴らせる。自分の言葉が少女の心に少しでも届くのだろうか。不安に苛まれながら、夏輝は彼女の言葉を待った。
長い沈黙が森全体を包み込む。夏輝の言葉が木々の中に消えてしまった。言いようのない緊張感が続いたが、少女の表情が微かに変化するのを見て取れた。その目に宿っていた悲しみの色が、僅かに薄れたように見える。しかし、依然として警戒の色は残ったままだ。
夏輝は、少女の反応を見逃すまいと、息を潜めてじっと見据える。少女は首を傾げ、困惑したような表情を浮かべた。
「僕の気持ち、少しでも伝わったかな」
夏輝は小さな希望を抱きながら尋ねた。少女は答えない。代わりに、彼女は一歩後ろに下がった。その動きは慎重で、まるで夏輝との距離を測っているかのようだ。
夏輝は焦りを感じつつも、強引に近づくことは避けた。少女は静かに腕を上げ、夏輝の方向を指さした。そして、ゆっくりと首を横に振る。その仕草は、近づかないでという意味に取れた。夏輝は深く息を吐いた。
「わかった。君の気持ちを尊重するよ」
二人の間に広がる距離。それは物理的なものだけでなく、心の隔たりをも象徴しているようだった。
夏輝は少女の表情の変化を注意深く観察していた。彼女の目から警戒の色が完全には消えていないものの、以前ほどの緊張感は感じられない。些細な変化ではあるが、夏輝はこの変化に小さな希望を見出した。ゆっくりと、夏輝は静かに口を開く。
「あのね、改めて自己紹介させて」
少女は僅かに顔を上げ、夏輝をまっすぐ見つめた。その眼差しには、以前のような恐れではなく、僅かな好奇心が宿っているように見えた。
「僕の名前は夏輝。夏に輝くって書くんだ。覚えてくれたら嬉しいな」
夏輝は柔らかな声で言った。
少女は首を傾げ、夏輝の言葉を反芻するかのように目を閉じた。その仕草は、初めて会った時や花束を渡そうとした時とは明らかに異なっていた。
「君の名前も、いつか教えてくれるかな」
少女は答えない。しかし、それは拒絶ではなく、むしろ躊躇のようにも見えた。
「急がなくていいんだ、君の準備ができたときに教えてくれれば嬉しい」
少女からの反応は返ってこないが、自分の言葉に耳を傾けてくれていることが、夏輝には嬉しく感じた。
二人の間の距離は変わらないままだ。しかし、その空間に流れる空気が、僅かにではあるが変化したように感じられた。
「これからもここに来るよ。君に会えるのを楽しみにしてる」
精一杯の勇気を振り絞り、夏輝は少女に言葉をかけた。夏輝の言葉に、少女の表情が微妙に変化した。その目に、何かを訴えかけるような光が宿る。唇が僅かに動き、何かを言いたげな様子だったが、声にはならない。
少女は両手を胸の前で握りしめ、その指が震えているのが見て取れた。夏輝の優しさに応えたい気持ちと、何かに縛られているような葛藤が、その仕草に表れている。
彼女は木々の方を見やった。まるで森に助けを求めるかのように。再び夏輝に視線を戻した少女は、深く息を吐いた。その仕草には、何か重い決意が感じられた。しかし、その決意が何なのかは、夏輝には分からない。
少女は、夏輝をじっと見つめた。その眼差しには、言葉にできない何かが宿っていた。理解してほしい、でも近づかないでほしい。そんな相反する思いが、彼女の目に映し出されている。
再び両手を胸の前で握りしめる少女。その指先が、何かを懸命に抑え込もうとしているかのように見えた。彼女は、そっと目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けると、夏輝に向かって寂しげな眼差しを向けた。それは別れの合図だったのだろうか。少女はくるりと身を翻し、木々の間に身を隠そうとした。
少女が木々の間に消えていく姿を見つめながら、夏輝の胸に複雑な思いが渦巻いた。彼女の仕草や表情に宿る葛藤が、夏輝の心に深く刻まれる。
「あの子は、何を抱えているんだろう」
夏輝は静かに呟いた。少女の震える指、助けを求めるような眼差し、そして最後の寂しげな表情。それらのすべてが、夏輝の脳裏で次々と蘇る。
風が吹き、木々がざわめく。その音が、少女の声にならない言葉のように聞こえた。
「僕に何かできることはないのかな」
その思いが、胸の奥で大きくなっていく。少女との距離は縮まったようで、まだ遠い。理解したいという気持ちと、踏み込んではいけない何かがあるという直感が、夏輝の中で衝突する。
夏輝は、自分の手のひらを見つめた。少女に触れることのできなかった手。その距離感が、二人の関係を象徴しているようだった。
「でも、きっとあの子の中で何かが変わり始めている」
その確信が、夏輝にここで諦めてはいけないと発破をかける。同時に、責任の重さも感じる。少女の心の扉を開こうとすることは、彼女の触れられたくない世界に足を踏み入れることでもある。
夏輝は空を見上げた。木々の間から覗く青空が、何かを語りかけているようだった。
「焦っちゃいけない、諦めちゃいけない」
自分に言い聞かせながら、夏輝はゆっくりと歩き始めた。夏輝の足取りは軽かった。少女の確かな変化を感じられたことで、彼の心は確かに前を向いていた。次に少女に会うとき、きっと新しい一歩を踏み出せる。そのような予感が、夏輝自身を包み込んでいた。
一箇月が経ち、夏輝は毎朝、変わらぬ思いで森を訪れていた。しかし、あの日以来、少女の姿を見ることはなかった。
最初の数日は、期待と希望に胸を膨らませながら森を歩いていた。木々の間から差し込む朝日が、少女の金茶色の髪を思い起こさせる。マリーゴールドの群生地に立ち寄るたびに、彼女の笑った顔を想像した。
一週間が過ぎ、二週間目に入る頃には、夏輝の足取りに僅かな重さが加わっていた。朝露に濡れた草花を見つめながら、「今日こそは」と自分に言い聞かせる。三週間目、森の様子が少しずつ変化し始めた。葉の色が僅かに濃くなり、風の音も深みを増してきた。夏の終わりが近づいているのを感じ、夏輝の心に焦りが芽生え始める。
「もう会えないのかな」
そのような思いが頭をよぎるたび、夏輝は首を振って否定をする。しかし、日が経つにつれ、不安は大きくなっていく。
四週間目、夏輝は早朝から日暮れまで森にいることが多くなった。木の根元に腰かけ、風の音に耳を澄ます。彼女の気配を必死に探ろうと試みる。しかし、森は静寂を保ったまま。夏輝の呼びかけに応えるものは、そこには何一つないのだった。
夕暮れ時、夏輝は森の入り口に佇んでいた。空は茜色に染まり、木々の影が長く伸びている。一月以上が過ぎたが、少女に会える気配は一向にない。夏輝の心は今にも折れてしまいそうになっていた。
「もう会えないのかな」
ふと呟いたその言葉に、胸が締め付けられる。しかし、同時に少女の面影が鮮明に蘇る。初めて出会った日の驚いた表情、マリーゴールドの花束を差し出したときの悲しげな瞳、そして最後に見せた寂しげな横顔。それらの記憶が、夏輝のもう一度少女に会いたいという思いを呼び起こす。
風が木々の間を吹き抜ける。その音に、より少女との記憶は鮮明になっていく。夏輝は目を閉じ、風音に耳を傾けた。
「もう一度君に会いたい。君の声が聞きたいな」
夏輝の中で少女への気持ちが膨らんでいく。会えない不安は大きいが、それ以上に会いたい気持ちが強くなっていた。可憐に咲き誇るマリーゴールドの花たちを思い出す。伏せた顔を上げると、夏輝は息を思い切り吸い込み、森に向かって声を張り上げた。
「必ず、必ずまた会いに来るよ」
