9話
「ふふ、大丈夫ならよかった!」
「ええと、はじめましてだよね…僕はレオ・アベンチュリン。君は?」
爽やかな笑顔で、最推しがそう問いかけてくる。
口の中がからからで、上手く言葉が出てこない。たしかにここは、夢にまでみたチュプリの世界なのだと、改めてそう突きつけられた気がした。
「え、と…………わた、私は、クレア・チャロアイト、です」
「ああ、例のチャロアイト商会の!僕もよく知ってるよ」
お、推しに認知されてるー!!?!商家に生まれてよかったー!!!
推しに知ってもらえている喜びと動揺で震えが止まらない。てか私、実質推しにタックルしたことにならないかこれ??人生おわた案件じゃん。
「おい、クレア走っ……!レオ・アベンチュリン、さま……」
私に追いついたらしいサミュエルが、彼を見た瞬間固まった。
「おや、サミュエル君?」
どうやら学園に入る前から知り合いだったらしい。そりゃそうか、ゲーム以前に公爵子息と伯爵子息なら社交界でいくらでも顔を合わせたりするもんね。
「ふたりは親しい間柄だと聞いたけれど、あれは本当だったんだねえ」
「あ、ああはい。まぁ、そうですね……」
のほほんと微笑む推し、もといレオに対し、煮え切らないような返事をするサミュエルを不思議に思いながら、彼の言葉に付け足す。
「その、ノゼアン伯爵家には昔からお世話になっていて…幼馴染みといいますか、友人といいますか…」
「おや、そうなのか…。とりあえず、同級生としてこれからよろしく頼むよ、クレアさん」
「あ、はい!」
推しに握手を求められ、差し出された手を握り返したとき、不意にその手とは逆側を引っ張られるような感覚がした。
「___へっ?」
そちらを振り向くと、サミュエルが私の服の袖をきゅっと掴んでいるようだった。
「サミュエル君?」とレオが問いかける。
「……ぁ、いや…なんでも、ありません…」
様子が少し変なサミュエルを横目に、そんな調子で私は最推しとの邂逅を果たしたのだった。
●○●○
アベンチュリン公爵子息を見つめるクレアが、熱に浮かされた連中とよく似た目をしていた。まるで、知らない女の子みたいな。
あいつのあんな顔を、オレは知らない。
『幼馴染みといいますか、友人といいますか…』
そうだ、オレたちはそれ以上でも以下でもない。ただ彼女は事実を述べているだけなのに、指先が冷たくなるような、息がしにくいような感覚が身体から抜けない。
嬉しそうに彼と握手をするクレアを見て、無性に嫌になった。左胸がじくじくと痛くて、イライラして。
気がつけば、身体は勝手に動いて彼女の服の裾を掴んでいた。
仮にも公爵子息との挨拶の最中にこんな失態をするなんて、らしくもない。
知らぬ間に植え付けられた得体の知れない感情。
いつも通りの自分をめちゃくちゃにする感情。
これは、この変な気持ちは、恥ずかしいものだ。愚かで、みっともなくて、居心地が悪くて、醜い。誰にもこんな醜態を晒したくない。これは弱みだ。弱点だ。だから、隠さないと。箱に詰めて、鎖で何重にも巻いて、誰にも見つからないように。