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うしろめたい体

 ドアが開いて恭介が現れた。腰にバスタオルを巻いただけの格好にギョッとする。

「すみませんっ……おやすみ中に……」

 亜城を撒くために急遽押しかけたのだった。失礼極まりない。それに心の準備もまだだった。生徒会長をこんなに間近で見たのは初めてで、耀司は無意識に息を止めていた。「いいから入れ」という恭介の声で、ハッと呼吸する。

「し、失礼します……」

 恭介に続いて廊下を進み、リビングに入った。

 シックな家具で統一された部屋。ダイニングテーブルには何もなく、生活感はほとんどない。

「こんな時間に押しかけて、本当に申し訳ありません」

 再度謝る。

「俺もさっき帰ってきたところだ。帰宅時間はわからないから、勝手に時間を決められても困ると母には言ったんだが……古い人だからな。食事は決まった時間にするもので、それができない仕事なんか辞めろ言う」

 恭介はぶつぶつ言いながらアイランドキッチンに入り、ウォーターサーバーでグラスに水を注いだ。

 高校時代から男前の彼は目立っていたが、三十近くなった今ではそこに色香も加わって、いっそう魅力的だ。警察官だから、やっぱり鍛えているんだろうか。しなやかな筋肉に覆われた厚い肉体に、思わず目を奪われる。

「お仕事、大変なんですね。こんな時間まで……」

「それはお互い様だろ。こんな時間になったのも、俺がなかなか帰らなかったせいだろう」

 悪かったなと言って、恭介はグラスの水を飲み干し、シンクに置いた。

「いえっ……他の仕事が長引いてしまったんです。恭介さんのせいではありません」

 恭介が驚いたように目を丸くした。

「大変だな……」

「いえ、今日が特別なだけですから」

 熟睡していた、とは口が裂けても言えない。

「……母は外商員を家政婦か執事と勘違いしているんだ。俺の不規則な生活を心配するなら家政婦を雇えばいいのに、外商を寄越すなんて……あんただって迷惑だろう。今日は帰ってもらって構わない」

 声に疲れが滲んでいる。恭介の母が心配するのも当然だ。

「せっかくですから、何か作らせてください。今日は、夜ご飯を作りに来たんです」

 言った瞬間、しまったと思った。

 恭介はロンド……ロンドのための食材を何も用意していない。

「悪い助かる。本当は腹が減っていたんだ」

 恭介が男盛りの美貌を和ませた。

(やばい。マジでどうしよう……ワルツの肉なんて持って……持って……)

 瑛太がカバンに忍ばせたいかがわいい肉の存在を思い出し、耀司はゴクリと唾を飲んだ。

(いや、絶対にダメだ。これがワルツの肉である確証はない)

 お前の肉をやればいだろ。美味いんだから。

 瑛太の言葉が頭に過ぎった。

 傷ひとつない体に、自ら刃物を突き立てる……想像しただけで鳥肌が立った。できるはずがない。この綺麗な体は、自分が上流の人間であるという証なのだから。

 


 シルクのパジャマに着替えた恭介が、食卓についた。

 皿の上にあるのは、軽く焼いただけの肉。調理方法より、食材の質を非難される方がマシと思い、そうしたのだが、見た目だけでもコテコテに彩ったほうが良かったかもしれないと、耀司は早くも後悔していた。