その言葉が森全体に響き渡る。夏輝の声に呼応するように、風が強く吹いた。木々が大きくうねる。
「明日からまた、一から君を探し始めよう」
自分に言い聞かせながら、夏輝は森に背を向け家路についた。
第三章 少女の影
朝もやの立ち込める村の中で。夏輝は緊張した面持ちで歩を進めていた。森での決意から一夜が明け、彼の心は複雑な思いで揺れていた。
「もしかすると、村の誰かが知っているかもしれない」
自分に言い聞かせるように、言葉を吐く。その考えが頭をよぎる度、夏輝の胸が高鳴る。しかし同時に、見知った人であっても、人見知りの夏輝にとって、何かを尋ねるということに大きな不安が押し寄せてくる。夏輝は呼吸が浅くなることを感じ、深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせようとした。
村の広場に差し掛かると、朝の準備に忙しい人々の姿が目に入る。八百屋の主人が野菜を並べ、パン屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。日常の光景に、夏輝はますます緊張を覚えた。
「どうしよう。誰に聞けばいいんだろう」
躊躇する夏輝の目の前を、年配の女性が通り過ぎていく。その後ろ姿を見つめながら、夏輝は自分を奮い立たせた。
「ここで諦めたら、もう彼女に会えないかもしれない」
その思いが、夏輝の足を前に進ませる。震える手で肩をたたき、夏輝は精一杯の勇気を振り絞った。
「あの、すみません」
振り返る女性の目を見つめ、夏輝は言葉を続けた。
「森で出会った少女についてお聞きしたいんです。金茶色の髪で、年は僕と同じくらいなんです。森の中にあるマリーゴールドの咲いている場所にいて、優雅な姿が印象的だったんです」
女性は首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべた。
「金茶色の髪であなたと同じくらいの女の子。そんな子は見たことがないわね」
村で長年暮らす女性からの反応に、夏輝は言いようのない不安を覚えた。しかし、これが最初の一歩。たとえ今すぐに答えが得られなくても、この行動が何かに繋がると信じた。
「でも、その子が森にいるなら、何か特別な理由があるかもしれないわね」
女性は少し考え込んだ。
「最近、森では変わったことが起こっているという話も聞くわ。気をつけてね」
村が少しずつ目覚めていく。次こそは手がかりが得られるかもしれないと信じ、夏輝は勇気を出して次の一歩を踏み出す。
夏輝は村を歩き回り、出会う人ごとに少女のことを尋ねていった。パン屋の主人、郵便配達員、学校の先生。しかし、誰も金茶色の髪の少女を見たことがないと言う。
「そんな、誰も知らないなんて」
焦りが募る。太陽は高く昇り、夏輝の額に汗が滲む。
昼過ぎ、夏輝は村の広場のベンチに腰を下ろした。疲れと喪失感で肩を落とす。そんな彼の様子を見て、一人の老人が声をかけた。
「君、何か探しものかい」
老人の問いに、夏輝は力なく顔を上げた。
「はい。森で出会った少女のことを」
夏輝が説明を始めると、老人は目を細めて聞いていた。
「そうか。村人は誰も知らないと言っていたんだね」
夏輝が頷くと、老人は思案顔で続けた。
「実はね、私がまだ子供の頃に読んだ本に似たような少女が出てきたんだよ。森の精霊のことを書いた古い物語でね」
「本当ですか。その本、今でもありますか」
思わぬ情報に、夏輝の目が輝く。
「村の図書館にあったはずだよ。タイトルまでは忘れてしまったけどね」
夏輝は立ち上がり、老人に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。すぐに探してみます」
図書館に向かって走り出す夏輝。少女に必ず再会する。その思いが、彼を前へと駆り立てていく。
村の図書館が見えてきた。夏輝は粗い呼吸を整えることもなく、ドアに手をかけた。図書館の扉を開けると、埃っぽい空気が夏輝を包み込んだ。古い木の匂いと紙の香りが鼻をくすぐる。
「おっ、夏輝君か。珍しいね」
いかにも博識そうな顔立ちをした司書が声をかけてくる。
「おじさん、ちょっと探し物をしていて。森の精霊について書かれた本なんですけど」
「そんな本あったかな。うちは蔵書数だけは多いから、ゆっくり探してみなさい」
夏輝は司書に会釈をし、棚を一つずつ丁寧に見ていくことにした。しかし、タイトルがわからないため、目的の書籍を探すことに難航した。
「これかな。いや、違うな。こっちかもしれない。いや、これも違うのか」
時間が経つにつれ、夏輝の動きは焦りを帯びてきた。本を手に取っては戻し、また別の本を引っ張り出す。
「もう、どこにあるんだよ」
苛立ちを抑えきれず、夏輝は呟いた。図書館の静寂の中、その声が響き渡る。慌てて周りを見回すが、幸い他の利用者はいないようだった。汗ばんだ額を袖で拭いながら、夏輝は深いため息をついた。
「こんなはずじゃなかったのに」
しかし、諦めるわけにはいかない。少女との再会を願う気持ちが、疲れ切った夏輝の体を支えていた。
「もう一度、最初から探してみよう」
夏輝は再び書架に向かった。指で本の背表紙を一冊ずつなぞりながら、丁寧に確認していく。
夕暮れが近づき、図書館内が薄暗くなってきた。集中力も途切れがちになっていたが、夏輝は粘り強く探し続けた。
「きっとここに手がかりがあるはずなんだ。絶対に見つけてみせる」
たとえ今日見つからなくても、明日また来ればいい。そう思いながら、夏輝は最後の書物に手をかけた。ここに手がかりがなければ、何も得られるものがなく帰路につかなければならない。祈るような思いで、夏輝は書物を見つめた。余りに古い本のようで、背表紙は掠れ、タイトルの文字は読めない。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、夏輝はゆっくりと書架から抜き出し、ページを開いた。
薄暗い図書館の中、本から立ち上る古い紙の香りが夏輝の鼻をくすぐる。未だ目的の内容は見つからないが、なぜだか夏輝はこの本に魅かれていた。そして、目当ての章に辿り着く。「森を守護する者」、その文字に夏輝は息を呑んだ。そこには、彼の探していた答えがあった。
「太古の昔より、この地の森には神秘的な存在が宿るという。金色の髪を持つ少女の姿をした精霊は、森と人々を守護する者とされる」
夏輝の目が輝いた。髪色こそ少し違いはあれど、森であった少女そのものの挿絵だったのだ。
「しかし、その姿を見ることができるのは、純粋な心を持つ者のみ。精霊は常に森の中心から俯瞰し、森の様子を見守っている」
夏輝は時間も忘れ、本の世界に没頭していった。ページをめくるたび、森の精霊の物語が鮮明に脳裏に浮かぶ。
「精霊の力は森全体に及び、木々や花々、小川までもが精霊の意思によって動くという。しかし、その力ゆえに、精霊は孤独な存在でもある」
その言葉に、夏輝は胸が締め付けられる思いがした。少女の寂しげな表情が蘇る。
「精霊と心を通わせることができた者は、未だおらず。伝承の中でのみ生き続けるのだ」
夏輝は少女の存在が森の精霊だと確信した。同時に、彼女が孤独な存在であることに、とてつもない悲しみが溢れてきた。
「僕が、彼女の傍にいてあげたい」
外は既に暗くなっていた。夏輝の心には新たな決意が芽生え、使命感に燃えて夜の闇に包まれた村を歩きながら、頭の中では図書館で読んだ本の内容が次々と蘇る。
