獣になれない傍観者
拓真の本棚はちっとも埋まらない。佐伯の本棚にあるものを読み漁っているからだ。これまで、ロンドとワルツは遠い存在だったが、今は違う。友達がロンドで、せんずりのネタがワルツなのだ。その特性を知りたいと思った。佐伯の本はどれも難解だったが、その分情報量が豊富で、この一ヶ月で拓真はだいぶ詳しくなった。
この日も拓真は屋根裏部屋にいた。コンコン、とノックがされ、なんだろうと顔を上げる。佐伯なら鍵を持っているし、今日は三崎が来る日じゃない。不用品の搬入か? だったら厄介だなと思って、はたと気づく。ここに人がいるとわかっていなければ、ノックなどしない。
堂野先輩……か? サッと血の気が引いた。よりによって佐伯が不在の時に。やっぱり彼は持ってるなと場違いに感心する。
ひとつため息をついて、拓真は立ち上がった。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだ。腹を括るしかない。
ガチャリと扉を開ける。とくん、と胸が弾んだ。
「み、三崎先輩……どうしたんですか?」
「……さっさと入れろ。人に見られたらまずいだろ」
三崎は体を滑り込ませ、後ろ手にガチャンと扉を閉めた。
「……あいつは?」
「美術の授業です。選択科目は好きみたいで……」
「そう」
三崎は本棚へ向かう。
「普通の小説とかはないの?」
「あ……はい。そこになければ……」
「ふうん」
三崎は医学書を手に取り、パラパラとめくる。すぐに元に戻し、別の本を手に取った。
「あの……何か用ですか?」
「きみにはない」
佐伯が来るのを待つらしい。三崎は本を持ってソファに座った。スラリと長い足を組む。
「きみたちは医者志望なのか」
「あ……いや、研究者です」
「研究者?」
三崎が顔を上げる。まともに綺麗な顔を見てドキッとした。細面の色白、涼しげな目元など、人間国宝が作り出す工芸品のような繊細さだ。
拓真はギギギと目を逸らし、別のソファに座った。ソファの前には机があり、ノートと参考書が広げられている。
「えっと……研究者っていうのは佐伯くんの夢なんですけど、僕もそれに便乗しようと思って」
「ふうん。ワルツの味を安定させる研究?」
嫌味っぽい口調にムッとした。
「違います」
強い口調で返す。三崎がなんだという風に顔を上げた。
「僕たちはロンドを無くしたいんです。そうすればワルツは搾取されずに済む……これも、佐伯くんが言い出したことですけど、今は僕の夢でもあります」
三崎が瞬きする。唇を歪めるようにして笑った。
「搾取か。あいつはそんな風に思いながら俺を喰っていたのか」
三崎は卑屈っぽく言うと、腕をさすった。
何もわかっていない男に、ますます腹が立った。
「あれは搾取なんて言いません。学食で出される肉料理やワインのために、強制的に血肉を提供させられることが搾取です。佐伯くんは搾取されたものを食べたくないから、あなたの体で我慢しているんですよ」
三崎の顔がサッと強張った。傷ついたような表情に、なぜか苛立ちが込み上げる。
ワクチンの話を思い出す。佐伯から聞くまで、拓真はそれを知らなかった。金持ちはいつだって、自分たちだけで抜け駆けしようとする。いい身分だ。何が搾取だ。お前たちは戯れあっているだけだ。
腹が立つ。そのじゃれあいに自分は入れないのだ。苛立ちの原因が嫉妬だと気づき、拓真は乱暴な気持ちになった。
「それに佐伯くんは美味しいって言ってるけど、それはワクチンのおかげです。あなたの味はインチキなんですよ」
三崎が動揺し、拓真は胸がスッとした。
三崎は立ち上がると扉へ向かった。ガチャ、と扉が開き、佐伯が現れる。
「あれ? 三崎先輩?」
外へ行こうとした三崎の腕を、佐伯が掴んで止める。
「いっ……」
「え?」
三崎が顔をしかめ、佐伯は咄嗟に手を離す。
「痛むんですか? ……見せて」
佐伯が三崎の袖を捲り上げる。
