第1話
※本作品はフィクションであり、また犯罪を助長するためのものではありません。
コンクリートの校舎から湧き出る熱は、俺の脳を溶かしていくようだった。
太陽が燦々と照りつける屋上は、本当は俺みたいな普通の学生が来ていい場所ではない。ここは天文部とか先生たちとか、そういう一部の特別に許された人間しか入ってはいけないことになっている。また許可されている人がいるとはいえ、そもそもこの蒸し暑い夏の昼にわざわざ直射日光を浴びに来る奴などもいない。
だから俺みたく、見つかりたくないことをするのに、この場所は大変適している。
俺は白く細長い包み紙から、白い煙を燻らせる。煙草のようにも見えるこれは、実はそんな可愛いものじゃない。これは大麻だ。
昼の長い休憩時間、俺は学校の屋上で大麻を吸うことが日課になっていた。いつから始めたかもう詳細には覚えていないが、つい最近ショックな出来事があって、思わず大麻に逃げ込んだのだ。もちろん誰にだってこのことは話していない。バレれば退学どころじゃ済まないからだ。もちろん屋上でしか吸わないし、もっと言えば日陰の見えにくいところで吸っている。縁で吸おうもんなら別館やグラウンドにいる奴に見つかってしまうし、そもそもこの季節ではあまり太陽の当たる位置にいたくない。日陰でも熱気が感じられるのだ。
屋上の入り口と給水塔が作る日陰で、俺は大麻を吸っていた。夏の熱気に包まれて、思考能力が茹でられていく。ただ頬から流れ落ちた水滴は、もしかすれば大麻の禁断症状によるものかもしれなかった。熱気と中毒症状の境界線が曖昧になるほどに、ぼぉっと、俺の頭は蕩けている。
「こんなところでなーにしてるの?」
だからなのだろうか、俺は予期せぬ来客者に全く気付く事無く、呑気に大麻を咥えていたのだ。
「……な」
「いやー今年の夏も暑いよね。っていうか、座るとお尻がもう熱いね。じっとしてられないや。私もそっちへ行こう、っと」
給水塔の上に座っていた少女は、腕を使って高く跳躍し、軽い身のこなしで俺のいる日陰へと入ってきた。
頭の左右で括った濃い茶髪――ツインテールというよりもツーサイドアップというのだったか――が大きく揺れる。着地した彼女は短すぎないスカートに付いた砂を払った。瞳が大きく、髪も僅かな風で揺れるほどさらさらで、美少女と呼んでも差し支えない程に顔は整っている。人形と比喩するにしては髪や制服を遊ばせているため、神聖さと近寄りがたさよりもかえって親しみを持つことが出来る。友達になれるならなりたいと思うし、彼女にできるならこれ以上に嬉しそうなことも無いだろう。
そう、俺はこんな魅力を持つ人物を知っている。
「……蒼井、さん」
蒼井冴里、うちのクラスの学級委員長だ。
成績優秀でスポーツ万能、生徒会にも属しており、なんでも笑顔でこなしてしまうスーパーマン。それでいて人当たりもよく、クラスのムードメーカーとして男女問わず好かれている。教室の隅っこで寝てるか本を読んでいるかの俺とは全くの正反対な人間だ。
「なーに? 貞西くん」
俺は動揺と共に大麻を後ろへ隠しつつ、蒼井さんに尋ねる。
「……こんなところで何をしてるんだよ」
「んー、んー……気分転換?」
「ここ、立入禁止だぞ」
「それ、キミが言うかなぁ」
「俺はいいんだよ。それより蒼井さんは色んな奴からの目があるんだからさ、こんなところにいていいのか?」
「確かにねー。でもまあ、先生に気付かれなきゃ大丈夫だよ。ていうかこう言ってもいいかも。『屋上に学生が向かうのが気になって、注意しに来ました』はいこれで私は無罪放免、むしろ褒められるかも」
「俺を売る気かよ」
「だいじょーぶだよ。見つからない方法くらい、ちゃーんとわかってるから」
「ホントかよ」
とはいえ、人付き合いの天才である彼女が大丈夫だと言うのなら、本当に大丈夫なのだろう。そんな説得力を持っているのが、彼女という人間だ。
ところでところで、蒼井さんは接頭語を口ずさみながら、
