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うしろめたい体

 情報を与えすぎた。恭介は警察官。瑛太に辿り着くのは時間の問題だ。

 バイヤー……

 あの後、あっさり解放されたのがそれを物語っている。調べればわかると恭介は判断したのだ。

(急がないと……)

 恭介のマンションを出たその足で、耀司は研究室へ向かった。

 雨が降ったのか、路面が濡れていた。総合病院に隣接した研究施設に、車を停める。

 車を降りると、濡れた土の匂いがした。月は分厚い雨雲に覆われている。この様子だと、もうひと雨降りそうだ。

 研究施設は一般客を寄せ付けまいとしてか、周囲に電灯がなく、駐車場からの距離が掴めない。ここは夜に来る場所じゃないな、と毎度思う。 

 瑛太の研究室に灯りがついていることを確認し、耀司は先を急いだ。

 恭介は確実に瑛太に辿り着く。だからその前に、瑛太に頭を下げる。せめて悪者でいてくれ、真実を伝えないでくれ、俺の大事なお客様を傷つけないでくれと。

 正面玄関。タイル張りのアプローチまであと数メートルという時。

 ふいに背中を叩かれた。

「あ……」

 いや、違う。

 衝撃で前のめりになった体が、体に埋め込んだものを勢いよく引き抜く力によって、背後にぐらりと傾ぐ。

「う、がはっ……」

 二度目。今度は自分の身に何が起きたのか、はっきりとわかった。ずぷりと、背中を突き破った刃が、みぞおちから飛び出している。

 耀司はアプローチに倒れ込んだ。

 喉から腹の底に掛けて、熱湯を流し込まれたように熱い。

「おいっ!」

 怒鳴り声と足音。足音は離れていくものと、迫ってくるものと二種類あった。

「あっ……はっ……」

 口の中に血の匂いが充満した。痛い。痛みの根元に手を伸ばすと、刃先に指が触れた。

(俺の体……)

「担架っ! 人が刺されたっ! 急いでくれっ!」

 くそっ、と恭介の声が降ってきた。背中を押さえつけられ、肉体が引き裂かれるような痛みを感じ、耀司はうめいた。

「大丈夫だ、すぐに助けが来る。それまでの辛抱だからな……」

 ギュッ、と何かで圧迫される。

「体の向きを変えるぞ」

 脇の下に腕を入れられる。直後、頭が揺れ、くらりと眩暈がした。コポッ、と喉の奥から血液が逆流し、口から溢れた。

 恭介の苦しげな表情が目に入った。折り畳まれた薄グレーのハンカチで、口から溢れた血を拭ってくれる。無骨な指の、繊細な動作に思わず笑った。実際、笑えているか不明だが、耀司はおかしかった。そのハンカチは自分が堂野夫妻に売ったエルメスだ。まさかこんな使われ方をされるとは。

 体はひどく痛むのに、爽やかな風が通り抜けていくような爽快感を覚えた。

(俺……やっと……)

 ひく、ひく、と耀司の頬がぎこちなく動く。本人は笑っているつもりだが、恭介は眉間のシワを深くし、「大丈夫だからな」と励ます。

「よう……じ?」 

 戸惑う声の後、「耀司っ!」と必死な叫びが聞こえた。

 瑛太が来たのだ。耀司は夢中で恭介の腕を抜け、タイルを這った。

 瑛太の元を目指したが、彼が駆けつける方が速かった。「動くな馬鹿っ」と叱咤される。こいつも大きな声が出せるのだなと、耀司は新しい発見に目を細めた。痛いのに、この喜びはなんだ。この開放感はなんだ。

「瑛太……瑛太っ……」

 必死に声を振り絞った。

「俺のこと、喰えよ……ほら……もう、めちゃくちゃっ……だから……」

 暗い過去を持つワルツが羨ましかった。彼らのように、自分も暴虐の証が欲しかった。

 血肉を味わって貰いたいなら、切って、「喰って」とねだればいい。でも大切にされた綺麗な体を、自分で傷つけることはできなかった。

 やっと喰ってもらえる。友達の先に進める。

「なあっ……喰ってよ……」

 瑛太は切長の目を悲痛に細め、「馬鹿」と言った。

「馬鹿だよ……さっさと、自分で、やれば良かった……ずっとお前に……喰われたかった、のに……」

「堂野さんは足を持って!」

 瑛太が声を張り上げる。ふざけるな。なんでだよ。耀司はブンブンとかぶりを振った。

「喰えよっ……」

 喉に血が絡んで、ケホケホと咽せた。

「堂野さんっ! 早くっ! 後輩を死なせる気かっ!」

 せーのっ、瑛太の声かけによって、体が浮き上がる。担架に乗せられたのか、景色がもの凄い速さで移り行く。

「喰えよっ……」

 耀司はうかされたように叫んだ。

「喰ってくれよっ……」 

「喋るなっ……傷に響く」

 喰ってくれないのか。氷のように心が冷えていく。

「当直は誰ですかっ」

 瑛太が周囲に問いかける。

「えっと、確か、精神科の溝口先生ですっ」

「外科医はいないんですかっ……副直はっ」

「一外科に安藤先生がいるはずですっ……5号棟へ行きますかっ」

「いや時間がないっ……G3ラボで緊急手術を行いますっ……至急安藤先生を呼んでくださいっ……あと輸血の準備っ!」

 自分は危険な状態なのだ。なら喰えよ。いっそ喰い殺してくれよ……

 自分の望みがちっとも叶わないことに嫌気がさして、耀司は投げやりな気分になった。

「頻脈……出血多量っ……佐伯先生っ!」

「彼はワルツですっ……普通の人間より再生能力は高いっ……諦めないでくださいっ……」

 自分はどこまで身勝手で、欲張りなんだろう。三崎は生きたかったはずなのだ。死を待つだけの日々の辛さは計り知れない。きっと自分なら塞ぎ込んで、家族や物に八つ当たりしただろう。

 それなのに、瑛太に喰い殺されたという最後に嫉妬してしまう。いっそ自分も助かる見込みがなかったら……三崎みたいに、喰ってもらえたんだろうか。

「え……た……喰って……」

 三崎が羨ましい。助かる可能性なんか無視して、喰ってほしい。耀司は必死に懇願した。その度に口から血が、目尻から涙が溢れた。


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