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性悪な兄は腐りかけ

 注射を打たれると、数十秒で視界が歪み、手足が痺れ出した。

「どう? 気分は?」

 佐伯は相変わらず軽々しい。

「最悪」

「ふふ、だろうね。今日は強めの薬を使ったから」

「……怖いんですけど」

「大丈夫」

「これ、いつまで続くんですか……」

「薬物投与はあと三ヶ月は続けたいかな。その後も経過観察で三年は通ってもらう」

「三年っ……」

「死のワクチンの事例があるからね」

「あれは二十年じゃないですか。っていうか、やっぱり僕が打たれてるのって、あれくらい危険なものってこと?」

「あれとは全然違うから、心配しなくていい」

「そう言われたって……」

「ふふ、まあ不安だよね。でも……」

 佐伯は雪也のシャツを捲り上げた。真新しい傷が露わになる。

「不安だからって、あんまり喰わせちゃいけないよ。どんな副作用が出るか分からないんだから。相手は真記くん?」

 カッと顔が熱くなった。相手は住吉だ。

 住吉の謹慎期間が終わり、母親が言った通りになった。真記は一部の学生から嫌がらせを受けている。「俺がなんとかします。任せてください」そう住吉に言われると、断れないのだ。

 真記とはキスだけで、血肉は与えていない。だから今も住吉との関係が続いていることを、真記は知らない。

「きみは本当に愛されてるね」

 佐伯が言った。雪也は怪訝に眉根を寄せる。

 確かに真記には好かれている。愛されていると感じる。でもお前に何がわかるんだと、反発心が芽生えた。喰われた体を見ただけじゃないか。他人にはそう思われるのか。こっちは奪われている側なのに。

「僕は喰われているだけです。真記は腹を満たしたいだけだ」

「でも真記くん、かっこいいよね。モテると思うよ。学年に五人くらいはワルツがいるだろうし、きみを喰う必要はないと思うんだよね」

「あいつ、全然モテないですよ。むしろ嫌われてます」

「そう仕向けたのはきみだろ」

 佐伯の目つきが変わった。何もかもお見通しのような目。

「真記くんが青あざを作ってここへやってきた日、歩き方がおかしかったから問い詰めたんだよ。殴られる以外のことをされたのかって。変なところ筋肉痛っぽかったからね」

 瞳が泳いだ。心の動揺を悟られないよう、雪也は俯く。

「ワルツは被害者になりがちだけど、ずる賢い人間はそれを利用してロンドを言いなりにしたり、たらし込む。でもワルツに罪の意識はない。ワルツは被害者意識が強いからね。きみもそうでしょ。きみと真記くん、どっちが主導権を握っているか一目でわかったよ。でもきみは自分が被害者のつもりでいる。どうせ、真記くんの能力も自分が分け与えたものとでも思ってるんだろ」

 サッと背筋が凍りつく。

「真記くんがどんどんかっこよくなっていくのが気に入らないんだろ。きみは綺麗な顔してるけど、男らしくはないからね。剣道を始めたのも、彼への対抗意識からだろう。どんな気分だった? 中学から始めた彼に手加減されるのは」

「……なんでそんなこと、あんたに言われなくちゃいけないんだ」

 声が掠れた。

「きみが、あまりにも無知で意地悪だから、頭にきたんだよ」

 佐伯はモニターに目をやった。雪也は、自分の立場を思い出す。

「僕は、あんたの研究に付き合ってやってるのに。こんなに痛い思いをして」

 佐伯はため息をついた。呆れたようにこちらを見る。

「本当に能天気だね、きみは」

 言い返そうと口を開くが、吐き気が込み上げ、断念する。鼻の奥がつんとした。赤い目で、佐伯を睨む。

「真記くんはきみから何も奪っちゃいない。彼の能力は生まれ持っての性質と、努力だよ。それをきみは奪われたんだと思い込んで、彼を憎んで、自分との違いに劣等感を拗らせた。お父さんに似ていく彼を、きみは脅威に感じていた。やっぱり自分は浮気相手との子……そう暴かれていくようで、差が開いていくのが怖かったんだ」

 ズバリ言い当てられ、動悸がした。これ以上喋らせたら、決定打を打たれる気がした。

「そして、お父さんが自殺した」

「……っ」

「葬式の時、きみは呆然としていたね。参列者の陰口を聞くまいと、心をシャットアウトしていたのかもしれない。正解だよ。あそこにはいろんな言葉が飛び交っていたから」

 耳を塞ごうとした雪也の手を、佐伯が素早く掴む。

「真記くんは気丈だったよ。俺のところに来て、お父さんのことを聞きたがった。本当に自殺なのか、動機がわからないってね」

「真記がっ……?」

「俺も腑に落ちなかったから、彼と一緒に調査した」

 調査、という単語にヒヤリとした。きっと母に説明したのは建前で、真実は別にある。

「……だからね、俺は、きみが真記くんにしたことを知っているんだよ。たった一滴の汗も与えなかっただろう。やっと顔色が戻ったと思ったら、少し手が触れただけでビクつく。何があったか察した。きみはワルツの体を利用して彼を」

「佐伯さん」

 凛とした声が、佐伯の言葉を遮った。

 真記だった。涙目の雪也を見て、彼は目を丸くした。

「ごめん、意地悪しちゃった」

 佐伯がケロリと謝る。

「ふらつくだろうけど、もう帰っていいよ。経過は良好」

 佐伯は隣の部屋、鏡張りのドアへと向かう。

 真記は姿勢を正し、頭を下げた。佐伯が部屋を出ていくと、ベッドへ駆け寄ってきた。

「ユキ、調子は? 少し休んでから帰るか?」

 優しく頭を撫でられる。

「……父さん、なんで自殺したの?」

 真記がハッと息をのんだ。顔を上げ、鏡張りの隣の部屋を睨みつける。

 すぐさま視線を雪也に戻した。

「佐伯さんに、何か言われたのか?」

「真記と……自殺の動機を調査したって……」

 二人は何を知ったのだろう。遺書とか、出てきたのだろうか。たとえばそこには、「雪也の成長を見るのが耐えられない」とか、書かれていたんじゃ……

 ゾッと総毛立った。寒気がし、両手をクロスして肘をさする。

「ユキ……」

 真記に抱きしめられた。

「真記……知ってるなら、言えよ」

 真記は抱きしめる力を強くするだけで、何も言わない。

「言えよっ!」

「……あの人は逃げたんだ」

 真記は泣きそうな声で言った。雪也はコクコクと頷く。身構えていたから、想像していたほどのダメージはない。

(やっぱり父さんは、僕の成長を見るのが嫌だったんだ)

「真記は、僕が憎い?」

「憎いわけない。好きだよ」

 雪也は何度も唾液を飲み込むと、「ならいい」と答えた。


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