「森の精霊」
その言葉を何度も反芻しながら、夏輝は家路を急いだ。
家に着くと、すぐさま明日の準備に取り掛かった。リュックに水筒、懐中電灯、そして念のために軽食も詰め込む。一つ一つの道具を丁寧に確認しながら、夏輝の心は少女のことで一杯になっていく。
「彼女は本当に森の精霊なのかな」
マリーゴールドの花束を差し出したときの少女の驚いた表情、悲しげな瞳が鮮明に蘇ってくる。去り際に見せた表情から読み取れる深い孤独感。今となっては、その理由が少し分かるような気がした。
コンパスを手に取りながら、夏輝は少女の金茶色の髪を思い出す。風に揺れるその髪は、まるで森の木々のようだった。準備を進めながらも、胸の高鳴りは収まらない。明日、再び森に入り、少女。いや、森の精霊に会えるかもしれない。その期待と不安が入り混じる感情が、夏輝の全身を駆け巡る。
準備を終えた夏輝は、窓から夜空を見上げた。星々が瞬く空の下、彼女は森の中でどうしているのだろうか。どのような思いでいるのだろうか。
「明日こそは」
夏輝は決意を口にし、ベッドに横たわった。閉じた瞼の裏に、少女の微笑む顔が浮かぶ。明日への期待を胸に、夏輝はゆっくりと微睡みの中に落ちた。
夜明け前、村はまだ眠っている。夏輝は、靴音を立てないよう気をつけながら、慎重に家を出る。昨夜準備したリュックを背負い、森へと向かった。薄暮の中、村の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。普段なら人々の活動が始まる時間だが、今日は不思議なほど静かだ。
小道に差し掛かると、夏輝は思いを巡らせた。以前は何気なく歩いていたこの道が、今は別世界への入り口のように感じられる。足元の小石を踏みしめる感触も、今までとは違って新鮮だ。朝露に濡れた草の香りが鼻をくすぐる。
「早く会いたいな」
夏輝は小さく呟いた。遠くに森の輪郭が見え始めた。木々の緑が、朝もやの中でぼんやりと浮かび上がってくる。夏輝の歩みが少し速くなる。
リュックの重みが、背中にずっしりと圧し掛かる。少女との再会に期待を抱きながらも、心のどこかでは、今日も会えなかったらという思いを抱えていた。自分でも気付いていないわずかな不安が、夏輝の両肩に与えた重みだったのかもしれない。
森の入り口が近づくにつれ、夏輝は自然と緊張していく。今日、何かが変わるかもしれない。村の少女と思って接していたこれまでと、森の精霊と思って接するこれから。どのように変化するかは未知だが、その関係が変わっていくことは疑いようもなかった。
森の入り口に立つと、これまでとは明らかに異なる感覚に襲われる。まるで、異世界に足を踏み入れたかのような異質なものだった。木々の葉が織りなす天蓋が、これまでよりも濃く、光を拒むかのように遮っていた。薄暗い森の中で、夏輝の目は少しずつ周囲の環境に慣れていく。
足元に生えている草が、いつもより生き生きとしているように見える。踏み出す度に、草が夏輝の足に絡みつくような錯覚を覚えた。
「なんだか、森全体が生きているみたいだ」
進むにつれ、以前と木々の配置が変わっていることに気付いた。いつも通っていた道筋が、どこかずれているような違和感。方向感覚が狂いそうになる。
風が吹くと、木々のざわめきまで、これまでとは違う音色を奏でる。森全体が、夏輝を拒んでいる。そのように感じられる。
「彼女の力なのか。どれだけ拒まれたとしても、僕はもう一度君に会わないといけないんだ」
その言葉を口にした瞬間、周囲の空気が一瞬凍りついたように感じた。見たこともない花々が目に入る。鮮やかな色彩を放つそれらは、夏輝の目を釘付けにした。思わず手を伸ばしかけたが、直前で思いとどまる。
「触れちゃいけない気がする」
視線を森の奥に戻すと、再び歩を進める。木々の間から少しずつ光が漏れだす。木漏れ日が朝露に当たり乱反射することで、幻想的な雰囲気を醸し出している。影が揺らめくたびに、少女の姿を探してしまう。しかし、少女の気配はまだない。それでも、森全体が彼女の存在を匂わせているような感覚に包まれる。
夏輝は立ち止まり、周囲を見回した。見慣れたはずの森が、全く別の顔を見せている。この変化した森の中で、少女との再会がどのような形で訪れるのか。夏輝の心中は複雑だった。
夏輝は変わらず森の奥へと進み続る。木々の間から漏れる光が作り出す影が、時折少女の姿に見え、その度に心臓が高鳴り、足を速める。
「あっ」
金茶色の髪が風になびくのが見えた気がした。夏輝は駆け出す。しかし、辿り着いた先には何もなかった。木の枝が風に揺れていただけだった。
「またか」
肩を落とす夏輝。これで何度目だろう。期待と失望を繰り返すうちに、疲労の色が濃くなっていく。時間の感覚が曖昧になってきた。どれくらい歩いただろうか。太陽の位置も、木々に遮られてよく分からない。
「ここ、さっきも来たような気がする」
木々が鬱蒼と茂っており、同じような景色を繰り返す。夏輝は頭を抱えた。方向感覚が完全に狂っている。疲労の蓄積からか、喉の渇きを感じる。水筒を取り出し、一口飲む。水の冷たさが、わずかに気力を取り戻させる。
「もう少し、もう少しだけ」
自分に言い聞かせるように呟く。しかし、その声には以前ほどの力強さがない。再び歩き出すが、足取りは重い。視界がぼやける。それでも、諦めきれない。
「どこにいるの」
弱々しい声が、森に吸い込まれていく。
突然、風が強く吹いた。夏輝の髪が乱れる。目を細めると、風に乗って花びらが舞っているのが見えた。マリーゴールドだ。一瞬の希望が胸を躍らせる。しかし、花びらは風と共に消えていった。
夏輝はその場にへたり込んだ。疲労と失望感が一気に押し寄せる。
「もう、だめなのかな」
目の前が暗くなり、意識が遠のいてゆく。夏輝の意識が薄れていく中、かすかに誰かの気配を感じた気がした。
しばらくして、気を失っていた夏輝の目が徐々に開く。頭上に広がる木々の葉が、風に揺れている。体を起こすと、自分が気を失い横たわっていたことに気づく。頭の下には、柔らかな木の葉が敷かれていた。
「ここは。僕は、気を失ってしまったのか」
周囲を見回すと、どこか見覚えのある景色。そう、これは少女と初めて出会った場所だ。夏輝の心臓が高鳴る。誰かが自分を介抱してくれたのは明らかだ。状況から見て、介抱した人物は少女の可能性が高かった。
「君が、僕を助けてくれたの」
夏輝は立ち上がり、周囲を見渡した。少女の姿はないが、確かにここにいた気配を感じる。
「見守ってくれていたんだね」
その思いが、疲れ切った体に活力を与える。夏輝は再び森の中へと歩み出した。
「どこにいるの。姿を見せてよ」
声を張り上げながら、夏輝は森を進んでいく。時折立ち止まっては耳を澄ましてみるが、返事が返って来る気配はない。
時間が経つに連れ、最初の高揚感が徐々に薄れていく。足取りも重くなり、喉の渇きが再び襲ってくる。
「もしかして、僕を避けているのかな」
そのような考えが頭をよぎると、胸が締め付けられる。
日が傾き始め、森に薄暗さが広がってきた。夏輝は大きな木の根元に腰を下ろす。疲労と挫折感が押し寄せてくる。
「どうして会えないんだろう」
夏輝は空を見上げた。木々の間から見える夕焼けが、彼の心に寂しさを運んでくる。それでも、諦めきれない。夏輝は再び立ち上がるが、足元が覚束ない。夏輝はその場に座り込み、首を垂れた。
