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美味しくなろうね

 看護師が告げた日付は、瑞貴が衝動的に命を絶とうとした日の翌日だった。

 反応の薄い瑞貴に、看護師は「丸一年、眠っていたのよ」と付け足す。それでも、(なんだ……死ななかったのか)という落胆が変わることはなく、瑞貴はぼんやりと天井を眺めた。

 体感では昨日の出来事だ。あの日のことは、鮮明に思い出すことができる。

 伊藤は美味いって言ってたぞ。

 瑞貴が強力なカードのつもりで放った言葉は、しかし瑛太の笑いを誘った。 

 ケタケタと腹を抱えて笑う瑛太の姿に、瑞貴はたまらなく不安になった。

 なんだよ、と震える声で問えば、彼は目尻にたまった涙を拭いながら、「伊藤くんはロンドじゃない」と言った。

 深い穴に突き落とされたような心地になった。頭がこんがらがって、パニックに陥る。口から絞り出されたのは、「嘘だ」だった。

 嘘じゃない。残念だけど彼はロンドじゃないよ。

 じゃあ、彼に血肉を吸われたことは? 精液や尿を求められたことは?

 ふふ、ないんでしょ。彼はただセックスがしたかっただけさ。俺と唯斗さんがしてるのを、彼は羨ましそうに見ていたからね。

 まあ、きみもいい思いしたんでしょ。嬉しそうに腰振ってたよね。……あれは引いたな。

 言葉で傷つけながら、瑛太は献身的に瑞貴の傷んだ体を手当てして、出ていった。

 その後すぐ、瑞貴は凶器を手に、嗚咽しながらトイレに向かった。

 手首を切って、水に浸した。

「吉田くんって、わかるよね? 委員長。彼が見つけてくれたのよ。あと少し遅れていたら、危なかったと思う」

 看護師が点滴を変えながら言う。

「一週間前も様子を見にきてたのよ。吉田くんと、佐伯くん。さっき連絡したから、二人ともすぐに来ると思う。……でも、嫌だったら追い返していいからね。佐伯くんのお父さんに、そう言われているから。入院費用は全部佐伯くんのお父さんが負担しているの。あなたの希望は全部叶えるから、これからのことは心配しなくていいって。……どうする? 吉田くんだけ部屋に入れる?」

 自分がどうしたいのかもよくわからなかった。手首を切る前は、容量以上に蓄積していたあらゆる感情が、今は欠乏している。

「……よくわからないんで、二人とも入れないでください」

 看護師は痛ましそうな顔をし、それをすぐに微笑みに変えた。

「わかった。目覚めたばかりだものね。落ち着いてからにしてほしいって、そう連絡しておくわ。ここにはいくらでもいていいから、焦らなくていいからね」

 感情が動くより先に、ジワリと涙が込み上げた。拭おうとするが、一年眠っていたブランクなのか、動作が鈍い。モタモタしていると、看護師がタオルで拭ってくれた。

「辛かったね」

 ぽん、と投げ落とされた言葉は、心の水面に波紋を立てた。

 辛かった。でもそれを口に出してはいけないと思い込んでいた。誰かが気づいてくれるのを、ひたすら待つしかなかった。

「よく頑張ったね」

 瑞貴は甘えるようにコクコクと頷き、ずずっと洟をすすった。


 

 病院は新しく清潔で、快適だった。瑞貴は最上階のVIPフロアに入院している。セキュリティ万全、全室個室。花の咲き乱れる屋上庭園や、リハビリ&トレーニングジム、ラウンジなど、VIPフロアの患者のみが利用できる施設も充実している。

 瑛太の父と相談し、一年休学していた学園を退学した。大学に行かせてくれると言うので、瑞貴は入院しながら高卒認定試験に向けて勉強している。

 平穏で、穏やかな毎日。たまに委員長が遊びに来てくれる。入院しながら大学を目指せばいいと提案したのは彼だった。そこまで迷惑は掛けられない、と躊躇う瑞貴に、彼は「遠慮なんかしないで、寄生すればいい」と言った。

 僕が行かなきゃ、きみは死んでいたんだよ。きみの体は酷い有様だった。散々喰って、レイプして……その上……きみに掛けた言葉を聞いて、僕は愕然とした。ワルツが味を貶されることが、どれだけ辛いか……僕は身内にワルツがいるから、わかるんだ。『まずい』って言われるのは、親族に首を絞められるのと同等のストレスがかかると言われている。彼がしたのは、殺人未遂だよ。

 だから遠慮なんかしなくていい。瑛太の父も、同じように言ってくれた。

 この日も瑞貴は屋上庭園をぷらぷらしていた。青空とか花とか、今までは気にも留めなかったものが、最近はやたら鮮やかに見えて新鮮だ。

 ここには自分を傷つけるものは何もない。身の危険のない平穏な日常は、見える景色すら変えてしまうらしい。

 この日常が永遠に続けばいい。誰にも傷つけられずに、求められずに。

 瑛太とは会っていない。瑞貴が拒んでいる。

 でも、このままでいいはずがない。自分が会いたいと言えば、彼は来る。きっと謝ってくれる。でも内心はどうだろう。そもそも事の発端は、瑞貴が「死んでもらわないと、ダメだ」と人の道を外れた発言をしたからだ。

 そして三崎が打ったとされるワクチンは、死のワクチンと呼ばれるようになった。ついに被験者以外の犠牲者が出たのだ。三崎もそのうち死ぬだろう。瑛太は、言霊の力を信じて、瑞貴の発言を憎んでいるかもしれない。

