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美味しくなろうね

時系列変わります

 太ももの傷が治りかけていた。

 このままでは、あそこに連れて行かれる。

 山縣瑞貴やまがたみずきは瘡蓋をベリッと剥がした。血が滲む。さらに隣の瘡蓋も剥がした。二の腕はどうだろう。顔を向けたその時だった。

「なにしてんだ」

 父親の低い声に、瑞貴は震え上がった。内心の怯えを悟られないよう、「別になんでも」とぞんざいに返す。ハーフパンツの裾をさりげなく戻し、立ち上がった。台所へ向かう。

 このボロアパートに瑞貴のパーソナル空間はない。足の踏み場もほとんどない。床には酒瓶やらコンビニ弁当やらが散乱していて、かろうじて見える合板フローリングの間にはチリや爪が挟まっている。瑞貴が掃除してもすぐ汚れるし、父は勝手に物を捨てられるのをひどく嫌う。何度かそれで父を怒らせ、殺されかけたので、瑞貴は極力手をつけないようにしていた。

 台所に立つと、玄関先にいた父がスッと瑞貴のそばに迫った。父が手を伸ばす気配に、瑞貴は思わず身構える。

 瑞貴は高校一年の年になる。高校に通うという選択肢はなく、この春からカラオケ店とコンビニで働き始めた。通いやすいという理由だけで選んだが、中学の同級生と顔を合わせるから結構気まずい。みな、瑞貴の家庭環境を知っているので、「頑張れよ」とか、「大変だな」と励ましてくれるが、あとで話のネタにされるんだろうと、瑞貴は卑屈に受け止めてしまい、素直に喜べなかった。

 170センチの父の身長に追いついた。なんなら父は猫背気味なので、並ぶと瑞貴の方が高い。それなのにそばに来られると体が緊張してしまうのは、物心ついた時から加えられてきた暴力のせいだ。

 父に、Tシャツの袖口をひょいとめくり上げられる。

「治ったな」

 父の手は、次にハーフパンツへと伸ばされる。瘡蓋を剥がした、ぷつぷつと血が浮かんだ患部に、父はグイッと指を押し込んだ。

「っ……」

 グニグニと肉の治り具合を探られ、瑞貴は痛みに歯を食いしばった。

「よし、ここも治ったな。ピックアップ行くから、支度しろ」

 隣町にあるリサイクルショップだ。ワルツの肉の売買をしており、父は金に困ると瑞貴をそこへ連れて行く。

 瑞貴はワルツだった。ピックアップが人肉売買を始めるまでは、瑞貴自身も、自分がワルツであることを知らなかった。周囲にロンドがおらず、誰にも指摘されなかったのだ。

 それが、ある時からピックアップが人肉売買を始め、その日はただ父と買い物に行っただけだったのに、店主に「肉の買い取りですか?」と問われ、判明した。

 だって息子さん、ワルツでしょう?

 肥え太った店主はキョトンと言った。

 およよっ! 知らなかった!? そりゃあお父さん、売らなきゃソンですよ、ソンっ! ワルツの体は高値で売れるんですからあっ! ところで息子さん、いくつです? ややっ、九歳っ! じゃあ今日は特上寿司だ。

 父さんっ!

 店主を「父さん」と呼んだのは、瑛太という少年だった。父との行動を極力避けたい瑞貴が、ピックアップにだけは喜んでついていくのは、彼と会えるのを期待してのことだった。

 初めてここへ来た日、陶器でできたブタの貯金箱を物珍しそうに見つめる瑞貴に、彼は「気になるの?」と優しく声をかけてくれた。余白の多い彼の双眸を、瑞貴は大人っぽいと思った。着ている服も、瑞貴が着ているヨレヨレのTシャツと違って、清潔感のあるポロシャツだ。

 彼が棚から貯金箱を手に取ると、チャリン、と音がした。

 え? お金が入ってるの?

 そう。いくらかわからないけどね。これは八百円だけど、もしかしたらそれよりお金が入ってるかもしれない。

 なんで売る前に取り出さないの?

