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第X話


 私の人生はあの日から、彼なしでは語れなくなった。

 あの日、というのは他でもない。私が初めて彼にサンドイッチを作ってあげた日だ。

 彼の名前や性格は以前から知っていた。ただ私自身そこまで彼に執着心があるわけでもなかった。一緒に話すことはあれど、それが私の人生に対して今でこそこんなにも意識しているのに、あの日までの私は彼に対し特別な感情すら抱いていなかったのだ。

 そう、あの日だ。あの日私は、彼に自分の想いを吐き出した。そして彼はその言葉を、しっかりと受け止めてくれたのだ。自分のまっすぐな想いを他人に受け止めてもらうのは、生まれて初めてと言っても過言ではなかったのだ。それほどまでに私はあの日以前、他人の目を気にして、自分を偽り続けていたのだ。

 マリファナに身体を染めた今でも、あの日のことだけは鮮明に思い出せる。たとえクラスメートの顔と名前を忘れたって、その彼のことを忘れたって、あの日のことだけは絶対に忘れないと誓った。あの日こそが全ての始まりで、あの日を思い出せば彼のことを思い出せるのだ。

 あの日、彼に初めてサンドイッチを作ってあげた日、そう、あれはちょうど十年前の今日だ。



 両親と共に暮らしていた一人っ子の少女、こんな普通の肩書を持っているのが私という存在だった。

 ただ普通なのは、あくまで外面だけだった。端的に言えば、私は両親から虐待を受けていたのだった。

 幼い頃から暴力を振るわれ、沢山怪我もした。飲食だってまともじゃない。夕食はドッグフードを出され、飲料にはトイレの水を用意された。食べないと「食事を残すのは駄目だ」という世間的に耳障りの良い教育的指導を浴びせられた。どうしようもなく泣き叫ぶと、両親は壊れたテレビでも直すかのように、私の頭を殴った。

 そんな仕打ちを受けてきた私は、英才教育の賜物か、人の機嫌をとるのが上手くなっていた。親の機嫌をきちんと取れれば、ある程度は躾がマシになる。最初は不慣れだったけども、段々と両親のご機嫌を取れるようになると、私自身嬉しくもあった。

 だがその結果、私の両親は調子に乗ってしまったのだ。

 ある日の晩、親は笑顔で私に、蜘蛛を食べさせようとした。大きいものであの頃の私の小さな掌ほどはある蜘蛛だ。私は親の機嫌を損ねない程度に反論したが、両親の手は止まらず、私は蜘蛛を食べることとなった。動かない蜘蛛だったため、死んだ食用の蜘蛛があるのかもしれないと割り切って食べた。しかし奥歯で噛んだ瞬間にもぞもぞと暴れ、拒否反応を示すように胃液が逆流してきた。吐き出そうとするも親の手は止まらず、結局私は盛り付けられた五匹の蜘蛛を飲み込むことになった。もちろんその後はトイレで全て吐いてしまった。嘔吐物と共に身体がぐちゃぐちゃになった蜘蛛を見て、吐くものが無いのに吐き気が止まらなかった。

 もうこの家にいたくなかった。今までだってずっとそう思ってきたが、あの日はより一層その思いが強まった。

 そしてあの日の夜、彼が来たのだ。



 彼――葉平(ようへい)くんは、小学校の教室でいつも一人でいる男の子だった。

 一人でいるような男子には、性格が臆病で誰とも話せない子と、誰かと遊ぶことを嫌って誰とも話さない子の二種類がいる。彼は後者でありながら前者でもあった。少なくとも、親の機嫌をとるために発達した私の観察眼からは、そう見えた。他人と話すことに興味が無いのは誰が見てもわかったが、彼はどこか臆病な瞳を持っていた。彼と仲良く話したことは今まで無く、私があの日に彼と会った時も一瞬名前を忘れてしまっていたほど、私の中で彼のイメージしか残っていなかった。だからこそ、あの日に彼が私を自宅から連れ出してくれたことは、意外で仕方がなかった。


「こんな家から、出ていけよ」


 彼はどうやらお隣さんだったらしい。蜘蛛を食べさせられている私をカーテンの隙間から見て、助けようと思ったらしい。


「葉平、くん? どうしてこんな時間に?」


 葉平くんは私の部屋の窓へ小石を投げつけ、音で私に気付かせた。私はこっそりと家を抜け出し、家の前で葉平くんと落ち合った。


「おまえ、クモ食べてた」


「食べてないよ」


「いいや食べてた。窓からずっと見てたんだ」


 母親からは家での事を話さないようにと言われていたが、彼に嘘を付いても仕方がないと考え、真実を話した。


「食べたよ。吐いたけど」


「あんな所にいちゃいけない」


「駄目だよ、夜中に出ていくと、お母さんに怒られちゃう」


「怒られても良いよ、あんなところから逃げなきゃ」


「……とりあえずうちに行こう」


 葉平くんは私の腕を掴んで、無理矢理自分の家へ連れて行った。

 彼の家は私の家と少し雰囲気が違っていた。あの頃の私は、なんというか寂しい感じを覚えたのだ。今から考えてみれば、両親があまり家におらず、人が暮らしている様子があまり感じ取れなかったせいだろう。