 それに自分は、瑛太の発言を自殺未遂の原因にして、こうして彼の実家の財力に寄生しているのだ。

 このままではいけない。わかっていても、会うのが怖い。死のワクチンを打った者は、二十歳を迎えることなく死ぬらしい。三崎は19歳……委員長の情報では、まだ訃報は入ってないという。瑛太は、どんどん口数が減っているという。

 患者が少ないのか、屋上庭園はいつも貸切状態だ。だから人影を見て驚いた。

 一体どんな人だろう。後ろ姿は青年にも、ボーイッシュな女性にも見えた。

「坊ちゃん!」

 足先を向けたと同時、背後から女の声が聞こえた。

 その患者が振り返り、瑞貴は凍りついた。

「坊ちゃんっ……勝手に部屋を出てはいけませんっ……」

 中年の女は、その患者の肩を抱き抱えるようにして、こちらへ向かってくる。

(三崎……)

 ドキドキと心臓が激しく波打った。足がすくんで、動けない。

 中年の女はすれ違いざま、瑞貴にぺこっと会釈した。

 瑞貴は三崎を見るが、三崎は、目は開いているのに、まるで気づかない。

 焦点が合っていない。瞳の色も、灰色に濁っていた。

「っ……」

 目が見えないのだと察した瞬間、ガツンと頭を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。

 二人の姿が見えなくなった後も、瑞貴はその場から動けなかった。

 三崎は、確実に死の階段を上がっている。

 責任を感じずにはいられなかった。あの時、自分は三崎が死ぬのを、強く望んだのだ。


 三崎の病室がわかった。

 世話になった先輩だと看護師に言ったら、拍子抜けするほどすんなり教えてくれたのだ。

「三崎くん、私たちには全く心を開いてくれないの。でもきっとすごく心細いと思う。良かったら話し相手になってあげて」

 鍵を開けてもらい、中へ入った。看護師は「帰る時はナースコールを押してね。施錠しに来るから」と言って、去っていった。

 まるでホテルのスイートルームだ。広々と開放的な部屋は、洗練されたインテリアで統一されている。三崎は天蓋付きのベッドにいた。体を起こして、耳にイヤホンをつけている。

 近づいても三崎は気づかなかった。サイドテーブルに置かれたスマホには、本の表紙が表示されている。再生中となっているから、音声で読んでいるのだろう。

 彼が気づかないのをいいことに、瑞貴はまじまじとその顔を観察した。

 造形は変わらず、美しい。でも頬はこけ、唇には艶も、色もない。目の下にはクマができていた。肌は青ざめ、見るからに不健康そうだ。

 この美しい男のことが、憎くて仕方がなかった。

 なのにどういうわけか息苦しさを覚えた。

「だっ、誰っ?」

 気配を察したのか、三崎が甲高い声をあげ、イヤホンを取った。

 キョロキョロと灰色の瞳を彷徨わせる。怯えきった姿に、余計に息が詰まった。

「えい……た?」

 心臓が跳ねた。

「瑛太……なの?」

 一歩後退った。

「瑛太……瑛太なんだろ?」

 三崎の虚ろな瞳から、涙が溢れた。

「瑛太……喰って。俺のこと……また喰ってよ」

「ち、違いますっ……」

 思わず、弾んだ声で言った。

「瑛太くんじゃ……ない、です」

「……じゃあ、誰? ロンド?」

 首を横に振って否定するが、三崎には伝わらない。

「……ロンドなら、喰ってよ」

 さらに一歩、後退ろうとして、足がもつれてその場に尻餅をついた。

「……喰ってよ」

「お、俺なんかが喰って……いいんですか。恋人……いるんじゃないんですか……」

 堂野を思い浮かべながら言った。

 三崎は両手で顔をおおい、声を上げて泣き出した。

 瑞貴は立ち上がり、三崎に駆け寄る。薄い背中をさすった。

「三崎さん……」

「……俺のことっ……知ってる、の……?」

 ゴクリと唾液を飲んだ。思案し、「同じ高校でした」と答える。

「……そう」

「三崎さんは……俺の恩人です」

 口から飛び出した自分の言葉に、瑞貴は狼狽した。

 馬鹿な。この男のせいで、自分は酷い目に遭ったのだ。死を強く願うほど、憎んだのではなかったか。

「三崎さんは、綺麗で、堂々としていて……みんなの視線を浴びて、輝いていた」

 自分でも、口から何が飛び出すのか、言うまでわからない。

「はたから見たら完璧で、何不自由ないように見えるのに、あなたは……嫉妬深かった」

 だから憎みきれないのだと、言いながら瑞貴は気づいた。

「嫉妬すらも、あなたは隠そうとしなかった。何もかも完璧で、全て手に入れているあなたには、嫉妬なんて似合わない。自分でも、自覚してなかったんじゃないですか」

 でもあれは嫉妬だった。瑛太の食糧要因としてやってきた転校生に、彼は堂野がいるにも関わらず、嫉妬した。

 嫉妬と気づいたのは、いつだっただろう。自殺未遂をして、目が覚めて。ここで生活するようになって、雲の形を何かに例えられるほどに、心に余裕ができた頃だろうか。

「……きみは」

「俺の体は……全然美味くないけれど、ひとつだけ、誇れることがある」

 憎めるわけがない。自殺未遂をして、助かったからといって、瑛太に言われた言葉が帳消しになるわけではない。何かで、傷ついた心を慰める必要があった。

「美味しくて、恵まれていて……俺なんかとは住む世界が違うあなたに、嫉妬されたことです」

 三崎の手を取り、握りしめた。彼の手はひんやりと冷たい。

「あなたに意地悪されて、辛かったけど…………救われたんです」

 三崎の、見えていないであろう目が、正確に瑞貴を捉えた。


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