「これだけ探しても会えないなんて。今日は、もう帰ろう」
悲壮感漂う夏輝の姿が、夕陽に照らされ影となって地面に落とされていた。
森の外に出ると、夏輝は振り返ることなくゆっくりと家路についた。一日中探し回ったにもかかわらず、少女の姿を見ることはできなかったからだ。
「本当に、ここにいたんだよね。気配は確かに感じたのに、姿を見ることができないなんて」
村への帰り道、夏輝は鈍い頭で、精一杯一日の出来事を振り返る。森を駆け回った高揚感、池のほとりで目覚めたときの期待感。そして徐々に押し寄せてきた失望感。感情の起伏が激しかった一日だった。
「何が悪かったんだろう。知らないうちに、またあの子を不安にさせていたのかな」
自問自答を繰り返す。もしかしたら、もっと静かに、穏やかに探せばよかったのかもしれない。焦りすぎて、少女を怖がらせてしまったのではないか。その後悔が胸に刺さる。
ふと、鉢植えにされたマリーゴールドが目に入った。立ち止まり、その花を見つめる。
「君は、僕に何を伝えたかったんだろう」
家々の明かりが夜の闇に温かく灯っている。しかし、その光は今の夏輝には遠いものに感じられた。
自宅に着くと、夏輝は静かにドアを開けた。家の中は静まり返っている。心の中には失望感が広がり、疲れ切った体が重く感じられた。食事も取らず、そのまま自分の部屋へ向かう。ベッドに横たわると、目を閉じても少女の姿は浮かばない。ただ、心にぽっかりと空いた穴だけが存在する。
「今日は、もう疲れた。寝よう」
夏輝はゆっくりと眠りについた。夢の中でも彼女には会えない気がして、不安な気持ちだけが心に残っていた。
朝日が窓から差し込み、夏輝の瞼を照らす。目を開けたものの、体は重く、ベッドから起き上がる気力が湧いてこない。天井を見つめながら、脳裏に昨日の出来事が次々と蘇ってくる。
「会えなかったな」
ふと口をついたその言葉に、思わず涙が溢れる。慌てて枕に顔を埋めると、抑えていた感情が一気に溢れ出した。
「どうして、どうして姿を見せてくれないんだ」
声を押し殺しながら、夏輝は泣いた。悔しさと寂しさが入り混じる複雑な感情に、しばらくの間身を任せる。
やがて、涙が収まってくると、不思議と心が少し軽くなったような気がした。夏輝はゆっくりと体を起こし、赤く充血した目を擦りながら窓の外を見る。いつもと変わらない村の風景が広がっている。
「もう一度、もう一度村の人たちに聞いてみよう」
絶望に打ちひしがれながらも、心の奥底では少女を諦めるなどということができるはずがなかった。夏輝は、図書館で読んだ伝承のことを思い出し、もしかしたら誰か知っている人がいるかもしれない。その可能性にすがる思いで着替え始めた。
最初に向かったのは、村の広場だった。朝の市場で買い物をする人々に、夏輝は恐る恐る声をかける。
「すみません、森の精霊に関する伝承について何か知りませんか」
しかし、返ってくる答えは首を傾げるだけか、
「そんな話は聞いたことがない」
という言葉ばかり。落胆しながらも、夏輝は諦めずに聞き込みを続けた。
村中を歩き回り、出会う人ごとに尋ねていく。しかし、新しい情報は得られない。それでも、夏輝は粘り強く、少女の痕跡を探し続けた。
日が傾き、疲れ切った夏輝は村はずれの古井戸のそばで休んでいた。一日中聞き込みを続けたが、有力な情報が得られることはなかった。
「もう、帰ろうかな。でも、もう一人だけ」
目の前を中年の男性が通る。最後の力を振り絞り、夏輝は声をかけた。
「すいません、森の精霊に関する伝承を知りませんか」
図書館で目を通した本の内容を、身振り手振りを交えながら必死に説明する。
「森の精霊に関係があるかは知らんが、昔俺のばあちゃんから聞いた言い伝えがある。自然に問いかければ、時として答えが返ってくるってな」
夏輝は目を見開いた。
「自然に、問いかける」
「そうだ。花や鳥、草木や風にな。心を澄ませて耳を傾ければ、何か教えてくれるかもしれないぜ」
男性の言葉に、夏輝の心が躍った。これまで誰からも聞いたことのない情報だった。
「ありがとうございます」
夏輝は深々と頭を下げ、急いで家路についた。
「今度こそ、きっと」
ベッドに横たわりながら、夏輝は明日の行動を思い描いた。花々に語りかけ、風の音に耳を傾け、小鳥のさえずりに耳を澄ます。そのような自分の姿を想像すると、少し照れくさい気持ちになった。
それでも、この新しい方法で少女に近づけるかもしれない。その期待が、夏輝の胸を弾ませる。明日への期待に胸を膨らませながら、彼はゆっくりと眠りについていった。
目を覚ますと早々に支度をし、夏輝は意気揚々と森に足を踏み入れた。
「よし、やってみよう」
最初に語り掛けたのは、森の入り口に立つ若い木だ。夏輝は木に向かって小さな声で話しかけた。
「あの、金茶色の髪をした女の子なんだけど見たことないかな」
言葉が途切れる。自分の行動が突飛に思え、頬が熱くなる。しかし、返事はない。諦めずに歩を進める夏輝。今度は大きな樫の木の前で立ち止まった。
「ねえ、聞こえる。女の子のことを教えて欲しいんだ」
木の葉がそよぐ音がしたが、何らかの返答だと思いたいが、おそらくは風のせいだろう。夏輝は少し落胆しつつも、小川のせせらぎに耳を傾け、飛び交う蝶を追いかけ、空を舞う鳥たちに呼びかける。しかし、誰も夏輝の問いかけに応えてはくれない。
時間が経つにつれ、最初の恥ずかしさは薄れていった。代わりに、純粋な思いが溢れ出す。
「お願い、彼女に会いたいんだ。どうしたらいいかな」
夏輝の声には切実さが滲んでいた。
陽が高くなり、汗が滲み出てくる。それでも夏輝は、一本の草、一枚の葉っぱにも丁寧に語りかける。自然からの返答は未だ返ってこないが、どこかで誰かが聞いてくれているような気がしていた。
しばらく森の中を歩き続けたが、自然に語りかけても返事はない。しかし、どこかで誰かに見守られているような気がしてならない。木々のざわめきや鳥の囀りに、いつもより優しさを感じられる。
「この違和感は何だろう」
夏輝は、不思議な感覚がどこから来るものなのか考えた。ふと足を止めると、森の奥から微かな気配を感じる。その方向へと歩みを進めてみる。進み続けると、小さな開けた場所に出た。そこには、誰かがいた痕跡が残っていた。生い茂る草が、まるで道を作ったかのように左右に割れている。
「ここにいたんだ」
夏輝はじっとその方向を見つめた。少女がここにいたのだと確信したが、その姿はどこにも見えない。焦りが胸を締め付ける。再び立ち上がり、周囲を見渡すが、人影はどこにもない。少女の気配は確かに感じるのに、手が届かないもどかしさが募る。
再び歩き出し、森の中を探し回る。自然に語り掛けるということも忘れ、自然と歩調が速くなる。夏輝は立ち止まり、目を閉じて心を落ち着けようとするが、焦燥感は消えない。日が傾き、森に再び薄暗さが広がっていく。夏輝は疲れ果てた体を引きずるようにして、その場に座り込んだ。
「もう少しだけ、もう少しだけ」
自分に言い聞かせるように呟いたが、夏輝の体は動かない。夏輝はまだその場に座り込んだまま身動きが取れない。心は前に進みたいと叫んでいるにもかかわらず、疲れ果てた体は一向に動こうとはしなかった。期待と希望に満ちていた朝の気持ちが、徐々に空虚なものに変わっていく。森の静けさが、夏輝の孤独をいっそう際立たせる。木々のざわめきも、鳥の囀りも、もはや聞こえない。ただ、自分の鼓動だけが耳に響く。
