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うしろめたい体

 あの鬱陶しい警察官……亜城の姿がないことを確認し、耀司は屋敷の門をくぐった。

 綾子夫人に迎えられ、奥の部屋へと通される。

「ワルツのお肉、持ってきてくれた?」

「え?」

 耀司がキョトンとすると、綾子夫人は途端に薄い眉を吊り上げた。いつもはそこに、細い筆で美しい曲線が描かれている。

 裕一郎が女子大生を襲って十日が経った。いつもきちんと撫で付けられた黒髪は、今は肩に垂れている。目の下にはクマがある。

「ゆうちゃんはお腹を空かしているのっ! ワルツのお肉が欲しいなんて、留守電に残せないでしょうっ! まさかあなた、手ぶらで来たわけじゃないでしょうねっ?」

 綾子夫人は凶暴化して、耀司の手からビジネスカバンを引ったくった。

「あっ……」

 カバンを床に置き、綾子夫人は中を漁った。背中が殺気立っている。

「なんだ、あるじゃないの」

 綾子夫人が取り出したのは、透明な容器に入った三崎の培養肉だ。

「それはっ、違いますっ! 裕一郎さんのための肉じゃないっ……」

「美智子さんっ!」

 綾子夫人は家政婦を呼んだ。

「返してくださいっ!」

 耀司は容器を取り返した。片膝をついてカバンに戻す。

「じゃああなた、何しに来たのよ。示談交渉もできない、身代わりも用意できない。あなた、それでも外商員? どうして外商員が手ぶらで来るのよ。ゆうちゃんはお腹を空かしているの。手に負えないのっ! あなた、私からの連絡をなんだと思ったの? なんで私の要望が汲めないの!」

 ふう、と一息ついた。ふう……もう一度息を吐く。

 ちっとも動悸が収まらない。来てと言われたから、研究室から直行したのだ。亜城に絡まれて断念したものの、そのときも、何よりも優先して駆けつけようとした。

「はあ……仕方ないわね。もう、あなたでいいわ」

 ため息混じりの言葉に、ファスナーを上げる手がピタリと止まった。

「あなた、ワルツでしょう。キッチンに採取用の器具があるわ。安心して、まだ一度も使ってないから」

 耀司はすくと立ち上がり、綾子夫人を正面から見据えた。

「っ……」

 おかしい。「俺は外商員です。あなたの召使じゃない」……そう言いたいのに、声が出ない。唇をはくはくと震わせていると、綾子夫人はやつれた顔でにこりと笑った。

「いいじゃない。他の客にもやってることでしょ」

「っ……はっ」

 やっぱり声は出なかった。ぺこりと雑に頭を下げて、「ちょっと!」という綾子夫人の制止を振り切って、耀司は屋敷を飛び出した。

 車は公園を超え、坂を下った先にある。雲行きの怪しい空の下、ふらふらと歩いていると、「待て」と低い声がした。

 顔を上げると、スーツを着た男……亜城がいた。彼は一瞬驚いたような顔をし、「何かあったのか」と駆け寄ってきた。

 別に……そんな短い言葉さえも出なかった。

「あんた……ちゃんと寝てるのか」

 横柄な態度しか知らない男の、気遣わしげな問いかけに、胸の中で何かが弾けた。

「おいっ……どうした……何があったんだ……」

 亜城が狼狽える。

 瑛太から、三崎の肉を受け取ってしまった。恭介にはなんて説明しよう。死んだと言うか……でも瑛太が作り続ける限り、三崎の肉は永遠に供給することができる。肉の提供者は外国人で、豊かな暮らしを送っていると嘘をつくか。それ以前に、警察官に嘘が通用するだろうか。

 だからって、本当のことを言うわけにもいかない。骨の随まで……あの言葉が本当なら瑛太は……ダメだ。瑛太の名前を、恭介の前で出したらダメだ。

 瑛太はなんで俺にキスしたんだろう。キスすれば、俺が言うことを聞くと思ったのだろうか。だったら最後まで甘い雰囲気を貫いて欲しかった。

 結局、突き放されたのだ。俺がいつまでも諦めようとしないから、わざと俺が傷つく態度を取ったのだ。

 みっともなくしゃくりあげ、ボロボロと涙を流す耀司の背中を、亜城は黙ってさすっていた。



 背中にずしりと重みを感じ、首筋を舐められる。尻に硬いものが当たった。囁き声で「武瑠」と呼ばれ、耀司は首を横に振った。名前を間違えるなんて最低だ。でもシャツをするするとたくし上げられ、期待で胸が高鳴った。瑛太に触ってもらえるならなんでもいい……

「あ、れ……」

 戸惑う声。

「たけ……る?」

「翔平さん、何してんの」

「わあっ、た、武瑠?」

 背中の重みが消えたかと思うと、パチンと照明がついて、部屋が明るくなった。

「え、えっ……?」

 上下ジャージ姿の男が、耀司と亜城を交互に見やる。亜城は風呂上がりなのかパンツ一丁。濡れた頭にタオルを掛けている。

 いつも、鎧のようにビチっと細身のスーツで決めているから分からなかったが、見惚れるほどの肉体美だ。脇腹には鳥の羽のような射線がある。

(なんか、エロ……)

 思考が馬鹿になったところで、ハッと気づいた。舐められた首筋が急にくすぐったい。この二人……できてるのか。

 端正な亜城の顔が、みるみると赤くなる。

(マジかい……)

