性悪な兄は腐りかけ
止めに入ろうとした川口を、真記は軽々と突き飛ばし、住吉を殴り続ける。
剣道場だった。雪也は放心し、練習どころではなかった。そこで川口が真記を呼んで、今に至る。
事情を聞くなり真記は目の色を変え、稽古に打ち込む住吉に殴りかかった。剣道場を引き摺り回し、面も防具も剥ぎ取り、住吉を床に組み敷き、暴行した。
数人で止めに入ればいいのだろうが、真記の発散する怒気が凄まじく、皆、足が出ない。
川口は立ち上がると、道場を出ていった。まもなく、教師を連れて戻ってくる。大柄な教師でさえも、真記を止めるのに手こずっている。
また騒ぎを聞きつけた教師がやってきた。そばにいた部員に事情をきく。
「大吾が……室井先輩を責めたんです。『なんで黙ってた』『俺を道連れにする気か』って……」
「大吾、室井先輩の体、喰ってたんです。でも室井先輩……その……」
雪也は立ち上がる力もない。住吉に責め立てられ、ヘナヘナとその場にへたり込んでしまった。
「いい加減にしろっ!」
大柄な教師が力ずくで真記を引き剥がした。真記がゴロンと床を転がる。
(ああ、真記っ……)
雪也は我に返り、這うようにして真記の元へ向かった。
「真記……真記っ……」
真記はまだ殴り足りないようで、体を起こすなり住吉の方へ身を乗り出したが、雪也に抱きつかれ、ハッと視線を落とした。
真記の体は大きく喘いでいる。こめかみには青筋が立っている。こんなに感情を露わにした弟を、雪也は初めて見た。
「真記……なんで喰った……なんで喰ったんだよっ……」
真記は苦しそうに目を細めた。
「室井先輩……死のワクチンを打ってたみたいなんです」
部員が事情を説明する。
「大吾には『治験』って嘘ついて、腐った体を喰わせてたみたいなんです。それで大吾……怒っちゃって……」
「室井先輩を……つけたんです」
住吉が口元を拭い、ぬらりと立ち上がった。憎悪の視線を受け、雪也は真記の胸に顔を埋めた。
心臓がバクバクと騒がしい。尋常じゃない汗が噴き出した。
死のワクチンを打っていた。その事実に打ちのめされる。
父は、母の浮気に気づいていたのだ。当時、まだ死のワクチンは『4年で効果が切れた失敗作』という認識だった。けれど研究チームの間では、いずれ死に至ると予測が立っていたのだろう。父は母への復讐として、雪也に死のワクチンを打った。
「研究所の職員に聞いたら、治験なんてやってないって……室井先輩がやってるのは、治療だって……っ」
住吉はそう言うと、雄叫びのような奇声を上げた。
「室井先輩は確信犯ですっ! 俺を騙してっ、道連れにしようとしたっ! 命に関わることを黙っていたんですっ!」
「ユキ、立てるか?」
真記に腕を引かれるが、腰が上がらない。ひょいと抱え上げられた。
「室井っ! 待ちなさいっ!」
教師が呼び止める。
「後日、改めて説明します。俺がされたこと、兄さんがされたこと、洗いざらい全部」
真記は住吉をまっすぐ見つめ、「覚悟しとけよ、住吉」と言い捨て、道場を出た。
人気のない、特別棟の裏側。木漏れ日の下に真記は座った。雪也は隣に膝を抱えて座る。顔を上げることができなかった。ひたすらすすり泣くのを、真記は背中をさすりながら見守る。
父は優しかった。浮気相手との子供に優しくできたのは、命に期限を与えたからかもしれない。
「ここ、なかなかいいだろ。最近はここで昼飯食ってるんだ。今度ユキも来なよ。誰も来なくて気楽だよ」
日が暮れてきた。そろそろ帰ろうかと切り出すつもりなのか、真記は明るい口調で言った。
「……知ってたんだろ」
雪也は卑屈に返す。
「僕が腐ってるって、知ってたんだろっ! なのにっ……なんで喰ったんだ……」