「少し、疲れたな。ちょっとだけ、休もうかな」
消え入りそうなくらい小さな声で呟く。その言葉を発しながら、夏輝の体はゆっくりと地面に倒れた。早朝から森の中を歩き回り、彼の体力は限界だったのだ。ふと風が吹き、夏輝の頬を撫でる。まるで誰かが優しく触れているかのような感覚に、夏輝は目を閉じた。
第四章 夏輝の願い
辺り一面を冷たい空気が覆う。眠ってしまっていた夏輝の目が徐々に開くと、辺りはすっかり暗くなっていた。微弱な月明かりだけが森を照らしている。体を起こそうとするが、自分の体ではないような感覚に襲われる。
「ここで寝てしまったのか」
ゆっくりと立ち上がる。頭がくらくらし、一瞬視界が歪む。体力は少し回復したようだが、気力は戻りきってはいなかった。夜の森は昼間とは全く違う顔を見せている。木々の影が不気味に揺れ、どこからともなく聞こえる動物の鳴き声が、夏輝の心臓を早鐘のように打たせる。
「帰らなきゃ」
そう思いながらも、ここまで来て諦めるわけにはいかないという気持ちもある。その思いが、疲労困憊の体を前へと押し進める。ふらつく足取りで森の中を進む。月明かりを頼りに、何度も躓きながら歩を進めていく。汗が目に入り、視界がぼやけるが、それでも夏輝は歩み続けた。
やがて、見慣れた開けた場所に出た。そこには、月光に照らされたマリーゴールドの群生地が広がっていた。どうやら、奥に進んでいたはずが元の道に戻っていたようだ。マリーゴールドの黄金色の花びらが、夜の闇の中で幻想的に輝いている。夏輝は息を呑んだ。疲れも忘れ、その美しさに見とれる。しかし、すぐに現実に引き戻される。体の疲労が一気に押し寄せ、膝から崩れ落ちそうになる。
「そうか、ここは最初にあの子に出会った場所だ」
震える手で額の汗を拭う。深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせると、マリーゴールドの前にしゃがみ込んだ。花に向かって口を開こうとするが、言葉が出てこない。喉が乾き、舌がもつれる。
「お願いだ」
やっとの思いで、か細い声を絞り出す。
「彼女のことを教えて欲しいんだ」
夏輝の精一杯の言葉が、夜の森に溶ける。マリーゴールドの花びらは、ただ月明かりに照らされて揺れているだけで、静寂が空間を支配する。。
「やっぱり、だめなのか」
肩を落とし、夏輝は地面に座り込んだ。その時、風が無いにもかかわらず、マリーゴールドの花が大きく揺れた。夏輝は顔を上げ、不思議そうに花を見つめる。
「夏輝ちゃん、ようやく私たちに話しかけてくれたね」
優しい声が聞こえた。夏輝は驚いて周りを見回すが、誰もいない。
「あなたが話しかけたのでしょう。私は、あなたの目の前にあるマリーゴールドよ」
夏輝は目を見開いた。伝承を信じて語り掛けたのは、紛れもなく自分自身だ。しかし、実際に返事が返ってくると思考が停止してしまう。目を擦りながら、もう一度マリーゴールドの方をじっと見る。
「あなたの思い、しっかり私たちに届いたわ。あの子と出会ったときから、私たちずっと見ていたわ。あなたの純粋な気持ち、一生懸命な姿に心を打たれたの」
マリーゴールドの言葉に、夏輝は自分の行動が無駄ではなかったと安堵する。
「彼女のこと、教えてくれるかな」
「あの子は特別な存在よ。でも、あなたの思いは確かに届いているわ。私たちが呼んであげてもいいよ。でも、会えるかどうかは分からない。それでもいい」
夏輝の心臓が高鳴る。追い求めてきた少女の幻影。手を伸ばせば届きそうなところまで辿り着いたことに、夏輝の期待は否が応でも高まってしまう。夏輝は迷わず頷いた。
「お願い。どうか、彼女に会わせて」
マリーゴールドの花びらが、月明かりに輝きながらゆっくりと揺れる。
「分かったわ。あの子を呼んであげる」
マリーゴールドの花弁が夜風に乗って舞っていく。森全体が息を潜めたかのように静まり返る。夏輝は息を殺し、周囲の変化を見守った。すると、突如、目の前のマリーゴールドが淡く光り始めた。その光は徐々に強くなり、やがて周囲の花々にも伝播していく。夜が更けた森の中、夏輝の目の前で、黄金の光が海のように広がっていった。その動きは波のようにうねり、やがて一点に集中していく。夏輝は息を呑んで、その光景を見つめていた。
光の渦が形成され、その中心から何かが現れ始める。最初は小さな粒のようだったものが、徐々に人型を形成していく。夏輝の心臓が激しく鼓動を打つ。目の前で起こっている現象が、現実なのか夢なのか判断がつかない。唖然とする夏輝の前に、やがて一人の少女の姿が浮かび上がった。金茶色の髪が月明かりに輝き、透き通るような肌が淡い光を放っている。夏輝が探し求めていた少女だった。
少女は地面に足をつけ、ゆっくりと目を開いた。その瞳はすべてを見透かすかのように、非常に澄んだものだった。夏輝は言葉を失い、ただ呆然と少女を見つめる。喜びと驚き、そして少しの畏怖が入り混じった複雑な感情が胸を満たす。少女は夏輝をじっと見つめ返した。その表情からは、彼女の感情を読み取ることはできない。まさに、無と言わざるを得なかった。夏輝が何か言葉を発しようとしたその時、少女が口を開いた。
「よく今まで、諦めずにきましたね」
目の前の少女から発せられた声は、見た目の幼さ通り、耳なじみの良い高い発声だった。しかし、その中にも、落ち着いた深みのある声色だった。初めて聞く少女の声に、夏輝は舞い上がった。突然のその言葉に、込められた意味を理解しようと必死になった。
少女の姿は実体があるようで、同時に透明感がある。その存在自体が、現実と幻想の境界線上にあるかのようだ。夏輝は、目の前の光景が夢ではないことを確認するように、何度も目を擦った。マリーゴールドの花々は、まだ淡く光を放ち続けている。その光が、夏輝と少女を優しく包み込んだ。二人の間に、しばらくの沈黙が流れた。
夏輝の頭の中で少女の言葉が反芻される。「よく諦めずにきましたね」という言葉の意味を理解した瞬間、夏輝の目に光が宿った。
「うん。何度も諦めそうになったけど、何とか辿り着いたよ。諦められるわけないじゃないか。君は、君はこの森の精霊なのかな」
夏輝の声は震えていた。体を前のめりにし、じっと少女の返答を待つ。少女はゆっくりと目を閉じ、再び開いた。木々の隙間から覗く夜空を見つめるその瞳には、星々が映り込んでいるかのような深い輝きがあった。
「その通りです。私はこの森を守護するマリーゴールドの精霊です。私たちは、この森の調和を保ち、生命の循環を見守っているのです」
その声には、森を守護することへの誇りが滲んでいた。しかし同時に、何か言い難い寂しさも感じられた。少女の表情が複雑に変化する。何か抑え込んでいるような感情が入り混じっていた。
少女の様子を気にかけながらも、夏輝の中で、驚きと喜びが入り混じる。目の前にいる少女が、本当に伝承にある森の精霊だと知り、言葉が出てこない。夏輝は思わず手を伸ばしかけたが、途中で止めた。触れてしまえば、幻のように消えてしまうのではないかという恐れがよぎったからだ。
「君が、本当に森の精霊なんだ。信じられない。でも、やっぱりそうだったんだね」
夏輝の目に自然と涙が浮かぶ。探し求めていた存在が、ここにいる。その事実に、胸が熱くなる。
「ずっと、ずっと会いたかったんだ。あの日から、君のことばかり考えていた。村の人に聞いて、図書館で伝承のことを知って、もしかしたらって思ったんだ。でも、本当に会えるなんて」
