美味しくなろうね
「堂野さん」
黒塗りのベンツに乗り込もうとする堂野を、背後から呼び止めた。
彼にも酷い目に遭わされた。肩越しにこちらをギロリと睨む目に怯みそうになるのをグッと堪え、瑞貴は笑いかけた。
「覚えてますか、俺のこと。……佐伯瑛太の食糧要員です。あなたの一言で、生徒会のロンドに喰い荒らされた」
ああ、怖い。怖くてたまらない。
「俺もここに入院しているんです。ちょっと話しませんか。……二人きりで」
要件は聞かれなかった。意外な相手に興味を持ったのだろう。
自室に堂野を連れ込むと、瑞貴は早速彼の首に両手を絡めた。
「なんの真似だ」
意志の強そうな眉を怪訝に寄せ、堂野は唸るように言った。
「わかりません? 俺を喰ってください」
堂野はさらに眉間のシワを深くする。瑞貴は不敵に笑った。
「三崎さんのこと、喰ってないんでしょう? 腹、減ってるんじゃないですか。喰ってくださいよ。味には自信ないけど、あの人よりはマシだと思うんで」
三崎の病室を訪ねると、彼はおとなしく布団を被って横になっていた。
でもよく見れば、細い腕は両サイドに革バンドで固定されていて、口にはタオルを咥えていた。
床に割れた花瓶は片付けられている。瑞貴はサイドテーブルに花籠を置いた。カサリ、と音が鳴り、三崎の腫れたまぶたが開く。
堂野が帰った後、三崎は癇癪を起こして病室を荒らした。カーテンレールを外し、花瓶を割り、その破片で喉を掻き切ろうとした。瑞貴はその光景を見て、察した。
それで、急いで正面玄関まで堂野を追いかけ、自室に連れ込んだのだった。
「三崎さん……」
口に詰め込まれたタオルを外した。
「……ふざけんな」
三崎が掠れた声で言う。
「きみのせいだ。きみが、悪趣味な香水なんか買ってくるからっ! どうせっ、化粧だって酷い仕上がりなんだろうっ!」
両手の拘束を解いた。死期の近い人間に、どうしてこんなことができるだろう。
「三崎さん」
「憎んでるなら、はっきりそう言えっ! こんな陰湿な方法でっ、俺を苦しめるなっ! もう俺に関わるなっ!」
「三崎さん、聞いて」
「嫌だっ! 出てけっ! どうせっ、俺が弱っていくのを見たいだけなんだろうっ! 俺が醜くなっていくのが、嬉しくて仕方がないんだろうっ!」
瑞貴はスマホを操作し、堂野とのやり取りを再生した。
『気色悪い。お前みたいなまずそうな奴、誰が喰うか』
吐き捨てるような堂野の声に、三崎がビクッと肩を震わせる。大丈夫ですよと、瑞貴は彼の手を握った。
『ひどいなあ。ま、いいや。三崎さんのこともそう思ってますもんね。あの人と一緒なら本望だ」
瑞貴の声。
『お前はまずくて、あいつは美味い。お前とあいつは全く違う』
『じゃあどうしてあの人のこと、喰わないんですか?』
『……病魔に冒され衰弱していく人間をっ……喰えるはずがないだろうっ!』
『それは怖いってことですか。病気で腐った人間を喰って、腹を壊すんじゃないかっ……っ』
ゴツン、と衝撃音。
堂野に殴られたこめかみが痛んだ。
『失せろ。お前みたいな思慮の浅い人間に、俺の気持ちはわからない。何年かかってもな』
『はい、わかりません……わからないから、教えてください。なんで三崎さんを喰わないんですか? 俺には、美味そうに見えないからとしか思えない』
『それはお前がロンドじゃないからだ。あいつの放つ匂いがわからないから、そんな的外れなことが言えるんだ。……あいつの匂いに耐えるのが、どれだけ大変かっ……どれだけっ、俺があいつを思っているかっ……』
『だったら喰えばいいじゃないですか。結局! 理性で耐えることができる、その程度の匂いってことでしょう。そそられないんでしょう!』
『俺は、散々あいつの体を喰ってきた。我慢したことなんて一度もない。だからあいつなら、俺がどれだけ我慢しているかわかるはずだ。耐えることで愛情を示しているんだと、最後まで愛されているんだと、わかるはずだ』
この時、瑞貴はこの人はダメだと思った。ワルツの気持ちをまるで理解していない。この人は、三崎を幸せにはできない。
「堂野さんは、本当は三崎さんのこと、すごく喰いたいと思っていたんです。我慢していたんです」
三崎の手を強く握り、瑞貴は言った。三崎はコクコクと頷く。
「……ごめん」
「いえ、三崎さんは悪くありません」
三崎はゆるゆるとかぶりを振った。
「恭介に……こんなこと言われて、辛かったよね」
ドキッとした。言葉の意味を理解したら、もうダメだった。涙が溢れて止まらない。
「痛かったよね」
どうしてこの人が死なないといけないんだろう。やるせなくて、理不尽で、瑞貴は引き攣った声を上げた。
「もっと、美味しくならないと」
三崎もわかっていない。そういう問題ではないのだと、瑞貴はかぶりを振るが、目が見えない三崎には伝わらない。
ふと視界の隅に、人影が映った。
堂野に失望した直後、瑞貴は瑛太の実家に電話した。「瑛太くんと会う決心がついた」「瑛太くんを呼んでほしい」と、彼の父親に頼んだのだ。
まさかこんなに早く来るとは思わず、そしてひどくやつれた瑛太の姿に、瑞貴は息をのんだ。
「美味しくなる方法、知ってる?」
三崎が言った。ヒヤリとした。
「知ってる?」
真っ先に、伊藤に言われた言葉を思い出した。
たくさんセックスすること。
かつて自分は、それを真に受け、美味しくなろうとバカみたいにやりまくった。
ネットで検索しても、その手の迷信は数多くヒットする。それっぽい理由をつけて。
美味しくなる方法は溢れすぎていて、どれが真実かわからない。瑞貴が自分の体をもって行き着いた答えは、「味は、後天的に変わることはない」だった。自分は一貫して、「まずい」と言われてきた。
「幸せになること」
三崎が言った。
「知ってた?」
「……いえ」
「嘘だと思う?」
三崎はふわりと微笑んだ。
「嘘じゃないよ。幸せになればなるほど、ワルツの肉体は美味しくなる。俺が美味しかったのは、幸せだったからだよ。中学時代も、高校時代も。俺は恭介に愛されて幸せだった」
瑛太をつまみ食いしちゃったけどねと、三崎は懐かしむように笑った。そして細い手を彷徨わせ、瑞貴の頬を触った。
「幸せになろうね。幸せになったら、きっと美味しくなれるから」
ガタン、と音がした。瑛太が後退り、壁に背中をぶつけたのだ。