 恭介がフォークを手に取り、細かく切った肉に突き刺す。

 それを口へ運ぶのを、耀司は固唾を飲んで見守る。

 一口噛むと、恭介の顔色が変わった。

 やっぱりあれも無味だったかと、耀司は落胆した。申し訳ありません、そう口にしようとした時だった。

 恭介の切長の目尻から、雫が垂れた。 

 耀司はギョッとし、唇を引き結ぶ。掛けるべき言葉を完全に見失った。

 恭介は、なんだこれはという風に、皿に乗った肉を見下ろす。

 もう一切れ、また一切れ、口へと運ぶ。そうして忙しく動いていた手が、ふいに止まった。フォークを置き、「すまん」と言って席を立つ。

「お口にっ……合いませんでしたか?」

「いや……そういうわけじゃない」

 顔を見られたくないのか、恭介は窓辺へ向かった。

「……その肉、どこで仕入れた」

「えっ……と……信頼できるバイヤーから、特別に譲り受けました」

「そうか……この肉体の身元は、わかるか?」

「さあ、そこまでは……あの、お味の方は……」

「美味かった」

 ホッと胸を撫で下ろす。ではあの涙は、美味すぎてというわけか。

「きっと豊な生活を送られている方なのでしょう。ワルツの味は、精神状態でも変化すると言われていますから」

「だが肉体を売ったということは、生活に困っているんじゃないのか」

 妙だ。学生時代、彼は学食を平然と残していた。ワルツの肉が皿に乗るまでの背景、事情など、考えもしなかったはずだ。

「調べてくれ。困っているなら、援助したい」

 いかにも金持ちが考えつきそうな、短絡的な発想だ。この人は何も変わっていないのだなと、耀司はホッとしたような、残念なような、なんともいえない心地になった。

 そうしてふと、学生時代、恭介から寵愛を受けていた男の存在を思い出した。

 三崎唯斗。恐ろしく美しい男で、誰もが彼を神に愛された存在だと信じ、羨んだ。

 彼がワクチンで亡くなったと聞いた時、会話を交わしたことのない耀司でさえ落ち込んだ。恭介のショックはひとしおだろう。

 ワルツの肉を咀嚼し、恭介は涙を流した。もしかしたら、三崎を失った悲しみがまだ癒えておらず、普段からささやかなきっかけで、突発的に泣いているのかもしれない。

 そう思ったら途端に気の毒に思えた。彼のような生粋の坊ちゃんが、警察組織でやっていくのも大変だろう。ご両親が心配して、外商員に世話役を頼む気持ちも理解できた。

「かしこまりました。身元が分かり次第、ご報告します」

 言うと、恭介は背を向けたままコックリと頷き、「頼む」と切実な声で言った。


 

 恭介さんがあの肉を気に入った。援助したいそうだから、ワルツの身元を教えてほしい。

 マンションを出て直ぐ、瑛太にそうメールを送ると、研究室においでと返ってきた。

 一体あいつはいつ寝ているのかと訝りつつ、耀司はタクシーを拾って研究室に向かった。

「瑛太くん。きみには人の心がないのかな?」

 パソコンに向かう瑛太を問い詰める。

「どうしてそうなるのさ。堂野さん、気に入ったんでしょ。だから用意してあげたんじゃないか」

「恭介さんは援助したいって言ってるんだよ。こんなにたっぷり持って行ったら気を失う」

 耀司は重みのあるビニール袋を掲げて言った。猫一匹分はあろうか。中には鮮烈な赤色の肉片がたっぷりと入っている。

「もしかして亡くなってるのか?」ビニール袋を上下に揺らす。「これ、生きてる人間から採れる量じゃないよな?」

「死んでたらなんだって言うんだ。ロンドはいちいち市場の肉の生死を気にするのか? この肉のワルツは幸せだろうか、不幸だろうか。そんなこと考えながら食卓に並べる肉を選ぶのか?」

「そこまで言ってないだろ。恭介さんはこの肉の身元を知りたがっているんだ。生きているか死んでいるか、気になるのは当然だろ」

「ふん、卑しい奴だな。自分好みの味だからって」

 ひどい言い草にムッとし、何か言ってやりたくなった。

「いつまで根に持ってんだ。高校の時のことは、お前が十ゼロで悪いだろ」

 三崎を強姦したというのは誤りだが、恭介の目を盗んで三崎と関係を持ったのは事実。それが露呈し、恭介に制裁を下されたのは自業自得だ。

「お前だって、三崎さんが亡くなったって聞いて、ショックを受けたんじゃないのか。恭介さんは幼馴染だったんだぞ。心に深い傷を負った人のことを、つまらない過去を引きずって悪く言うな」

「深い傷ね」

 瑛太は小馬鹿にしたように笑った。こちらを見ようともしない。

「瑞貴くんが眠っている間の一年を思い出せよ。瑞貴くんは目覚めたけど、三崎さんは亡くなったんだ。その悲しみを想像できないほど、お前は馬鹿じゃないだろ」

 それとも今が満たされているから、忘れてしまったのか?