言葉が溢れ出す。夏輝は照れくさそうにしながらも、真っすぐに少女を見つめていた。
夏輝の言葉を聞いた少女は、ゆっくりと口を開いた。
「私に話したいことがたくさんあるのでしょう。この先の森の奥に、月明かりが差し込む美しい池があります。そこで話をしませんか」
夏輝が頷くと、少女は背中を向け、光の粒子となって消えていった。一瞬の出来事に驚きながらも、夏輝は言われた方向へ歩き始めた。
森の中を進みながら、夏輝の頭の中では様々な思いが巡る。初めて少女を見た日のこと、必死に探し続けた日々、そして今この瞬間まで。
「そうだ、謝らなきゃ」
夏輝はふいに呟いた。初めて会った日、質問を繰り返して少女を怖がらせてしまったこと。そして、大切なマリーゴールドの花を摘んでしまったこと。それらの記憶が鮮明によみがえる。
「きちんと謝らないといけないよな。そして、自分の気持ちもはっきり伝えよう」
そう決意した夏輝は、木々の間から漏れる月明かりを頼りに、池を目指す。道中、夏輝は自分の言葉を慎重に選んでいた。今までと違い、少女が自分の話を聞くと言ってくれた。その思いに応えなければいけない。夏輝は素直にそう思った。
「僕は君に会いたくて、ずっと探し続けたんだ。それだけは変わらない」
期待と不安が入り混じる中、池の輪郭が見えてきた。水面に映る月の姿が、より一層森の神秘性に磨きをかける。そこには、既に少女の姿があった。夏輝は逸る気持ちを落ち着け、ゆっくりと少女に近づいていく。
夏輝が池のほとりに辿り着くと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。月光に照らされた水面が乱反射し、銀色の輝きを放つ。この光が森全体を包み込んでいる。地面を見ると、木々の葉が風に揺れるたび、光と影が交互に入れ替わる。この空間だけ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
池の縁に佇む少女の姿が、夏輝の目に飛び込んでくる。彼女の金茶色の髪が月光を受け、まるで金糸のように輝いている。絵画から抜け出してきたかのような美しさという表現は、まさにこの光景を表すためにあるのだろう。少女は池の水面を見つめたまま、静かに立ち尽くしている。その横顔には、言い難い哀愁が漂っているように見えた。夏輝は、声をかけようとしたが、この神秘的な瞬間を壊したくない気持ちに駆られ、言葉を飲み込んだ。
少女の足元で、蛍が数匹ゆっくりと舞い始めた。その淡い光の玉が、少女の姿をより一層神秘的に彩る。夏輝は、まるで時が止まったかのような感覚に陥る。夏輝は、息を殺して立ち尽くしたまま、この光景を心に焼き付けようとしていた。言葉を交わさずとも、この瞬間が既に特別なものに感じられた。しかし、いつまでもこのままではいられない。夏輝は意を決し、少女のもとに歩みよった。
夏輝はゆっくりと少女に近づいた。足音を立てないように気をつければ、余計に心臓の鼓動が耳に響く。
「あの」
夏輝の声に、少女はゆっくりと振り向いた。真っ直ぐに夏輝を見つめるその瞳に、一瞬言葉を失ってしまう。しかし、すぐに気持ちを取り戻した。夏輝は真剣な表情で言葉を続ける。
「まず、謝らせて欲しいんだ。初めて会った時、突然声をかけられて驚いたと思う。それだけじゃなく、いくつも質問を重ねて君を怖がらせてしまった。大切なマリーゴールドの花を摘んでしまったことも後悔しているんだ。本当にごめん」
言葉を選びながら話す夏輝だったが、次第に感情が溢れ出してくる。
「去り際に見せた君の寂しそうな表情が忘れられなくて。毎日のように森に来て、君を探し続けたんだ。最初は君のことを村の子だと思ってさ、村の人たちに聞いてみたんだ。それでも何も分からなくて、図書館で伝承を調べたりもしたんだ。途中で、本当にもうだめかもって思ったよ。でも、どうしても君のことが諦められなかったんだ」
少女は何を言うわけでもなく静かに聞いている。時折目を瞑り、試案に耽る様子が見られるが、その表情からは何も読み取れないが、夏輝は構わず話し続けた。
「君に会いたくて、話したくて、それだけで毎日頑張れたんだ。君が森の精霊だって分かった今も、僕の気持ちは変わらない。むしろ、もっと強くなった」
言葉が次々と溢れ出す。自分の思いを曝け出し、頬が熱くなるのを感じる。夏輝は一瞬言葉を切り、勇気を振り絞る。
「君のことが好きなんだ」
告白の言葉が、夜の静寂を破る。
「人間と精霊じゃ、難しいこともあるかもしれない。でも、僕は諦めたくない。君とずっと一緒にいたいんだよ」
言葉にならない感情が胸の中で渦巻いている。最後の言葉を絞り出すと、夏輝は息を呑んで少女の反応を待った。月明かりに照らされた二人の姿が、水面に揺らめいている。
少女は、夏輝の告白を聞き終えると、ゆっくりと目を閉じた。その長い睫毛が、頬に柔らかな影を落とす。夏輝は息を殺し、少女の反応を待つ。そして、少女の唇が微かに動いた。それは、ほんの僅かな変化だったが、夏輝の目には鮮明に映った。少女の口元が、徐々に弧を描き始める。やがて、少女の顔全体が柔らかな表情に包まれた。それは、夏輝がこれまで見たことのない、美しい笑顔だった。
月光が、少女の顔を照らし出す。初めて見る屈託のない笑みに、夏輝は心を奪われた。まるで、時が止まったかのように感じた。視界に移るすべてが、今までよりも色鮮やかに見える。池の周りに咲く花々が、輝きを増し、蛍たちも少女の周りを優雅に舞う。その光景をより幻想的なものに引き立てていく。
夏輝は、少女の笑顔に込められた意味を理解しようと、必死に心を落ち着かせようとする。しかし、その美しさに圧倒され、思考が停止してしまう。やがて、少女はゆっくりと目を開いた。先刻の会話のときのような、すべてを見透かした深い瞳はそこにはなかった。見た目相応の、柔らかな笑みを浮かべた、あどけない少女がそこにいるだけだ。
少女は、柔らかな笑顔を浮かべたまま、静かに口を開いた。
「夏輝くん。あなたの気持ち、しっかり伝わったわ」
微風のように優しいその声が、夏輝の耳を擽る。口調も精霊として話していた硬いものではなくなり、一人の少女として夏輝と向き合おうという気持ちが表れていた。
「実は、私もあなたのことが忘れられなかったの。最初に会った日から、ずっと気になっていたわ。もちろん、あの質問攻めには驚いたし、マリーゴールドの花を摘んでしまったのは悲しかったわ。でも、私に真っすぐ向き合おうとする気持ちに、嘘はないと思ってた」
マリーの瞳が、月明かりに輝く。
「でも、私には森を守る使命があって、人間と関わることは許されないと思ってた。人間の目に触れることなく、静かに森を守護することが、私たちに課せられた使命なの」
彼女の表情に、一瞬の翳りが過過る。しかし、すぐに表情を戻し、マリーは少し顔を赤らめ、続けた。
「それでも、あなたが諦めずに探し続けてくれたこと、とても嬉しかったわ。私の名前は、マリー。マリーゴールドのマリー。夏輝君は言ったよね。人間と精霊の関係は難しいかもしれないって。私もそう思う。でも、あなたの純粋な気持ちに、私も応えたいと思ってる」
精霊としての言葉から、いつしか本来の少女マリーとしての言葉遣いになっている。マリーは夏輝に一歩近づいた。
「これからどうなるか分からないけど、私と一緒にいてくれる」
ようやく、夏輝の思いは実った。マリー言葉に、涙が浮かぶ。