窓辺に作った秘密基地から、扉まではまあまあ遠い。周りは物で囲まれているから視界も悪い。それがこの秘密基地の利点だが、今は鬱陶しいだけだった。佐伯が「どうしたんですか、これ」と聞いた理由も、ここからでは分からないのだ。
「……もしかして」
佐伯が何か察したように呟く。
三崎が手を振り払い、出て行こうとする。佐伯が後ろから抱きすくめた。何かを囁いている。
なんだなんだと、拓真は腰を浮かせたが、二人がやってきて、結局腰を下ろした。
いつもは三崎が自分で服を脱ぐのに、今日は佐伯が献身的に服を脱がしていく。三崎は涙目だった。インチキと言われて傷ついたのだろう。
医学書を大量に読んで、ロンドとワルツには詳しくなった。何を言えば傷つくか、拓真はよく理解していた。けれどこれほどとは思わなかった。
「俺のために涙を流してくれるんですか」
佐伯が三崎の頬を舐める。三崎はくすぐったいのか顔を背けた。
「俺の味は……インチキなんだろう。俺は、ワクチンを打ってるから」
佐伯が息をのんだ。涙の理由に気づいたらしい。ゆるりとかぶりを振って、否定する。
「デマですよ。ワクチンなんかでこんなうまい味が出せるもんか。もしワクチンが原因なら、とっくに広まってますよ。そうならないってことは、これが三崎先輩にしか出せない味だからです。堂野先輩が独り占めしていた、唯一無二の味なんですよ」
いけしゃあしゃあと佐伯は言い、うまそうに涙を舐めとる。
「涙はどんな味がするんだろうって想像してたんですよ。でも想像以上だ……伊藤くん、ありがとうね」
佐伯は肩越しに拓真を睨んだ。その目つきに、拓真は恐怖を感じて硬直する。
けれど三崎を慰める佐伯を見ていたら、恐怖は怒りの感情に塗り変わった。
(きみが最初に言ったんじゃないか……)
ワクチンの副作用で美味くなると言ったのは佐伯だ。自分は佐伯の言葉を借りただけだ。それなのにどうして自分が悪者にされないといけないのか。だいたい、三崎は何しにここへ来たのだ。
三崎は上半身だけ裸になった。スラックスは履いたままだ。
左腕に巻かれた包帯に、拓真はハッと息をのむ。
三崎をソファに座らせ、佐伯はその前に片膝をついた。包帯を丁寧に解いていく。
「堂野先輩に巻いてもらったんですか?」
「……ああ」
包帯を解くと、ざっくりと真新しい切り傷が現れた。
「痛かったでしょう」
佐伯がその周辺を撫でる。長い指が、焦らすように何度も行き来する。
「……早くっ、喰べて」
「噛み跡ないですね。堂野先輩すごいなあ。これを我慢するなんて」
三崎が悲痛に眉根を寄せ、拓真は察した。
怪我をした三崎は、堂野に血を吸わせようとしたが、堂野は手当てを優先した。それなら佐伯に吸わせようと、三崎はここを訪ねてきた。
「いいから早くっ……俺に恥をかかせるなっ」
佐伯が腕に喰らいついた。じゅるるっ、と血を吸い上げる音が、やけに卑猥に感じられた。
三崎の視線は、自分を味わう男から離れない。
時折、三崎は痛そうに顔をしかめるが、「やめて」とは言わなかった。中途半端に開いた唇から出るのは荒い息だけだ。
「あっ……」
佐伯が口を離せば、落胆のような声を出す。
拓真はモヤモヤした。まるで相思相愛だ。三崎には堂野がいる。二人とも、これが裏切り行為と分かった上で、求め合っているのだ。
佐伯が口元を拭う。手についた血もうまそうに舐めた。三崎はそれを、見逃すまいとジッと見つめる。
佐伯が血を綺麗に舐めてしまうと、三崎の喉仏が、何かを期待するように大きく動いた。
「うまかったよ」
佐伯が言う。たった一言。なんの捻りもないそれを、三崎は嬉しそうに受け止める。
拓真は唇を噛んだ。そんなの、自分だって言える。ワルツが欲しがる言葉なら、自分だってわかる。要は味を褒めてやればいいのだ。簡単なことだ。
勘違いするなよと佐伯を睨んだ。三崎が気に入ったのは、きみじゃない。ロンドなら誰でも良いのだ。
(僕だって、ロンドなら……)
佐伯は拓真の視線など気にも止めず、広がった傷口に包帯を巻きつけていった。