 瑛太の瞳を覗き込む。いつも以上に何を考えているのかわからない。

「……想像力がないのはあの人だろ」

「なんだって?」

 彼の視線が、やっとモニターを離れ、ビニール袋に注がれた。

「懐かしの味を、恋人と結びつけることもできない」

 耀司は怪訝に首を傾げた。

 瑛太は椅子を回転させ、体ごとこちらを向いた。横柄な態度で足を組み、机に肘をつく。

「まだわからない? あの人はそれを一口食べて、どうだった? 泣いてなかった?」

 ドキリとした。どうして、恭介の反応を瑛太が予想できるのか。

 狼狽が顔に出ていたのだろう。瑛太は肩を揺すった。

「……そっか、泣いたんだ。十年ぶりに味わう恋人の肉は、泣くほど美味かったわけだ」

「お前っ……」

 ビニール袋の重みが増した気がした。手が震えた。

「勘違いするなよ」

 瑛太はすくと立ち上がった。たちすくむ耀司に詰め寄り、壁際へと追いやる。

「それは培養肉さ。本物は俺が美味しくいただいた。骨の髄までね」

 手のひらの汗が増し、ビニール袋がするりと抜け落ちそうになる。

 それを、瑛太にガッチリと手を握り込まれ、止められた。

「大事に扱えよ。培養肉でも、これは唯斗さんの肉だ」

「……いただいたって……どういう、意味だよ……」

「それがわからないほど、お前は馬鹿じゃないだろ?」

 こん、と背中が壁にぶつかった。腰が抜け、耀司はヘナヘナとへたり込む。

 いつの間にかビニール袋は瑛太の手に渡っていて、目の前で血肉が揺れていた。

「喰った……のか? ……高校時代みたいにっ……恭介さんの目を盗んでっ」

「唯斗さんに頼まれたからね」

「恭介さんは……知ってるのか」

「さあ? 警察官になったんなら、それなりの情報を持ってるはずだけど、どうだろうね。俺のところにはまだ来てないよ」

 耀司は身震いした。呼吸が荒くなる。

 目の前の血肉を見ていたら、吐き気が込み上げた。

「死のワクチンは体の構造を変えてしまう。唯斗さんの細胞は病魔に冒されながら、同時に培養化しやすく進化していた。唯斗さんは二十歳を迎えることなく死んでしまったけれど、肉体は永久に増やすことができる」

 涙目になりながら、耀司はブンブンと首を横に振った。

「そんなこと……許されるわけがないっ……お前はっ……ひどいよ。何も知らない恭介さんに……そんな肉を喰わせるなんて……」

 瑛太がしゃがんだ。顎をつままれ、顔が上向く。耀司は、これをされると力が入らない。友達というフラットな関係が崩壊し、飼い主とペットのような、歪な上下関係を錯覚してしまうのだ。

「でも、美味いって言ってたんだろう。きっとまた喰いたくなる」

 おくびが連続して込み上げ、言葉を発することができない。

「持ってけよ。唯斗さんの肉だって、本当のことを言ってもいい」

 言えるわけがない。耀司は首を振った。

「耀司」

 優しい目つき、声だった。瑛太は顔を寄せ、唇を重ねた。長い時間をかけて耀司の唾液を弄ぶように味わう。

「はっ……おま、えっ……」

 ふざけるのもいい加減にしろ。赤い目で睨むと、瑛太は優しげに微笑んだ。

「相変わらず美味いな」

 ワルツが悦ぶと知っているから。

 この笑顔と言葉を、山縣瑞貴はなんの疑いもなく、真っ直ぐ受け止めているのだろうか。

 耀司はすっかり勘繰る癖がついてしまった。

「瑞貴はね、俺が『美味い』って言ったら、すごく嬉しそうな顔をするんだよ」

 こちらの内心を見透かすような発言に、胸がよじれた。

「なんだよ……それっ」

 思わず声を荒げた。

「俺がっ……疑うから、悪いって言いたいのかっ! お前の言葉を信じないからっ! 嬉しそうにしないからっ……だから、俺じゃダメなのかっ…………確かに瑞貴くんは、お前の言葉を真正面から受け止めて、自殺未遂までしたもんなっ!」

 はっ、はっ、と息が上がった。瑛太の優しい眼差しを見るのが嫌で、俯く。

 涙で濡れた頬を、指先で撫でられた。

「耀司」

 耀司はまぶたを閉じた。この期に及んで、まだ期待している。素直な男がいいのなら、次に「美味い」と言われたら……今度は、彼の喜ぶ反応をしてみせよう。

「堂野さんが惚れた味だ。持っていけよ」

 いつの間にか強く握り込んでいた耀司の手を、指を、瑛太は一本ずつ開いていく。

 そしてビニール袋の端を握らせ、押さえつけるように耀司の手を握り込めた。

「モノを運ぶのが外商の仕事だろ」


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