「窓も開けずに車の中で眠り込んでたから……」

 亜城が言い、記憶が蘇った。あの後、亜城に車まで付き添ってもらって、会社に戻ろうとして、でもまた悲しくなって泣いていたら、眠くなって……

「す、すみませんっ……」

 とりあえずベッドから下りた。寝ぼけた頭を必死に働かせる。

 ここは亜城の自宅で、ジャージの男は亜城に会いにきて、ベッドに潜り込んできて……

「えっと……えと……ベッド……ベッド、使いますよね。すみません……せっかくのお泊まりを邪魔してしまって……すぐに立ち去ります」

 素早くベッドを整える。

「いいっ、やめろっ……お前っ、それわざとやってるだろうっ!」

 忙しなく動く手を、亜城に掴まれた。

「あっ……でも……」

 チラとジャージの男を見る。見るからに草食系の優男だが、背中にのし掛かられた時、男は襲う気満々の空気を発していた。というか尻に股間を打ちつけて、寝バックの真似事をしていた。

「……翔平さんも馬鹿なのか。風呂場の電気が付いていて、どうしてこっちに直行するんだ」

 亜城が呆れたように言うと、翔平さん、と呼ばれた男は照れ臭そうに「ごめん」と言った。

 翔平が風呂場に直行していたら、二人は……耀司まで顔が熱くなった。

 亜城は己の発言のエロさに気づいていないのか、すっかり平静を取り戻し、仏頂面で言った。

「ただの親切心で他人を家に上げるほど、俺はお人好しじゃないし、黙って帰すほどマヌケでもない。あんたには聞きたいことがあるからな。裕一郎のこと、あとでゆっくり話を聞かせてもらう」

 執念深い目に見つめられ、肩の荷が下りた気がした。抗ったところで結果は同じだ。亜城の底なしの執念には、やましい者に無駄な抵抗を諦めさせる力がある。

「……はい。全部お話しします」

 観念すると、亜城は驚いたように瞬きしたが、すぐに表情を繕った。

「服、着てくる」

 そう言って、彼が背を向けた瞬間、耀司は息をのんだ。

 亜城の背中は痣だらけだった。ほとんどが赤黒く、ささくれ立っている。一見、大火傷を負ったようにも見えるが、痣は拳サイズの集合で、ところどころに皮膚の余白があり、火傷とは微妙に違う。ならば、あれは……

(亜城は……ワルツだったのか)

 がっかりしている自分がいた。亜城がワルツであることにではなく、暴虐の被害者であったことに。

「武瑠は、ワルツの体を搾取されてきたんだ。肉体を傷つけられる苦痛を知っているから、ワルツが絡む事件には人一倍のめり込む。ああ見えて、結構情に熱い奴なんだよ」

 翔平が保護者のような眼差しで、亜城が出ていった方を眺めながら言った。

「あなたと亜城さん……付き合ってるんですか?」

 胸の中がモヤモヤする。

 亜城は辛い思いをしたのかもしれない。でも今は好きな人と愛し合って、幸せなのだとしたら。

「あ……さっきはごめん。首、洗ってくる? ……っていうかシャワー浴びる?」

「気にならないので、大丈夫です」

「そう……付き合ってるよ。結構長い」

「そうですか。亜城さんの背中、すごかったですね」

 耀司の言葉を嫌味と捉えず、翔平はコクンと頷いて、言った。

「まだ世の中には、武瑠と同じような目に遭っている子供がたくさんいる。幼少期に受けた心の傷を、大人になっても引きずったり、フラッシュバックに苦しんでいる人もいる。武瑠もそうだった。あいつ、運動神経良いし格闘技も強いけど、採取用の器具を見ると……」

「翔平さん」

 亜城が戻ってきた。Tシャツに短パンというラフな格好。

「余計なこと言うな」

「あ……ごめん」

 羨ましくて妬ましくて、耀司は居た堪れなくなった。この部屋で、このカップルは何度も体を重ねているのだ。ブラウンカラーで統一された遊び心のない部屋には、旅行土産としか思えない異質なアイテムが点在している。

 ただの僻みだ。でも幸せを見せつけられているみたいで不愉快だった。

「驚かせて悪かったな。普段は人に見せないように気を遣っているんだが、家だから気が抜けていた」

 亜城が言う。耀司は「いえ」としか答えられなかった。

 きっかけは背中の痣だろうなと思った。無愛想で、格闘技も強い亜城が、実は幼少期にひどい目に遭っていてトラウマ持ち。そのギャップが男心をくすぐったのだ。

 亜城が恋愛に積極的とは思えない。亜城の生活に恋愛があるのは、彼に弱さがあったからだ。傷ついた体を持っているから構われ、恋に発展したのだ。

 瑞貴も、亜城も、辛い目に遭ってきたから幸せな今があるのではないか。そう思えてならなかった。結局一番強い手札は「被害者」だ。同情されるような過去を持つ人間は幸せを手に入れやすい。

 想像でしかないのに、卑屈になっていく心をどうすることもできない。……無性にイライラする。他人が聞いたら、苦労知らずのボンボンが何をほざいているんだと呆れるだろう。それも十分わかっている。自分の悩みは贅沢で身勝手だ。体に傷ひとつない自分が、辛い目に遭ってきたワルツを僻んではいけない。



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