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美味しくなろうね

 満月だった。パトカーのサイレン音を聞きながら、瑞貴は屋上のベンチに座っていた。瑛太は屋上の端に立って、夜空を見上げている。相当な数のパトカーが停まっているであろうことは、彼を下から照らす赤色灯の強さでわかる。

 瑛太は三崎を喰い殺した。赤い光に浮かび上がる青年を、瑞貴は尊敬に近い眼差しで見つめている。

「きみには言わなきゃいけないことと、聞きたいことがある」

 瑛太はこちらを振り返ると、感情の読めない口調で言った。瞳は異常なまでにギラついている。返り血を浴びたブレザーは肘に掛けていて、今着ているシャツはほとんど汚れていない。

「ひどいことを言って、すまなかった。一生かけても、償いきれない罪を犯した。俺は……ワルツが傷つく言葉を熟知していた。きみを傷つけるために、わざとそういう言葉を選んだ」

 彼は深々と頭を下げ、「本当に申し訳ありませんでした」と、改まって謝罪した。

「いや……罪を犯したのは、俺の方だ。言ってはいけないことを言った。瑛太くんが怒るのは当然だよ」

 自分だって、瑛太の立場なら怒ったはずだ。

 瑛太はすっと息を飲み、痛ましげに眉根を寄せた。罪悪感を感じているような表情に、何か言ってやらなければと焦ったが、気の利いた言葉は出てこない。

「伊藤くんから、全部聞いた」

「……そう」

 伊藤の嘘を真に受けていたことが、バレたのだ。恥ずかしくて、瑞貴はたまらず俯いた。

「難しい医学書を見せられて、それっぽい理屈をつけて説明されたら、信じちゃうよね」

 思いがけず優しい声。瑞貴は怯えるようにかぶりを振った。

「俺が……きみを喰おうとしないから、美味しくなろうとしてくれたんだよね。でも俺は、美味しそうに見えないとか、そそられないとか、そういう理由できみを拒絶したわけじゃない。……父さんが勝手にそういう手段をとったことに腹が立って、意地を張っていたんだ。それに、そのやり方は搾取みたいで嫌だった。リサイクルショップの売買と何が違うんだろうって……」

 瑛太は静かにベンチへ歩み、瑞貴の隣に座った。そっと拳を差し出す。

 なに? 隣を見れば、血で汚れた頬が目に入った。

 三崎が死んだというのに、瑞貴の胸に悲愴感はない。死は確実に彼に迫っていたし、なにより喰い殺されることを望んだのは彼だった。その望みを叶えた隣の男を、瑞貴は改めて好きになった。

「手、出して。きみに返すよ」

 言われ、手のひらを出すと、ささやかな重みが乗った。

「山縣瑞貴……名前を聞いてもわからなかった。きみは年下だと思っていたし、随分雰囲気も変わっていたから」

 瑛太は悔いるように言った。

 手のひらに落とされたのは、手首を切るのに使った凶器……豚の貯金箱の破片だった。

 大事にすると言ったのに、その日のうちに父に割られてしまった。中には五百円玉が二枚と、十円玉が三枚。父は喜んだが、瑞貴は泣いた。豚があまりにも可哀想で、申し訳なかった。

「よく、店に来てくれてた瑞貴くんだよね?」

 今更そんなふうに言われても、どう反応したらいいかわからない。自分はずっと、知っているものと思っていた。

 知らなかったからと言って、どうということでもない。はい、そうです。と答えて済む話だ。

 わかっているのに、ブワッと珠の汗が噴き出した。手のひらに落とされた豚の貯金箱の破片……自分はこれで、命を絶とうとした。

「すっ……すみませっ……」

 ひゅっと喉が鳴った。リサイクルショップで体を削り取られた日々、瑛太に「まずい」と言われた夜、便器の水の冷たさが、一挙にまざまざと蘇った。

「ごめんっ、嫌なこと思い出させちゃったね」

 瑛太が破片を取ろうとして、瑞貴は咄嗟に手を握り締めた。首を横に振る。

 強く握り締めれば、鋭利な部分が皮膚をチクチクと刺激する。この痛みが癒しだった。豚が受けた暴力に比べたら、自分はまだまだ、大丈夫。

「……怪我するから、手、開いて」

「俺っ……瑛太くんから、もらった貯金箱……割っちゃった……」

「貯金箱だから、割っていいんだよ」

「わっ……割らないって……言ったのに」

「血が出てる……」

 なおさら開けない。彼に傷口を見られたら、喰われることを望んでしまう。

「痛いでしょ、手、開いて」

 ぎゅうぎゅうと破片を握り締めた。

「俺……美味しくないから」

 瑛太がハッと息を詰め、瑞貴は自分が、的外れな失言をしたことに気づいた。

 喰うとか、そそられるとか、そういう話をしているわけではないのだ。カッと顔が熱くなる。

「そうだとしたら俺のせいだよ。俺はきみをたくさん傷つけたから。俺がそばにいるのも良くないかもしれない。……俺が隣にいるの、怖い?」

 瑞貴はかぶりを振った。自分は昔から彼のことが好きで、傷つけられたけれど、また惚れ直した。

「瑞貴くん、手、開いて。血が出てる」

 手ばかりに意識が向かっていたから、一瞬、何が起こったのかわからなかった。唇に温かいものがぶつかる。柔らかいものが押し入ってくる。

「ふっ……」

 口腔に血の匂いが広がった。

(三崎さん……)

 力が抜け、手が開いた。カラン、と破片が地面に落ちる。

 好きな男に唇を啄まれ、唾液を吸い上げられている。

 彼がこうするのは、同情や、罪滅ぼしかもしれない。

 でも瑞貴が望んだ行為だ。動機などいちいち気にするな。これは自分にとっての幸せだ。素直に受け止めて、噛み締めるのだ。

 幸せになろうね。幸せになったら、きっと美味しくなれるから。

 三崎の言葉が、瑞貴の臆病な心を後押しするように、胸に迫った。


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