「貞西くんは何してるの?」
「見ての通りだよ、俺も気分転換」
「煙を吸って?」
「……そういうことだよ。注意するなら注意する、先生にチクるならチクれよ」
俺はダミーとして用意した煙草のケースを取り出す。最悪教師にバレたって、煙草と認識されれば厳重注意か反省文、どんなに重くても休学処分で済む。大麻とバレるより大分ましだ。
「別に先生には言わないよ。言ったって仕方がないし」
「生徒会が煙草を見逃すのか?」
「むしろマイナスだからねー。正しいことを貫き、バカ正直に間違っていることを裁くのは、人間関係の構築に対しては悪いことだからね。目を瞑ることも大事なんだよ」
「なんか、知ってはいけないことを知った気分だ」
「それとも、先生にチクって欲しい? 匿名でなら私に一切のリスクがないよ」
「勘弁してくれ」
「わかった、黙っとくね!」
蒼井さんに見つかってしまったとは言え、彼女が先生に言う気が無いのには助かった。もちろん煙草と偽っているからバレたところで大した処分にはならないが、教師にバレないのが一番良い。
「ところでさ、貞西くん」
「なんだよ、まだ用があるのか?」
蒼井さんの大きな瞳が、少し細くなった。
「それ、私にも、ちょうだい」
「……は? どういうことだ?」
俺は思わず聞き返してしまった。茹だるような夏の熱気の中、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
「だから、その吸ってるやつと同じやつ、私も欲しいんだよー」
だけど彼女は、口調を普段のものから崩さない。それが俺にとって不気味で、思わず一歩後ずさってしまう。
「それ一本で最後、ってことはないよね?」
「……これがなんだか分かってるのか? 間違えても蒼井さんが吸うようなもんじゃない」
「それが何だかわかってるし、吸うべきじゃないんだろうなってのもわかるよ。でも欲しいんだ」
「いやでも、これは未成年が吸っちゃいけない煙草で――」
「違う」
鋭く言葉を遮られた。蒼井さんは微笑みながら、
「マリファナ、だよね?」
まるで最初から俺の吸っているものの正体がわかっていたかのように、普段の調子で答える。俺はそんな彼女の姿が怖くて仕方がなかった。なぜこれをマリファナと知っている? なぜマリファナとわかりながらこれを欲している? 彼女は何者なんだ? そんな疑問が茹だる頭で恐怖へと変わった。
「ええっと……そこまで怖がられるようなこと言ったっけ」
「ど、どうしてわかるんだよ……」
「んー、だって、私もキミと同類だし」
「……え」
「だから、私も吸ってるの、大麻。わりと日常的に」
信じられない光景だった。
クラスのムードメーカーで文武両道、次期生徒会長候補の完璧美少女が、大麻を欲しがっている。しかも日常的に大麻を服用しているのだ。
単語一つ一つの意味がわかり、文章として整理できていても、その意味を瞬時に理解することは敵わなかった。何よりイメージが湧かない。嘘デタラメを振りまいて俺から大麻を取り上げ、物的証拠として利用するのか……俺の想像力ではこれが限界だった。
「……これを渡したら、何をされるかわかったもんじゃない」
「だーかーらー、先生にチクったりしないってば。というかキミとおんなじ立場なのに、チクらないってば」
「蒼井さんが普段から吸ってるっていうのも、嘘かもしれない」
「もしそれが嘘だったら、キミの吸ってるそれがマリファナだってわからないよー!」
「いやでもな……」
「あーもう、わからずや!」
蒼井さんは急に俺の右手首を掴み、俺が先ほどまで吸っていた包み紙を奪い取ろうとした。俺も抵抗しようとしたが、人差し指と中指の挟む力は、蒼井さんの力よりも小さく、あっけなく奪われてしまった。
「はい、これで同類だね」
俺から奪い取った大麻を即座に口で咥え、満面の笑みを浮かべながら両手でピースをする蒼井さん。俺は結局彼女を止めることができず、深い溜息を吐くのだった。