「うん、一緒に歩んでいこう」
夏輝が答えると、二人の周りで蛍が舞い上がった。その光が、二人の新たな出発を祝福しているかのようだった。夏輝とマリーは、互いに微笑みを交わし、手を取り合った。人間と精霊という壁を越えて、新たな物語が始まろうとしていた。森の奥深くで、ゆっくりと夜が明けていく。新しい朝の光が、二人を照らし始めていた。
第五章 伝心
夜が明け始め、東の空が薄紅色に染まっていく。池の水面に朝日が差し込み、光の粒子たちが水面で乱反射をする。周囲が輝く様子は、夏輝の心を映し出しているようだった。夏輝とマリーは、その美しい光景を見つめながら、互いの手をしっかりと握り締めていた。
「僕、ずっとマリーと一緒にいたい」
マリーは夏輝の真剣な眼差しと突然の言葉に、少し驚いたような表情を浮かべる。しかし、すぐに目を細めて微笑む。
「私も、夏輝くんとずっと一緒にいたい」
ただ、互いに一緒にいたいという幼さの残る純粋な気持ちの表現だったが、その真っすぐな表現ゆえに、通じ合っているという感覚が生まれる。
「僕、これからも毎日会いに来るよ。マリーに会って、顔を見て、いろんな話をして。もっと君のことを知っていきたいんだ」
夏輝の言葉に、マリーの頬が空と同じ薄紅色に染まる。
「私も、夏輝くんに会えるのを楽しみにしてる。あなたが来るたび、この森全体が喜んでいるの。きっと、夏輝くんの純粋な思いに振れたからなんでしょうね」
マリーの言葉に、周囲の木々が風もないのに揺れ、その葉が優しい音を立てる。池の水面に映る朝日が、次第に強くなっていく。その光が二人を包み込み、まるで金色のベールのように輝いていた。
「マリー、約束するよ。どんなことがあっても、僕たちはずっと一緒だって」
夏輝が小指を立てる。マリーも、少し戸惑いながらも小指を立てた。
「約束よ、夏輝くん。私たち、ずっと一緒」
二人の指が絡み合う。擦れ違っていた二人の気持ちが重なり合い、純粋な愛の誓いが立てられた。
二人の誓いが立てられると、森全体が息を呑んだかのように静まり返った。次の瞬間、周囲の木々や草花が一斉に輝き始める。
「あの子たち」
マリーが驚きの声を上げる。光の粒子が空中に舞い上がり、ゆっくりと形を成していく。そこには、様々な姿をした精霊たちが現れていた。花の精霊、木の精霊、風の精霊。それぞれが輝きを放ち、夏輝とマリーを取り囲むように集まってきた。
「みんな」
マリーが精霊たちに声をかける。最初に声を上げたのは、年老いた樫の木の精霊だった。
「マリー、私たちは君が生まれてから、ずっと君のことを心配していた。森の使命にとらわれて、誰とも交流しようとしなかったのだからね。だが、こうやって晴れやかな君の顔を見ていると、長生きして良かったと感じるわい」
続けて、可憐な湖の精霊、やんちゃな風の精霊が話しかける。
「マリーちゃんが、人間の少年と結ばれるとは思わなかったわ。でも、あなたの幸せそうな顔を見れば、それが正しい選択だったのかも知れないわね」
「まさか、マリーが心を開くとはね。君の純粋な心が、マリーを変えたんだ。僕らも君を受け入れてあげるよ」
夏輝は圧倒されながらも、精霊たちに感謝した。
「ありがとうございます。僕、マリーを大切にします。マリーが背負っていた森を守るという使命も、少しでも力になっていきたいと思っています」
その言葉に、精霊たちの輝きがさらに増す。マリーの目に涙が浮かぶ。
「みんな、本当にありがとう」
精霊たちは輪になり、夏輝とマリーを中心に回り始めた。その光の輪が、二人の愛を祝福しているかのようだった。朝日がさらに強くなり、精霊たちの姿が徐々に透明になっていく。しかし、その温かな気配は森全体に残り、夏輝とマリーを包み込んでいた。二人は手を取り合い、森の入り口に向かって歩みを進めた。
夏輝とマリーは手を取り合い、森の中を歩く。朝日が木々の間から差し込み、森全体が新たな輝きを帯びていく。いつもの森とは違う、鮮やかな色彩が二人の目を楽しませる。確かに、木々の葉は普段よりも鮮やかな緑色に輝き、野花たちは色とりどりの花弁を大きく開いていた。小鳥たちのさえずりも、いつもより明るく響いているように感じられる。
二人が歩を進めると、目の前に広がる光景に息を呑んだ。一面マリーゴールドの群生地。夏輝とマリーが最初に出会った場所だ。マリーゴールドの花々が、朝日を浴びて燃えるように輝いている。
「夏輝くん、見て。私たちが最初に出会った場所よ」
「あのときは、君を困らせてしまったね。でも、それだけ君のことが気になって仕方なかったんだよ」
「分かってるわ。突然のことだったけど、あなたの純粋な気持ちは感じられたもの」
マリーが優しく微笑む。
二人が群生地に足を踏み入れると、マリーゴールドたちが一斉に揺れ動いた。
「夏輝ちゃん、マリーちゃん、おめでとう」
「ありがとう。あのとき、君たちがマリーに声をかけてくれなかったら、僕はまだこの森をさまよっていたかもしれない」
「いいのよ。素直じゃないマリーちゃんが悪いんだから」
マリーゴールドの言葉に、マリーは思わず赤面する。
「私だって、素直になりたかったけど。仕方ないじゃない、人間と関わったらだめだと思っていたんだから」
マリーゴールドたちは、笑っているかのように揺れ動く。その姿は、まるで金色の海のようだった。マリーの新たな一面を見れたようで、夏輝は心が温かくなるのを感じた。マリーゴールドの甘い香りが、二人の周りを包み込む。花々が、そしてこの森が、彼らの絆を認め、祝福してくれている。二人は手を強く握り、マリーゴールドの海を抜けて歩き続けた。前を向くその瞳に、力強い色が宿る。
二人は森の入り口に辿り着いた。朝日が優しく照らし出す。
「ここまでだね」
夏輝が寂しそうに呟く。マリーは夏輝の手をそっと握り締める。
「うん、でも明日また会えるわ」
二人は向き合い、互いの目を見つめ合う。夏輝の瞳に、マリーへの深い愛情が宿っているのが分かった。
「マリー、今日は本当に特別な日だったよ」
「ええ、私にとっても忘れられない日になったわ」
「君の笑顔を見ると、僕の心がすごく温かくなっていくんだ」
マリーが恥ずかしそうに頬を染め、上目遣いで夏輝を見る。
「夏輝くんと一緒にいるとね、私も幸せな気持ちでいっぱいになるの」
「僕の気持ち、マリーに届いて本当に良かった」
「ええ、しっかりと感じているわ。私の気持ちも夏輝くんに届いているかしら」
「もちろんだよ。マリーを見ていると、たくさんの君の気持に触れられるよ」
二人は黙ったまま、しばらく見つめ合う。言葉にならない感情が、二人の間を行き交う。
「じゃあ、また明日ね」
夏輝が名残惜しそうに言うと、マリーは微笑んだ。
「ええ、明日また会いましょう。夏輝くん、気をつけて帰ってね」
夏輝は頷き、ゆっくりとマリーの手を離す。一歩、二歩と後ずさりしながら、最後まで目を離さない。マリーは森の入り口に立ったまま、夏輝が見えなくなるまで大きく手を振り続けた。
夏輝は家に帰り着くと、窓辺に座り、朝日に照らされる街並みを眺めた。マリーとの別れの余韻が、まだ心に残っている。
「マリーや森のために、僕に何ができるだろう」
夏輝は深く考え込んだ。これまでの経験が、彼の中で新たな思いを芽生えさせていた。
「そうだ、まずは森のことをもっと知ろう。僕が森のことを理解すれば、マリーの気持ちももっと分かるはずだ」