 葉平くんは私をダイニングに連れていき、椅子へと座らせた。そして私の目の前に座り、目を合わせずにこう言った。


「あの家にいちゃいけない」


 先ほどと同じ事を言った。ここに連れてこられるまでに心変わりをしたというわけでもない私は、先ほどと変わりなく、


「駄目だよ」


 と返事をした。彼はうんうんと一人で悩んでおり、私はただぼぉっとダイニングとキッチンを眺めていた。


「どうして駄目なんだ?」


 彼が疑問を払拭しようと質問する。私はさも当たり前のようにこう答えた。


「お母さんとお父さんが駄目って言ってるから」


「でも、おまえは嫌がってる」


「嫌でも、お母さんが食べろっていうから、食べた。食べないと、お母さん不機嫌になる」


「不機嫌になったっていいじゃないか」


「不機嫌になると、叩かれる。私、痛いのは嫌」


「嫌なことづくしじゃん」


「嫌なこと、あるのが人生」


 自分の伝えたいことが伝えられないのか、彼は大きなため息を吐いた。その意図をよく汲み取れないあの頃の私は、彼のため息の理由がよくわからなかった。


 ――ぐぅ


 ふと、間の抜けたような音がした。私が出した音じゃなければ、彼が出した音だろう。案の定、葉平くんの顔が紅潮していた。


「お腹すいたの?」


「…………」


「もう、寝たら?」


「……いや、おまえをちゃんとあの家のおばさんから守らないと」


 この期に及んでまだそんなことを考えているのか。私は彼のお腹が鳴ってもまっすぐな気持ちが面白くなって、ついくすっと笑ってしまった。


「あ、笑った」


「ごめんごめん」


「冗談じゃないんだぞ」


「ごめんってば」


 それでも私は少しの間、笑いを止めることができなかった。本心から笑ったのは久々で、そのときの感情は気持ちの良いものだった。


「あのさ」


 気分が良かったからだろうか、私は彼のこの言葉をよく覚えている。


「逃げても、いいんだぞ?」


「……え?」


「辛いとか、悲しいとか、しんどいとか、そういうのが嫌なら、逃げちゃえばいいんだ。逃げたって、悪いのは逃げた奴じゃない。つらいって思わせた奴なんだ」


「でも……」


「さっき笑ったよな。楽しかったよな。逃げたら、こんな風に笑えるようになるんだ。だからさ、あの家から逃げよう。きっと今日みたいに、笑える日が来るって」


「……そっか」


 六年間、私はずっと我慢していた。親に暴力を振るわれるのが嫌だから、親の機嫌を取るようにしていた。それは両親と戦っていたのかもしれない。だけど小さな私では限界があった。本当は逃げたいはずだったのに、逃げちゃ駄目なんだと意地を張っていた。普段そういう部分を見せない私には、決してそんな言葉をかけてくれる人はいなかった。そう、あの日までは。あの日、彼が柄にもなく私を救い出そうとしてくれたことで、私は逃げても良いんだということを学んだのだ。


「ね?」


「なんだよ」


「お腹すいたんでしょ? 何か作るよ」


「……え」


「だから、私を守ってくれるんでしょ? でもお腹すいてちゃ、私を守れないじゃん」


「……あ、うん!」


 あの日、彼は私の作ったサンドイッチを、おいしいおいしいと勢い良く食べてくれた。そして食べ終わった後は、目は合わせてくれなかったけど、小さい声で「ありがとう」とお礼をしてくれた。彼はお腹を膨らませて寝てしまったのだけれど、彼は私を確かに守ってくれたのだ。その翌日、私は両親から受けている虐待をおばに相談した。おばはすぐに私を引き取ってくれた。家がお隣だった彼とは随分離れてしまったけど、彼の「逃げても良いんだ」という言葉はずっと心の中に残っている。


「どう、サンドイッチ美味しい?」


「うまい、超うまい」


 そしてその彼――貞西葉平(さだにしようへい)くんは今、私の目の前でサンドイッチを食べている。



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