治験の薬漬けとはわけが違う。治験は、真記に喰ってもらうことで、大丈夫だと安心することができた。
でも死のワクチンは、結果が決まっている。知っていたら喰わせなかった。
「なんで喰ったんだよっ! 死ぬんだぞっ!」
顔を上げ、真記に掴み掛かった。
「なんでっ……お前は出来が良くて、モテて……僕なんか喰わなくたって、十分やっていけるだろっ……なんでっ……意地悪に付き合ってまで……」
「意地悪?」
真記は微笑んだ。顔を寄せてきたから、雪也は両手で顔を覆い隠した。涙を舐められるかもしれない。キスされるかもしれない。腐った自分を喰わせたくなかった。
「意地悪って何が?」
手首を取られ、抵抗するがあっさり引き剥がされた。頬に流れる雫を舐められる。
「や、やめろっ……」
「ユキが一番うまい」
「それはっ……ワクチンのおかげだろ……」
「迷信だよ」
肩口を掴まれ、押し倒される。土の上に溜まった落ち葉がカサリと鳴った。
真記は雪也の頬をぺろぺろと舐めた。
「やめろっ……真記がっ、死んじゃう……」
真記に、腐った体を喰わせている。血の気が引き、ボロボロと涙が溢れた。
「真記っ……いやだ……離れてっ……」
「大丈夫。俺も、ユキも死なない。死ぬもんか」
「死んじゃう……死んじゃうって、佐伯さんがっ……」
「あの人はちょっと意地悪なところがあるんだよ。ユキも知ってるだろ。もしかしたらあの人は、こうなることを予想していたのかもしれない。ユキを不安にさせたかったんだ」
そうだとしたら意地悪なんて可愛いものじゃない。鬼畜。人でなし。不安にさせたいからと、安易についていい嘘じゃない。命が掛かっているのだ。
なのに真記は上機嫌にキスを降らせてくる。
「ユキ……ユキは俺が死んだら悲しい? 死んでほしくない?」
たまらないというふうに、真記は唇を重ねてくる。舌で口腔を弄られ、腰のあたりがジンと痺れた。
「自分のことより、俺のこと心配してくれたよな。俺のことが好きなんだ」
小さく笑うと、真記は再び唇を重ね、唇をやわく食んだ。
「んっ……」
真記の背中に両手を絡めた。
「ユキが……死のワクチンを打ってるって知って、目の前が真っ暗になった。死んでもいいと思った」
体がゾクリと震えた。
「ワクチンを打ったワルツを喰うと死ぬ……あの迷信が本当ならいいのにって思った。そうしたら俺も一緒にあの世に行けるのにって……でも佐伯さんは、あれは迷信だと言い切って、ユキは自分が救うと約束してくれた」
「でも……でも、真記は……量が」
真記はクスッと笑って、戯れるようなキスを額に落とした。
「俺はユキばかり喰ってたからな。子供の時から、ユキだけだ」
ゾッとした。真記が死ぬのは嫌だ。目の前が真っ暗になる。
「……いやだ……真記が死ぬのは嫌だっ……」
「死なない。一緒に生きよう」
「でも……真記は、ずっと僕を」
「佐伯さん、死のワクチンを打ったワルツを喰ったんだって」
話のわからない奴だ。雪也は苛立って、ブンブンとかぶりを振った。
「あの人とは、量が違うだろっ……」
「骨の髄まで喰ったんだよ。全部。余すことなく」
きみは本当に愛されてるね。
ぽん、と佐伯の言葉が蘇った。
「ああ……」
真記は腐った体とわかっていて、雪也を喰っていた。それを愛されていると言わず、なんと言うだろう。
「……佐伯さんは、その人のことが本当に好きだったんだね」
雪也が言うと、真記は微笑んだ。彼の目尻から涙がこぼれ落ちた。
「うん、愛していたんだよ」
唇を重ね、音の立つキスをした。
「ふっ……真記っ……」
「一緒に死にたいと願うくらい」
血が激しく巡る。目も眩むような快感だった。陶然とする意識に身を委ね、雪也は「僕も真記が好き」と白状した。
「ユキ……」
真記は雪也の唇を貪ると、「すごく甘い」と言った。