夏輝は立ち上がり、本棚から自然に関する本を取り出した。都会で暮らしていた頃に興味を持っていた、環境保護や生態系についての本を真剣に読み始める。読み進めるうちに、夏輝の目に輝きが宿る。森の大切さ、そしてそれを守ることの意義が、少しずつ分かってきた。
「みんなにも森の素晴らしさを伝えたいな。マリーに会えたことで、僕の世界はこんなに広がった。明日からは、新しい僕として頑張ろう」
夏輝は窓の外を見て、微笑んだ。村と森が手を取り合っていく未来を、はっきりと思い描くことができた。夏輝の心に、薄っすらとした覚悟が芽生えていた。マリーとの出会いが、彼を大きく成長させていた。窓から差し込む光が、夏輝の顔を照らす。希望に満ちた新たな朝を迎え、彼の人生も、新しいページを開こうとしていた。
エピローグ 僕と君との距離
夏が過ぎ、秋の気配が漂い始めていた。夏輝とマリーは、池のほとりに腰を下ろし、話をすることが日課となっていた。
「マリー、僕たちのこれからのことを、ちゃんと話し合いたいんだ」
「ええ、私もそう思っていたの」
夏輝の真剣な言葉に、マリーが優しく言葉を返す。
「僕ね、将来は環境保護の仕事に就きたいと思うんだ。この森や、君たちのことを守れる仕事がしたいんだ」
「素敵な夢ね。私たちのことを真剣に考えてくれている、夏輝くんの優しさが伝わって来るわ。私は、もっと人間世界のことを学びたいわ。そうすれば、森と人間の架け橋になれるかもしれない。今までの森は閉鎖的だったもの」
「マリーの夢も素敵だね。二人で一緒に頑張っていこうね」
二人は互いの手を取り合い、未来を見つめる。
「でも、僕たちの関係はどうなるんだろう」
夏輝が少し不安そうに尋ねた。
「私たちの関係は、時間が経っても変わらないわよ。むしろ、もっと強くなっていくと思う」
「うん、そうだね。僕たちの関係だって、この森のように、どんどん大きく育っていくんだ」
「そうよ。私たちの未来は、きっと素敵なものになるの」
二人は池に映る夕日を見つめながら、これからの生活について語り合った。学びたいこと、挑戦したいこと、二人で実現したい夢。言葉を交わすたびに、その未来図は鮮明になっていく。
「マリー。僕たちが進む道は、きっと誰も通ったことのない新しい道になるよ」
「そうね。でも、二人でだったら、どんな道だって怖くないわ」
夕暮れの森に、二人の笑い声が響く。それは、大きな希望に満ちたものだった。
二人は立ち上がり、森の中を歩いていく。森は秋の訪れを感じ、一層鮮やかな色彩を帯びていた。二人は、初めて出会った場所であるマリーゴールドの群生地へと足を運んだ。黄金色に輝くマリーゴールドの花々が、二人を静かに迎え入れる。
「マリー、覚えてる。ここで初めて君に会ったんだ」
「ええ、よく覚えているわ。あなたが突然現れて、たくさんの質問を浴びせかけてきたのよ。初めての人間に会って緊張していたのに、どうしていいのか分からなかったわよ」
二人は思い出話に花を咲かせながら、マリーゴールドの中を歩いていく。
「このマリーゴールドたちは、僕たちの出会いから今までずっと見守ってくれていたんだね」
「そうね。私たちの関係を見守ってくれていた証人のようなものかもしれないわ」
夏輝はマリーの手を取り、しっかりと握った。その刹那、マリーゴールドたちが声をかけてくる。
「そうよそうよ。私たちは最初からあなたたちを見守っていたわ」
「あなたたちの愛が育めたのも、私たちのおかげと言ってもいいかもしれないね」
マリーゴールドから放たれた愛という言葉に、夏輝とマリーは頬を赤らめながら頷いた。
「意識しないようにしてたんだけど、改めて愛と言われると恥ずかしいわ」
「僕もだよ。でも、マリーゴールドたちが後押ししてくれて良かった。僕はマリーを愛しているんだって、改めて思ったよ」
マリーは黙って俯いてしまったが、握られているその手に、いっそう力が込められていることに夏輝は気付いていた。
「マリー、ずっと一緒だよ」
「ええ、夏輝くん。ずっとね」
二人の笑顔が、黄金色の花畑に溶け込んでいく。風が吹き、舞い上がる花びら。その中で見つめ合う二人の姿は、まるで絵画を切り取ったかのように美しかった。
季節は進み、冬の訪れを告げる冷たい風が森を吹き抜ける。夏輝とマリーは、いつものように池のほとりで過ごしていた。二人の間には、温かな空気が漂っている。
「マリー、これ」
夏輝が小さな包みを差し出した。マリーが開くと、中には手編みのマフラーが入っていた。
「夏輝くん、これ」
「僕の思いがこもったものを君に送りたかったんだ。編み物なんてしたことなかったから下手だけどね。マリーに暖かくしてほしいし、これなら僕がずっと傍にいるみたいだろ」
夏輝は照れくさそうに言った。マリーは嬉しそうにマフラーを首に巻いた。
「とても暖かいわ。ありがとう」
二人は寄り添いながら、凍りつきそうな池を眺めていた。
「夏輝くん、最近はどう」
「うん、学校で森の話を友達にしてるんだけど、その輪が少しずつ広がってきてね。みんなが森に興味を持ち始めているんだ」
「すごいわ。頑張ってるね、夏輝くん。私も村の人たちと少しずつ交流を持てるようになってきたの。この前ね、勇気を出して村まで行ってみたの。みんなが声をかけてくれるからびっくりしちゃって」
「あの村の人たちはそんな感じだよね。そうか、僕たちの夢が少しずつ形になってきているんだね」
二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。
「ねえ、マリー。こうして毎日会えること、一緒に時間を過ごせること。それが僕にとって何よりの幸せなんだ。お互いに話した夢が、少しずつ前に進んでいる。君と一緒に歩んでるんだって思えるんだ」
夏輝が真剣な眼差しでマリーを見つめた。マリーも見つめ返すと、照れくさそうに微笑んだ。
「私もよ。夏輝くんと過ごす時間が私の宝物なの。これからも同じ時間を過ごしていきたいわ」
二人はさらに肩を寄せ合った。冷たい風が吹く中、互いの温もりがよりいっそう感じられる。小さな雪の結晶が舞い始めた。それは、二人の純粋な愛を祝福しているかのように純白に煌いていた。
雪が静かに降り積もり、静寂を冠する白銀の世界を作り上げていく。この世界には自分たち二人しかいない。本気でそう思わせるかのように、見渡す限りの真白な世界が広がっていく。
「マリー。僕たちの未来、どんな風になると思う」
「きっと、素敵なものになるわ。私たちが一緒に作り上げていくんだもの」
「うん、そうだね。森と村が一つになって、みんなが幸せに暮らせる場所を作っていこう」
「そうね。人間と精霊が理解し合える世界を作っていきたいわ」
二人は空を見上げ、降り続く雪に思いを馳せる。
「ねえ、夏輝くん。私たち自信だって、未来に繋がっていくのよ。もっと、もっと、この愛を育んでいきたいの」
「そうだね。僕ももっと君のことを知りたい。君の傍で一緒に笑っていたいよ」
夏輝とマリーは、ゆっくりと歩き出す。森を抜け、視界の奥に村が見える。彼らの後ろでは、精霊たちが静かに見守っており、前方には、好奇心に満ちた村人たちの姿が見える。二人の歩みと共に、森と村の間にあった見えない壁が、少しずつ溶けていくようだった。
夏輝とマリーの純粋な愛が、人間と自然が結びつく大きな夢を現実へと導いていく。これは終わりではなく、新しい物語の始まりだ。二人の手には、希望に満ちた未来が確かに握られていた。雪は尚、静かに降り続け、新しい世界の幕開けを祝福しているかのようだった。