 瑞貴には、貯金箱を割るという発想がなかった。

 お金を出すには、割らないといけないんだ。だからこのまま売ってる。

 割る? 豚さんを壊すの?

 瑞貴が困惑すると、彼は優しげに微笑んだ。

 うん。かわいそうでしょ。だからお金が貯まるんだよ。簡単に取り出せないからね。

 取り出せないなら、貯めても意味がないよ。

 大事にしていた分だけ、本当にお金が必要になった時、豚の貯金箱は役に立ってくれると思うよ。

 僕は割らないよ。

 瑞貴はそう言ったものの、そもそも貯金箱を買う金はない。それに気づいて顔を赤くしていると、彼は貯金箱を瑞貴に持たせ、「あげるよ」と言った。

 きみが使ってよ。大丈夫、これはね、本当は父さんが割ろうとしてたんだ。それを俺が止めたの。これを気に入ってくれた人に使って欲しいと思ったから。

 僕がもらっていいの?

 いいよ。

 この豚の貯金箱は、僕のもの。そう実感すると、陶器の手触りに意識がいった。冷たくて滑らか。豚の耳の尖りの、なんと愛らしいことか。

 指の腹で耳の角を撫で回す瑞貴を、彼は優しい眼差しで見守っていた。

 年上だと思った。だから瑞貴は「お兄ちゃん、ありがとう」と言った。

 その彼が、店主を「父さん」と呼び、「この人たちはお客さんだよっ、よく来てくれてるだろっ!」と血相を変えて店主に向かって訴える。

 無駄だった。瑞貴の父は瑞貴がワルツであることに驚きつつも、店主の儲け話に興味を持ち、すっかりその気になっていた。

 瑞貴は店の奥に連れられた。彼は店主を止めようと必死だったが、それが余計に、瑞貴の不安を煽った。自分はいったい、何をされるんだろう……

 仕事の邪魔をするんじゃない!

 部屋に入る直前で、彼は追い払われた。パタン、と扉が閉まる。瑞貴は店主と二人きりになった。

 店内映像の流れるモニターや、コピー機、ダンボールなどが置かれた狭い空間で、瑞貴は体を削られた。「初めてだから」と店主は気を遣い、ふくらはぎの裏側を、アイスクリームをくり取るような器具で傷つけたのだ。

 わあああっ

 あまりの激痛に、瑞貴は泣き叫んだ。それでも店主は反対側も削り取ろうと手を伸ばす。

 父さんっ! 嫌がってるじゃないかっ! やめてよっ! やめてっ! もう取ったんだろっ!

 ドアをダンダンと叩く音。助けてお兄ちゃん……瑞貴は泣き叫びながら、心の中で必死に助けを求めた。

 店主がチッと舌打ちする。カタン、と銀色のバットに器具を置いた。

 削り取った肉片は、親指ほどだろうか。それをジップバッグに入れ、店主はドアへと向かった。

 ほら、喰いたかったんだろう。やるからどっか行ってなさい。

 ドアの隙間からこちらを覗く彼と、目が合った。

 瑞貴は、ワルツと言われてもピンときていない。ワルツって、なんだったっけ。そのレベルだから、自分の身に何が起こっているのかさえ、ほとんど理解できていない。

 だから店主がジップバッグを彼に突き出した理由も、よくわからなかった。助けが来たと、嬉しくなった。

 けれど彼は、何かまずいことを瑞貴に知られたと思ったのか、激しく首を横に振り、去っていった。

 それから彼には会っていない。店には頻繁に行くようになったのに、一度も。

「行くぞ」

 父の後に続いて、瑞貴はアパートの階段を下りた。歩道から楽しげな声が聞こえてきて、反射的に俯く。すれ違いざま、「瑞貴?」と集団の一人が言ったが、すぐさま別の誰かが「ほっといてやれって」と突っ込んだ。

 瑞貴は歩を速め、集団との距離を広げた。

 早く忘れてくれ。俺という存在を、記憶から抹殺してくれ。そうしたところで、誰も困りはしないのだから。



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